精選版 日本国語大辞典 「学校」の意味・読み・例文・類語
がっ‐こう ガクカウ【学校】
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一定の教育目的を達成するために、継続的、計画的に教育活動の営まれる組織であり、教育をする者、教育を受ける者、および教育活動に必要な施設設備を中心に構成される。教育は、もともと人間のあらゆる生活活動のなかにいつも存在するものであり、人間が社会生活を始めて以来、今日に至るまで連綿と継続してきたものである。そのような教育は、社会生活の変遷を通じて、直接に間接になんらかの方向に無意図的に人間形成が行われてきた段階から、しだいに一定の目的と形式のもとに営まれる意図的な形成作用を含むような段階にまで到達するようになった。なんらかの教育目的を達成するためには、一定の期間に、継続的にまとまった教育の行われる場を必要とする。その場は、教育目的がより能率的合理的に実現できるように、整った教授組織や学習計画をもち、それに見合った施設や設備が用意される。そのなかには、わが国の江戸時代にみられた寺子屋のように、お師匠さん1人で簡単な読み書きを教えるものもあれば、今日の学校のように多数の教員と児童・生徒等を擁する大規模な組織のもとに、長期にわたって計画的な教育を行うものもある。施設においても、小さなバラックの一隅を借りたものから、広大な校舎と優れた設備を完備するものまである。
教育という事業が社会的に広く有用であると認められるようになれば、それが営まれることはしだいに社会的な慣行となって定着する。さらに社会の発展に伴い、より組織的体系的な教育が要求されるようになると、国家はそれに必要な法律を制定して、教育機関の設置や運営を図ろうとする。そのような教育の場が、現在われわれの周辺に存在する学校である。学校の発達する過程において、一つの学校だけでは社会の多様な教育要求を満たすことができなくなると、さまざまな教育目的をもつ学校が、さまざまな系統や段階に組み合わされて一つの学校体系を構成する。
[真野宮雄]
学校は、人間の社会生活の変遷に伴う、さまざまな必要から成立してきた。
[真野宮雄]
原始社会の人間は、食物を獲得したり、住居をつくったり、動植物を飼育栽培したりすることや、そのために必要な身体を強健にすべきことなどを自ら覚えたり、家族や社会集団を通して、その知識や技術を代々伝達するようになった。このような伝達は、家庭生活や社会生活のなかで、日常的に無意図的に行われていたものである。ところが、集団生活の発達とともに、彼らにとっては集団の安定を図ることが自分たちの生活の安定につながるようになるので、それぞれのメンバーは、自分たちの集団生活を守るために尽くさなければならなくなる。そのため、社会集団では、内では集団における秩序の維持を、外に向かっては他の集団からの攻撃に対する防衛のために、集団のメンバー同士が互いに一定の資質や能力をもつことを要求しあう。そこで、とくに集団内の子供たちが大人になるときに、その集団における正式の一員となるための訓練および承認を受ける場として、入社式とよばれる一つの教育的習俗を生ずるのである。
この習俗は、長老たちの手によってその集団の若者たちに施されるもので、その目的は、(1)集団の成員として十分に奉仕できるような強健な身体を備えること、(2)集団の伝承的な知識を習得し、集団の宗教的儀式に参加すること、(3)集団の組織内における自己の位置を自覚し、集団に対する絶対的な忠誠心を養うこと、(4)外敵に対して集団を防衛できる十分な戦闘能力を身につけること、などとされていたという。これは、人間の集団生活を維持するための必要から生まれた計画的な集団教育の組織として、もっとも古くからみられた慣行といわれる。もともと入社式は、集団のメンバーすべてに施されるものであったが、社会集団において支配したり支配されたりする階層が発達するのに伴って、特定の階層だけのための教育組織に移行する。その典型は、古代ギリシアのスパルタや初期のアテネなどの都市国家に認められる。
集団生活の必要から生まれた教育組織はわが国にもみられる。江戸時代に、村の若者たちによって構成された若者組(あるいは若者衆、若衆連など)はその代表例である。若者組は、村の若者が一定年齢に達するとかならず加入すべき義務があり、村の祭礼行事や娯楽的催しの主役を務めたり、村内の警備や共同労働に従事するなどの社会的機能をもっていた。それとともに、若者たちは、若者組における団体生活を通じておのずから村落生活に対する認識を深め、村落の集団生活に必要な生産技術なども習得して、村落の成員にふさわしい人格の形成や能力の発展を図った。
その後の近代国家における国民教育のための学校にも、大規模な集団教育の組織として、これらと共通な意図や内容が認められるのである。
[真野宮雄]
人間が自らの信仰を深めることは、その精神生活において重要な意味をもつ。ヨーロッパにおいて、キリスト教による教化事業は、すでに古代末期より行われていたが、中世にはヨーロッパ各地における教会制度の発達に伴って、組織的に拡大されていった。そのために、各寺院や修道院ではまず僧侶(そうりょ)養成を目的とする学校を設け、さらに信者教育を目ざす教会付属学校などの設置も図るようになる。宗教改革以後には、さらに新しい宗派の信仰生活を広く民衆一般に普及するために、学校を通してすべての民衆子弟に対する宗教教育を強化することがますます求められるようになった。しかし、宗教教育のための学校の組織化には、その背景に強大な推進機構を必要とする。その結果、教会と世俗権力との結合をもたらし、やがて国家の確立とともに、宗教教育は国家のためのイデオロギー教育として、あるいは救貧政策の一環として、国家に利用されるという傾向に陥るのである。
[真野宮雄]
社会階層の分化とともに、支配者あるいは貴族階級は、奴隷の労働や農民たちの労働のうえに安住するようになり、もっぱら毎日の貴族生活を送るための教養、あるいはその社会的地位を飾るのにふさわしい教養を身につけることを求めた。古代ギリシアのアテネ後期における貴族たちは、奴隷の労働によって生み出された閑暇(skholēギリシア語の閑暇という意味から、閑暇を利用して教養を身につける時間、さらに教養を身につける場所と転じ、学校schoolの語源となる)を利用して、アテネ各地に設けられた学塾に通い、自分たちの貴族的教養を豊かにすることにふけっていたという。貴族たちの教養のための教育は、中世以後になると教会付属学校や宮廷学校などに受け継がれ、さらにルネサンス期には、古代ラテン語やギリシア語による人文主義教育を行う古典語学校がヨーロッパ各地に生まれ、全人的、調和的な教育を目ざそうとした。その内容は、しだいに文法、修辞学、論理学(弁証法)、および算術、幾何、天文学、音楽などのいわゆる自由七科seven liveral artsとしてまとめられ、それに宗教教育や身体教育などを加えることもあった。しかし、16世紀以後には古典語教育の形式的な側面だけが、上流階級の地位を飾るための教養として伝えられていったのである。
[真野宮雄]
農業中心の時代から、しだいに商工業活動などが盛んになるにつれて、一般民衆の社会生活にもさまざまな変化が生じてくる。とくに中小商人や手工業者にとっては、まず日常語の読み書きや計算の能力が生活上欠くことのできない道具となる。近世以後のヨーロッパの商業都市には、スリー・アールズ3R's(読みreading、書きwriting、算術arithmeticのこと。わが国では、読み、書き、そろばん、といわれた)を教えるための公設公営の学校や私塾が生まれるようになった。わが国の江戸時代における寺子屋も、同様の背景によるものである。一方、商工業などに関する職業訓練は、初めのうちはほとんど徒弟制度に依存していたが、その後の資本主義経済の発展とともに消滅し、職業学校における組織的な職業教育に変わっていくのである。このように、スリー・アールズの教育あるいは職業訓練のための組織の発生は、民衆の経済生活の発展による日常生活の変化に負うところが大きい。しかし彼らには、上流階級のように、自分たちに必要な教育を自分たちの力で広く組織化することはほとんどできなかった。そのため、近代国家の成立以後、国家の力によって、その国民教育の組織のなかに組み入れられていくのである。
[真野宮雄]
社会生活の発展に伴って、教育の目的、対象、内容、水準などをそれぞれ明確にする学校が発達し、やがてヨーロッパなどでは、それらが二つの学校教育の系統に組み合わされた学校体系を構成するようになる。
[真野宮雄]
ヨーロッパでは12、13世紀ごろになると、裁判官、弁護士、医師、聖職者などの新しい専門職業への需要が高まってきた。そこで、当時の西ヨーロッパ各地からは、新たな職業を目ざした多数の青年たちが、法学、医学、神学などの高等の専門学術の習得を求めて著名な学者の塾に集まり、やがてそれらを中心に学校町(まち)(ラテン語でstudium)が形成されるようになった。彼らは、自分たちの身分や利益を擁護するために、当時の商人や職人のギルドに倣った学徒組合(ラテン語でuniversitas)を結成し、その特権を手に入れるために法王や国王からの特許状による公認を得ようとした。これがヨーロッパにおける中世の大学の起源とされ、なかでもボローニャ、サレルノ、パリ、オックスフォードなどが最古のものといわれている。このような中世大学の成立は、後世の大学自治の原型を示し、その多くが今日なお各国において伝統的な大学として存続している。しかし、大学の創設当初にみられた自由な特質は、やがて教会や国家の保護・干渉によって制約されたり、あるいはゆがめられ、また古典語中心の学問研究は保守的貴族的な性格をますます強め、しだいに形式的な貴族的教養だけに役だてられるようになったのである。
一方、ルネサンスの影響によって、古典を中心とする教養教育のための学校が、教会付属学校から独立したり、あるいは新しく設立され始めた。これらの古典語学校は、今日のヨーロッパにおける主要な伝統的中等学校の基礎を形成するものであり、イギリスのグラマー・スクールgrammar schoolやパブリック・スクールpublic school、あるいはドイツのギムナジウムGymnasium(ドイツ語)などに代表されている。しかし、その後の大学の保守化、貴族化とともに、大学がその入学資格をこれら古典語学校の卒業生とするようになったことなどから、古典語学校はしだいに大学の下位に接続する中等学校となり、本来の独立した地位を失って、もっぱら大学の予備校としての役割を果たすに至った。ここに、貴族階級の子弟を対象に、主として教養教育を与えようとする教育組織が、「大学→中等学校」という一つの学校系統を成立させる。しかも、中等学校は、大学への入学準備の必要から、しだいに学年を下級段階へ延長していった。したがって、この学校系統は、その発達の仕方からみると、大学を最高教育機関として、「上から下へ」順次に構築されるという特徴をもつので、下構型学校系統といわれる。また、この学校系統は、もともとの成立目的から教養的学校系統、その教育の対象から貴族学校系統、さらに中等学校が基礎になっていることから中等学校系統ともいわれるのである。
このように、中等学校から大学に至る教養教育のための特権的な学校系統は、その後、教育内容において近代的教科を加えたり、また教育対象を新興階級にも拡大して、彼らの上流階級へ接近しようとする要求にも応ずるようになっていった。しかし、相変わらず社会的なエリート層を育成しようとする役割を続けていくのである。
[真野宮雄]
一般庶民の日常生活のための学校は、長い間、不完全かつ貧弱なままに放置されていた。結局、彼らの学校の整備や組織化は、ほとんど教会や国家などの力によって進められる社会政策ないし教育政策の拡大に依存しなければならなかった。ヨーロッパでは、彼らの学校が各国家の政策対象とされる以前には、しばらく宗教団体や民間団体による教育普及運動にゆだねられていたことも多い。19世紀に入ると近代国家では、国民教育の拡充のために、ようやく初等教育の組織をつくるための国家関与を強めたり、さらには法律によって義務教育なども定めるようになってきた。このようにして成立した各国の初等教育制度は、学年制の発達とともに上級段階へ延長され、教育内容も初歩的な読み書きから、やがて職業補習教育や職業教育までも含むようになる。とくに19世紀末以後の資本主義諸国間に生じた産業競争の影響は、それぞれの国の産業教育の振興政策となって現れ、多数の下級技術者を養成するための職業学校の拡大を生じてきたのである。
近代国家では、このような民衆子弟を対象とした国民教育の強化と職業教育の振興を目ざす教育政策によって、「小学校→補習学校または職業学校」のように「下から上へ」向かって順次に構築される学校系統がしだいに形成されてきた。そこで、この学校系統は、その発達の仕方から上構型学校系統とよばれ、また、もともと民衆の日常生活、とくに経済生活に有用な知識や職業技術を授けるために発達した経過から職業的学校系統ということもできる。さらにその教育対象から庶民学校系統、基礎となる学校の種類から小学校系統ともいわれる。この学校系統は、すでに成立していた下構型学校系統に対して、しばらくの間まったく並列的に発達するのである。
[真野宮雄]
下構型学校系統と上構型学校系統の成立によって、二つの学校教育がそれぞれ分かれて行われるようになったのは、とくに19世紀後半から20世紀にかけてのヨーロッパ諸国においてである。これは、ヨーロッパ諸国における貴族と庶民という二つの階級の長い歴史を背景としていたからである。ところが、階級分化がヨーロッパほど明確ではなく、またその歴史も浅いアメリカでは、二つの学校教育もそれほど明確に現れることはなく、ほとんど単一の学校系統のなかにさまざまな学校が含まれていた。したがってアメリカの学校は、ヨーロッパのように学校系統の違いによって教育目的や内容を異にするよりも、むしろ初等、中等、高等という教育水準に基づいて、それぞれの学校段階に分けられ、それぞれの段階に応じた教育を行うようになった。
ヨーロッパにおいて発達した学校体系は、複数の学校系統が並列し、ほとんど交差することがない。すなわち、社会的な地位や身分によって初めから入学すべき学校系統およびその後の進路が別々に定められ、本人の能力や希望とは無関係に、その学校系統に属する学校だけで教育を受けることとなり、別の学校系統の学校へはほとんど進学できないという仕組みになっていた。それに対してアメリカの場合は、単一の学校系統であるため、上級段階の学校への進学や卒業後の進路において、社会的な地位や身分などによる制約があまり認められないという。このように、ヨーロッパとアメリカとではまったく正反対の学校体系となっており、前者を複線型学校体系、後者を単線型学校体系と称する。また、この二つの学校体系を両極として、その中間には分岐型学校体系が存在する。
[真野宮雄]
個人の自由・平等についての権利思想は、フランスの市民革命やアメリカの独立革命などをきっかけとして芽生えてくる。それは、やがて教育のうえでは、教育の機会均等の要求となり、そのための学校制度改革が進められるようになるが、その歴史的な背景としては、19世紀における近代公教育の発展があげられる。
[真野宮雄]
近代国家では、新しい市民社会を確立するために、個人の自由・平等とともに、市民としての教育を受ける責任も求められるようになる。教育を受けることが、個人の利益としてだけではなく、一市民の責任として、公共的な性格をもつものと考えられるようになってきたのである。市民に広く教育を普及させるために、公立学校を設けようとする動きは、19世紀のアメリカなどを中心にみられる。しかし他方では、工場制工業の発展によって多数の年少労働者の発生など、多くの社会問題も現れてくる。各国では、このような教育の受けられない状態から子供たちを保護して、学校教育を受けさせようとする立場からも、しだいに義務教育を定めるようになった。また、教育を受ける個人の経済的な負担を少なくするために、無償教育も採用され、授業料やさらに教科書の無償なども取り上げられるようになった。さらに、学校で受ける教育の内容が、学習者自身にとって、その将来の幸福や利益にも役だつように、宗教的、政治的な立場からの強制を排除すべきだという考えも広まり、教育の宗教的・政治的中立性を定める国家も増加し始めたのである。このようにして、近代公教育を実現するための学校は、すでに19世紀後半に成立し始めていたが、教育の機会を不均等にする学校制度を改革しなければ、根本的な解決とはならなかったのである。
[真野宮雄]
ヨーロッパでは、教育を受ける機会を均等化するために、複線型学校体系を改革し、すべての者に初等教育以上の中等教育、さらには高等教育を受けられるようにする必要があった。その具体化は、19世紀末からのドイツや第一次世界大戦中のフランスで展開された統一学校(ドイツ語でEinheitsschule、フランス語でécole unique)の運動、あるいは第一次世界大戦後のイギリスにおける中等学校の開放運動などにみられる。これらの運動は、すべての国民に対して同一の学校で同一の初等教育を与え、それ以後の学校教育についても、それぞれの能力と希望に応じて教育を受けることのできる機会を開放しようとするものであった。そのためには、複線型学校体系における最初の4~6年間の教育を一つの初等学校に統一する分岐型学校体系の樹立が、当面の改革目標とされたのである。その結果ドイツでは第一次世界大戦後のワイマール共和国憲法(1919)において、フランスでは第二次世界大戦後のベルトワン改革(フランス語でRéforme Berthoin)において、またイギリスでは1944年教育法において、それぞれようやく中等学校への道が広く開放されるようになった。
一方アメリカでは、すでに19世紀後半に八・四制を中心とする単線型学校体系がほぼ成立していた。しかし実際には、8年間の初等教育の期間中に中途退学者が増加したり、4年間の中等教育ではカレッジ進学者の学力水準が低下するという問題などが生じた。そこで、一連の中等教育改造運動がおこり、まずカレッジ進学者の学力水準を高めるために、中等教育の拡充を目ざした六・六制への改造計画が主張され始めた。しかし、20世紀に入ると、新たに初等教育から中等教育への進学者の拡大を図ろうとする気運が強くなり、3年制のジュニア・ハイスクール設置の動きもみられるようになった。さらに全米教育協会(NEA)内に設けられた中等教育改造委員会の報告書(1918)は、中等教育の充実と拡大、および将来の進路選択と決定を行うのに有利な制度として六・三・三制案を唱え、その採用を各州に勧告したのである。
このように、単線型学校体系のアメリカでは、ヨーロッパ諸国のような学校系統の統合という方法よりも、学校段階の区分を変更することによって、中等教育以上の教育を受ける機会を開放しようとしたといえる。各国における教育機会の均等化への動きは、このようにして、それぞれの歴史的・社会的諸条件を背景としながら、さまざまな学校制度改革を展開してきたが、これらはさらに第二次世界大戦後から現代にも継承されているのである。
[真野宮雄]
第二次世界大戦後の日本では、教育の機会均等の実現を目ざして、六・三・三・四制の単線型学校体系を根幹とする学校制度が構築されるようになった。しかし、現代社会の要請にこたえるためには、なお多くの課題が残されている。
[真野宮雄]
学校を広義にとらえると、次のように分類することができる。
〔1〕法制上の学校
(a)学校教育法による学校
(イ)第1条校 教育基本法における「法律の定める学校」に該当するもので、これには小学校(初等普通教育)、中学校(中等普通教育)、高等学校(高等普通教育および専門教育)、中等教育学校(中等普通教育ならびに高等普通教育および専門教育)、大学(広い知識の教授、専門の学芸の教授・研究、知的・道徳的および応用的能力の展開)、高等専門学校(専門の学芸の教授と職業に必要な能力の育成)、盲学校・聾(ろう)学校・養護学校(幼稚園・小学校・中学校または高等学校に準ずる教育、障害を補うために必要な知識・技能の教授)、幼稚園(幼児の保育)の10種がある。なお、放送大学は第1条に掲げる大学に属する。
(ロ)その他の学校 第1条に掲げるもの以外の教育施設には、専修学校(職業もしくは実際生活に必要な能力の育成、または教養の向上を図る)、および各種学校(学校教育に類する教育を行う)がある。
(b)他の法律による学校 各省庁等の管轄あるいは独立行政法人に属するもので、職業訓練校、保育所・児童自立支援施設、防衛大学校、水産大学校、海技大学校・航海訓練所・海員学校、および航空大学校などがある。このほかに、社会教育法の対象となる教育活動のなかには、その組織が整備化されて学校あるいはそれに類似した名称を用いるものもある。
〔2〕法制外の学校 企業あるいは各種団体等の設けるさまざまな教育組織、さらには未公認の各種学習塾まで含まれる。
[真野宮雄]
第二次世界大戦後の各国における教育改革は、義務教育年限の延長、および中等・高等教育制度の開放と改革、さらには就学前教育や初等教育制度の整備・拡充などをもたらし、教育の機会均等の実現と個人の能力・適性の助長発展のためにも重要な役割を果たそうとしてきた。しかし、今日のような社会・産業変革の時代に対応するためには、学校教育の具体的な内容とともに、その限界についても改めて問題にされようとしている。現代の教育では、人間ひとりひとりの発達過程に応ずることがますます求められ、しかも学校には、子供が将来の社会生活のなかで、あらゆる社会変化に対応しながら、いっそう発展の可能性をもたらすことが期待されている。
しかも、現代社会では、科学技術の急速な発達や人間の平均寿命の伸長などによって、教育は人間の生涯にわたる社会生活に対してますます重大な影響を生ずるようになった。そのため、人間には職業生活上でも教養生活上でも、生涯にわたって絶えず成長発達すべきことが求められる。そこで、従来のような一定期間内の学校教育だけではおのずから不十分となり、すでに1960年代中ごろよりユネスコ(国連教育科学文化機関)を中心に生涯教育の問題が取り上げられ、その具体化も進められている。
1970年代以後も各国における教育動向として、人間の一生のために人間性豊かな教育を求める「教育の人間化」という流れとともに、未来の学校のあり方についてのさまざまな提案がみられる。わが国においても、「21世紀を展望した教育」の実現を目ざして、臨時教育審議会(1984~87)や文部科学省中央教育審議会等の答申に基づき、多方面に及ぶ教育改革が進行中である。とくに、「ゆとり」のなかで、子供たちに「生きる力」をはぐくむという教育理念を基本に、学校教育内容の厳選と家庭や地域社会における教育の充実を目ざしている。2002年(平成14)4月から公立学校の学校週5日制を実施し、今日の国際的・社会的諸情勢に対応した学校教育の改善・充実を図ろうとしている。さらに、大学・高等学校における入学者選抜の改善、中高一貫教育の導入、大学入学年齢の特例等の教育上の例外措置など、制度上の改革にも及んでいる。このような教育改革を具体化するためには、学校の組織構造自身の弾力化とともに、学校段階間の連続性を図り、さらに家庭や地域社会との密接な連携が必要となる。
[真野宮雄]
『伊藤秀夫・真野宮雄編著『教育制度の課題』(1975・第一法規出版)』▽『河野重男編著『現代教育講座3 現代の学校』(1975・第一法規出版)』▽『吉本二郎編著『教育学研究全集7 学校組織論』(1976・第一法規出版)』▽『真野宮雄編著『現代教育制度』(1977・第一法規出版)』▽『沖原豊・真野宮雄・藤原英夫編著『講座 教育行政2 教育制度と教育行政学』(1978・協同出版)』▽『辻功・木下繁弥編『教育学講座20 教育機会の拡充』(1979・学習研究社)』▽『真野宮雄・桑原敏明編著『教育権と教育制度』(1988・第一法規出版)』▽『吉本二郎・朴聖雨編『学校(講座 学校学1)』(1988・第一法規出版)』▽『真野宮雄編著『生涯学習体系論』(1991・東京書籍)』▽『教育制度研究会編『要説 教育制度』(1991・学術図書出版社)』▽『文部省編『学制百二十年史』(1992・ぎょうせい)』▽『牧野篤著『多文化コミュニティの学校教育――カナダの小学校より』(1999・学術図書出版社)』▽『下村哲夫・染田屋謙相編著『学校教育改革の実現をめぐる問題事例』(2000・学陽書房)』
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…アレクサンドリアの学術文化を隆盛に導いたプトレマイオス1世,古典文化摂取のため宮廷に学者や詩人を集めたフランク王カール大帝,オックスフォード大学の母体となる学園を創設したイギリスのアルフレッド大王たちは,この言葉の中に教育施設の意味合いを強くこめていたものと思われる。学校そのものをアカデミーという習慣は,その後さまざまな形で西欧世界に定着した。17~18世紀のスイスやイギリスなどの新教徒国にその傾向が著しく,さらに現在でも中学以上の私立学校に対してこの呼称を用いるところは多い。…
…近代以前の学校は,大学を除けば,多くは他施設(教会や修道院,王宮,兵営など)に付随し,独立した場合でも,他用途の建物を転用するかその形式や手法を借用して造られたものが多かった。
【ヨーロッパにおける変遷】
古代の建築で学校として用いられたものには,ギリシアやローマなどでパラエストラpalaestraあるいはギュムナシウムgymnasium(ともにラテン語)と呼ばれたものがある。…
…その教育には公的機関の関与のもとに,公費によって組織された公教育と,家庭ないしは私塾による私教育の形態がある。しかし,教育の公教育化は,近代以降一般的であり,今日では私立学校も,公教育の一環として位置づけられる場合が多い。
【教育の根拠】
人間は教育によってその精神的,身体的可能性を開花させ,同時に社会の成員として必要な労働能力,社会的能力を身につける。…
…まず,おとなになるための見習い期間とでもいうべき家事使用人となり,さらにそれぞれの身分や家柄に応じた徒弟修業へと入っていく。結果として彼らは,特別の場所や学校に隔離されることもなく,あらゆる点で,きわめて早い時期から全体としての共同生活に組み込まれていった。子どもを説明するための特別の用語は,14世紀以前には見いだされないし,子ども用の服装,玩具,本,また子どもだけの遊びなどが16世紀以前に見られないのは,このことを証している。…
※「学校」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
少子化とは、出生率の低下に伴って、将来の人口が長期的に減少する現象をさす。日本の出生率は、第二次世界大戦後、継続的に低下し、すでに先進国のうちでも低い水準となっている。出生率の低下は、直接には人々の意...
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