長期議会(読み)ちょうきぎかい(英語表記)Long Parliament

翻訳|Long Parliament

日本大百科全書(ニッポニカ) 「長期議会」の意味・わかりやすい解説

長期議会
ちょうきぎかい
Long Parliament

ピューリタン革命発端となり、またそれを遂行した議会。1640年11月に招集され、形式的には1660年3月まで続いたため、1640年春に開かれすぐに閉会した「短期議会」と対比して、この名がついた。スコットランドとの戦争に敗れたイギリス国王チャールズ1世が、和約を実行するために招集したが、この議会はストラッフォード伯の処刑を決定するだけでなく、星室庁裁判所や高等宗務官裁判所を廃止し、3年議会法を成立させるなど、次々と反国王的な政策を決定した。その後1641年秋、大諫議書(だいかんぎしょ)の採決をめぐって分裂した議会は、翌年内戦開始後ピムの指導のもとただちに王党派を排除して、「厳粛な同盟盟約」を結んで団結し、ピムの死後長老派の主導下に、国王との戦いと交渉を繰り返した。しかし内戦の過程でしだいに軍隊の政治的発言権が強まり、ことに1645年の新型軍New Model Armyの結成以後、その力を背景とする独立派が台頭した結果、内戦終了後の議会は長老派と独立派の対立のなかで、その機能を果たせなくなった。このため1648年12月、軍は長老派の議員追放してランプ議会残部議会)をつくり、ここに長期議会は事実上終わりを告げた。1660年2月、チャールズ2世の帰国を目前にしてランプ議会は、追放された長老派議員の復帰を認めたのち自ら解散し、国王を迎えるための新議会が招集された。(書籍版 1987年)
[小泉 徹]

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改訂新版 世界大百科事典 「長期議会」の意味・わかりやすい解説

長期議会 (ちょうきぎかい)
Long Parliament

イギリス,ピューリタン革命で主要な役割を演じた議会。戦費に窮したチャールズ1世が〈短期議会〉の失敗後,その第5議会として1640年11月招集した。以後53年から59年までの中断期を除いて,60年までつづいたため,〈長期議会〉とよばれた。開会直後から長期議会は,国王の専制の責任を追及し,その再現を防止するための改革を満場一致で遂行したが,国王から軍事権と宗教権を奪取せんとした〈大抗議文〉の採択を契機に1641年末分裂し,内乱となった。内乱において議会は,軍事・行政・財政の機構を整え,革命派の中央機関として機能した。しかしやがて長老派と独立派の抗争の舞台となり,48年12月,軍隊をおさえた独立派によって長老派議員は追放され(プライド・パージ),当初500人ほどあった下院の構成員はわずか60人ほどになり,ランプ(残部)議会とよばれた。この議会が国王処刑を準備し,また一院制共和国の主体となった。53年4月クロムウェルによって武力解散されいったん消滅したが,護国卿政権崩壊後の59年5月にランプ議会が復活し,翌年2月には追放された長老派議員も復帰した。しかし60年3月,王政復古のための仮議会にその地位を譲って自発的に解散した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長期議会」の意味・わかりやすい解説

長期議会
ちょうきぎかい
Long Parliament

イギリスで 1640~53年に開かれた議会。短期議会に対して呼ばれ,清教徒革命の主要な闘争舞台となった。 40年 11月の開会から翌年秋にかけて,国王側近の W.ロードストラッフォード (伯)の処刑,大権裁判所の廃止などの改革を推進したが,41年 11月大抗議文の提出をめぐって,国王派と議会派に分裂,翌年秋から内乱に突入した。同じ議会派のなかでも,最初は長老派が支配的であったが,軍隊を掌握した独立派が次第に台頭し,48年 12月「プライドの追放」によって長老派は追放され,以後独立派のみによって構成されランプ (残部) 議会と称された。 49年成立した共和制の中心的存在であったが,53年4月 O.クロムウェルと対立し,武力解散させられた。 59年王政復古の直前に一時復活した。

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百科事典マイペディア 「長期議会」の意味・わかりやすい解説

長期議会【ちょうきぎかい】

英国でピューリタン革命の主舞台となった議会。1640年秋召集され1653年4月クロムウェルによる武力解散まで続いたのでこの名がつけられた。1648年12月独立派が議席独占以後を〈残部議会〉または〈ランプRump議会〉とも呼ぶ。なお長期議会に先立ち1640年春11年ぶりに召集された議会は,国王の臨時課税要求を拒否したため3週間で解散され,短期議会と称された。
→関連項目クラレンドンストラフォードロード

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「長期議会」の解説

長期議会(ちょうきぎかい)
Long Parliament

イギリスのピューリタン革命の主な闘争舞台となった議会。1640年11月召集,プライドの追放ののちランプ議会と呼ばれるようになったが,53年4月まで続いたのでこの名が生じた。59年から翌年にかけて復活した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「長期議会」の解説

長期議会
ちょうきぎかい
Long Parliment

ピューリタン革命期におけるイギリスの議会
1640年11月,チャールズ1世が短期議会ののちに召集した議会で,革命の舞台となった。1653年にはクロムウェルにより武力で解散させられたが,59年に再開され,60年3月自発的に解散した。20年続いたのでこの名がある。

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世界大百科事典(旧版)内の長期議会の言及

【イギリス】より

…チャールズ1世は以後11年間議会を開かずに専制政治を行ったが,37年船舶税の徴収範囲を広げて訴訟をうけ,また同年スコットランドに国教会の祈禱書と儀式を強制して,激しい抵抗にあった。40年対スコットランド戦争の戦費の協賛を求めてやむをえず開いた2度目の議会(長期議会)が,ピューリタン革命の主要な舞台となった。長期議会はただちに専制支配機構を打破し王権を制限するための改革を次々にほぼ満場一致で実現したが,国王の宗教権・軍事権を議会が掌握しようとしたことを契機にして,それまでの反絶対王政統一戦線は分裂し,42年秋から議会派と国王派の間に内乱が戦われた。…

【チャールズ[1世]】より

…しかし越境してきたスコットランド軍への賠償金支払いのため,同年秋再度議会を開いた。これがピューリタン革命の主要な舞台となった長期議会である。 議会はただちに改革に着手し,国王大権の恣意的な行使を許さぬ法的措置を講じ,国王もこれを認めた。…

【ピューリタン革命】より

…スコットランド軍は越境して侵入し,国王は賠償金の支払を約して和を結ばざるをえなかった。その財源を求めて40年11月召集されたのが〈長期議会〉である。
[改革と内乱]
 長期議会はJ.ピムを指導者にしてただちに改革に着手した。…

※「長期議会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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