デジタル大辞泉 「富士山」の意味・読み・例文・類語
ふじ‐さん【富士山】
[補説]富士の異称をもつ山
秋田富士・
岩手富士・南部富士 岩手山(岩手)
山梨、静岡県境にある標高3776メートルの火山で日本最高峰。山岳信仰の対象となり、万葉集に詠まれ、葛飾北斎の浮世絵「
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出典 共同通信社 共同通信ニュース用語解説共同通信ニュース用語解説について 情報
山梨・静岡両県にまたがってそびえる日本の最高峰。
「甲斐国志」編纂当時の登山道は、北に
静岡・山梨両県にまたがる本邦随一の高山。最高峰の
富士山の山容は完全無欠ではない。まず傾斜が頂上に行くほど急になる山腹(指数曲線に似る)、山麓に緩傾斜の裾野が展開すること。この裾野が古来、歴史の舞台となった。山腹は東側が西側より緩傾斜であること(空中噴出物が西風で運ばれ東側に落下する)。南東側からみた富士山は南西側からのそれよりとがってみえること(寄生火山が南東―北西の山腹に集中する)などがそれを示している。富士山の地質は単純ではない。いまの火山(新富士火山)の下に古い火山が二つも潜むことがわかっている。古い方が
富士山は「万葉集」以来、一貫して「駿河なる富士」と認識されていた。同書巻三に収める高橋虫麻呂の「不尽山を詠ふ歌一首」は冒頭で「なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる」と双方の真中にそびえ立つとしながら、「駿河なる 不尽の高嶺は 見れと飽かぬかも」と結んでいる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
山梨・静岡両県にまたがる、玄武岩を主とする成層・円錐火山(えんすいかざん)。かつての富士火山帯の主峰であるが、全国最高の標高(3776メートル)と美しい容姿のために、古来、日本の象徴として仰がれ、親しまれ、海外にもよく知られる活火山。その傾斜は山頂部で32~35度、裾野(すその)は2~3度で、美しい対数曲線を描き、基底の直径は東西約35キロメートル、南北約38キロメートル。
昔は「不尽」「不二」「富慈」などと書かれ、アイヌ語の「フチ」(火)に由来するとの説もある。富士箱根伊豆国立公園(1936年指定)の主人公で、長崎県の雲仙(うんぜん)岳とともに特別名勝の指定を受けている。裾を広く四方に広げているが、北麓(ほくろく)には、御坂(みさか)山地などの周囲の山々との間に、富士山の溶岩流でせき止められて生じた富士五湖(山中、河口(かわぐち)、西(さい)、精進(しょうじ)、本栖(もとす))があり、観光開発が進み、四季を通じて来遊者がとくに多い。日本三名山の一つ(他は立山(たてやま)と白山(はくさん))。
[諏訪 彰・中田節也]
富士山は日本の最高峰であるが、実はその下に数十万年前までにできた先小御岳(せんこみたけ)、小御岳の古い火山が存在する。富士山自身は古富士と新富士の二つの火山からできており、新富士火山は約1万年前から活動を開始した。噴出物の厚さは最大1500メートル足らずである。つまり、私たちが仰ぎ見る富士山は、何重にも火山が重なった結果できた成層火山である。また、富士山は比較的若い火山で、過去約300年も噴火しなかったとはいえ、将来かならず再噴火すると考えられ、油断は禁物である。
富士山は、フィリピン海プレートが日本列島に衝突している伊豆半島の付け根の背後という特異な場所に位置している。約2500万~2000万年前(中新世)の海底火山噴出物からなる地層(御坂統(みさかとう))が小御岳や同時代の愛鷹火山(あしたかかざん)の基盤である。小御岳火山の一部は、河口湖からの登山自動車道「富士スバルライン」の終点、小御岳(五合目)付近に露頭している。古富士火山はいまから約8万年前に活動を始め、激しい爆発型噴火を繰り返し、南関東にも盛んに玄武岩質の火山灰を降らせ、京浜地域の台地面をつくっている「関東ローム」(詳しくは立川ローム(たちかわろーむ)、武蔵野ローム(むさしのろーむ))を堆積(たいせき)させた。その火山灰は、東京付近では、肉眼では個々の粒を識別しかねるほど細かく、層厚も数メートルであるが、それを富士山方向にたどっていくと、しだいに粒が粗くなり、層厚も増していく。東麓の御殿場(ごてんば)、須走(すばしり)などでは、褐色で粗粒の火山礫(れき)の地層が重なって数十メートルの厚い層をなしている。
また、富士山麓では、数万年前におきた山体崩壊の堆積物(岩屑なだれ堆積物(がんせつなだれたいせきぶつ))がみいだされる。これは「古富士泥流」とよばれ、古富士火山の表層をなしている。この古富士火山は、いまから約1万年前、つまり更新世から現世に移るころ、噴火活動の様相が急変した。以後、約1000年にわたり、おもに多量の溶岩を四方へ流出させる噴火活動が盛んに繰り返され、現在見られる富士山の原形がほぼできあがった。中央火口から30~40キロメートルの遠方まで流下した猿橋溶岩(さるはしようがん)、岩淵溶岩(いわぶちようがん)、三島溶岩(みしまようがん)などがそれである。古富士山の一部が、1707年(宝永4)の大噴火で生じた火口に「赤岩(あかいわ)」(標高約2700メートル)としてわずかに露出している。
いまから約1万年前から新富士火山が活動を開始した。新富士火山は、近くは前記の宝永(ほうえい)大噴火まで、しばしば噴火を繰り返し、爆発による火山砕屑(さいせつ)物や流出した溶岩で古富士火山を覆い隠しながら成長してきたが、約2500年前に東斜面で山体崩壊がおき「御殿場泥流」を堆積した。富士山は頂部から山腹には寄生火山・寄生火口が60以上あり、多くが山頂を通る北北西―南南東方向(富士火山帯の走向)に分布する。また、山麓に分布する風穴(ふうけつ)・氷穴(ひょうけつ)は玄武岩溶岩が流れる際にできた溶岩トンネルの一部である。富士五湖は、玄武岩質溶岩が河川をせき止めてできたものである。その湖底からは富士山の地下水も湧(わ)き出しているが、山中湖以外は自然の排水口がなく、水位はかなり激しく変動する。なお、皇室系譜で第7代の孝霊(こうれい)天皇5年に、一夜のうちに大陥没により琵琶(びわ)湖ができ、同時に、大隆起で富士山が誕生したなどという、富士山の出現時期についての諸伝説があるが、科学的には不合理で、事実に反する。
[諏訪 彰・中田節也]
新富士火山の噴火活動は、平安時代(およそ8世紀末~12世紀末)まではとくに活発に繰り返された。最古の噴火記録は、万葉歌人の高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)の作と伝えられる長歌「不尽山(ふじさん)を詠む歌」のなかの「燃ゆる火を雪もて消(け)ち 降る雪を火もて消ちつつ」と書かれた部分で、養老(ようろう)年間(717~724)の西暦720年前後の噴火であろうと推察されている。歴史書に残された噴火は、『続日本紀(しょくにほんぎ)』に記された781年(天応1)を皮切りに、800年(延暦19)、864年(貞観6)、1707年(宝永4)の三大噴火など、計10回ほどである。
1083年(永保3)までは、平均して約30年ごとに噴火を繰り返したが、それから1707年の大噴火までの6世紀余の間にはわずか3回しか噴火せず、ことに1083年の噴火の後は約300年間も噴火がみられなかった。さらに、1707年の大噴火の後も、すでに約300年が流れ去った。しかも、1083年までの諸噴火は概して勢いが盛んで、しばしば溶岩流も発生したが、その後は火山灰を放出する噴火に限られ、また、噴火規模の点でも、1707年を除けば、さしたる噴火はなかった。また、『本朝文粋(ほんちょうもんずい)』中の都良香(みやこのよしか)の「富士山記」、作者不明の『竹取物語』など、多くの文献からみて、富士山は有史時代に入ってからも永く煙を吐き続けていたと考えられる。その噴煙活動が画期的に衰え始めたのは、前記の1083年の噴火の後である。それでも、以後約1世紀間は連続的に多少とも噴煙していたことが、西行(さいぎょう)法師の『山家集(さんかしゅう)』などからうかがえるが、阿仏尼(あぶつに)の『十六夜(いざよい)日記』などからみて、平安・鎌倉両時代の交(こう)に噴煙はまったくとだえてしまったらしい。
『日本後紀』『日本紀略』などによれば、800年の大噴火では、山頂や山腹で爆発活動と溶岩流出活動が盛んに展開され、広く東海道および南関東地方の交通文化のうえにも一大変化をもたらした。東海道の足柄路(あしがらじ)が多量の降灰砂でふさがれたため、802年に箱根路が新しく開かれた。足柄路も803年に再開されたが、東名高速道路ができるまで、箱根路にお株を奪われてきた。また、北東麓にあった宇津湖はこの大噴火の溶岩流鷹丸尾(たかまるび)によって分断され、一方の山中湖は残っているが、忍野(おしの)地域の湖では湖水が桂(かつら)川となって流出し、「忍野八海(はっかい)」(国指定天然記念物)を残して干上がった。864~866年の山腹噴火のようすは『三代実録』などに記されているが、地質調査からもその活動の激しさが推察され、富士山の有史以来最大の噴火で、青木ヶ原、剣丸尾(けんまるび)などの大溶岩流が発生し、前者は北麓の剗海(せのうみ)を西(さい)湖と精進(しょうじ)湖に二分した。ボーリング調査によると、このときの噴出物量は宝永噴火のそれを上回っていたようである。
1707年の大噴火は、山腹での激しい爆発活動に終始し、まず、富士山としては約2500年ぶりのデイサイト質の火山灰・軽石や黒曜石が噴出し、引き続いて玄武岩質の火山灰・火山砕屑物が噴出した。総噴出物量は約17億立方メートル(マグマに換算すると6億8000万立方メートル)で、東方約90キロメートルの川崎でも約5センチメートルの厚さの火山灰が積もった。当時の状況は、新井白石(あらいはくせき)の『折たく柴(しば)の記』などに記されている。江戸でも噴火の強い地震、鳴動、爆発音、空振がしきりに感じられ、黒雲が天を覆い、噴火開始の数時間後から灰白色の灰に引き続いて、灰黒色の灰が降り、昼間も灯火を用いたという。江戸では降灰が10日以上続き、降ってくる火山灰と堆積(たいせき)した火山灰が風で巻き上げられたため、関東一円に呼吸器疾患が大流行したという。宝永噴火の49日前にはマグニチュード8.7の地震(宝永東海地震)がおきていた。
[諏訪 彰・中田節也]
富士山の頂には直径約800メートル、周囲約3.5キロメートル、深さ200余メートルの火口があり、「内院」とよばれている。その火口縁は「お鉢」とよばれ、南西側に全国最高点・標高3776メートルの剣ヶ峰(けんがみね)、北側には標高3756メートルの白山(はくさん)岳があり、剣ヶ峰から東回りに三島岳、駒(こま)ヶ岳、成就(じょうじゅ)岳、大日(だいにち)岳、久須志(くすし)(薬師)岳、白山岳と、数珠(じゅず)つなぎに火口を取り囲んでいる。「お鉢巡り」は約4キロメートルで、1時間半近くかかる。
剣ヶ峰には、1936年(昭和11)創設の富士山測候所があり、日本の気象観測の重要拠点で、最大探知距離800キロメートルのレーダーがあった。衛星による観測が充実したため、富士山測候所の常駐観測は2004年(平成16)10月より廃止され、2008年に富士山特別地域気象観測所(無人)となった。気温は年平均零下6.5℃、従来の最低は零下38.0℃、最高は17.8℃で、夏でも雪が降ることがある。従来の最大風速は秒速72.5メートルであり、冬には連日秒速20メートル以上の強風下で吹雪(ふぶき)が続くことが多い。酸素量や気圧は平地の約3分の2で、水は88~87℃ほどで沸騰する。富士山全体への降水量は年間約20億立方メートル(約2割は積雪による)と見積もられるが、山腹には湧水がごく乏しい。新富士火山を構成する溶岩流や火山砕屑物の層が多孔質で、水が地下深く浸透してしまうためである。この伏流水は、古富士火山の表層をなす不透水性の泥流堆積物の上面に沿って流下し、山麓の白糸ノ滝、富士五湖底、忍野八海などに湧出するほか、御殿場、三島、富士宮(ふじのみや)各市などでの豊富な湧水は地域産業の発展に役だっている。山腹での地下水の取得は、富士山の本格的開発への鍵(かぎ)である。もっとも、山麓をはじめ、中腹(北側の五合目、南側の新五合目など)まで自動車道路網が整備され、観光開発が飛躍的に進展し、むしろ、自然保護や防災との兼ね合いが深刻な難問になってきた。また、裾野には自衛隊やアメリカ軍の演習地がある。
富士火山は、全国民の関心の的であるだけに、第二次世界大戦後も、噴煙の発生や地温の上昇、噴気の活発化などの異常現象の発現がしばしば報じられたが、実は、強風やつむじ風で砂塵(さじん)が吹き上げられて噴煙に見間違えられたり、積雪が強風や雪崩(なだれ)で吹き飛ばされて局所的に地肌が露出したのを、地温の上昇や噴気の活発化のためと早合点されたものばかりであった。山頂の成就岳の荒牧(あらまき)、山腹の宝永火口や須走口三合目などに散在する噴気・地熱部の温度も、近年はかなり低下しており、火山性地震はときどき観測されている。
2002年(平成14)秋ごろから山頂北東部の地下約15キロメートルの深さを震源とする低周波地震が群発し、防災対策がとられ始めた。国や地方自治体も富士山のハザードマップを作成し、防災訓練を実施するようになった。2011年3月11日のマグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震の直後、3月15日に富士山の直下約10キロメートルの深さを震源とするマグニチュード6.4の地震が発生した。その後1年間は、地震活動が弱まりながら継続したが、地震活動以外に噴火の前兆となる現象は観測されなかった。富士山では、防災科学技術研究所、国土地理院、気象庁、東京大学、山梨県などが地震計やGPS(全地球測位システム)などによる観測を続けている。また、この付近には、東海大地震に備えての関係諸機関の各種の観測網も張り巡らされている。さらに、産業技術総合研究所、東京大学、日本大学などでは、富士山の過去の噴火履歴を解読するための研究を精力的に進めている。
[諏訪 彰・中田節也]
富士山のもっとも深刻な問題は、風化・侵食による斜面崩壊である。標高2450メートル以上は露岩地帯で、風化作用が進み、また山腹には、西側の「大沢」、北東側の「吉田大沢」など、多数の沢(放射谷)が発達している。とくに前者の「大沢崩れ」は長さ約10キロメートル、幅最大500メートル、深さ約150メートルの巨大な谷で、裾野から剣ヶ峰に達する。斜面崩壊は続いている。吉田大沢では、1980年(昭和55)夏、吉田口登山道「砂走り」を下山中の数百人の集団が落石群に襲われ、死者12人、負傷者31人を出した。斜面崩壊は東側山腹でも急速に広がっている。この問題に対して、防災工事も行われているが、抜本的対策はなく、まさに不治(富士)の病である。
また、富士山頂には、南側の剣ヶ峰と北側の白山岳に三角点があり、前者が日本の最高峰であるが、その標高は、明治維新後の1885年(明治18)に3778メートルと正式に測量されてからも、測量し直すたびに低下してきた。1926年(大正15)の測量で、現在広く知られている3776(みななむ)メートルの根拠である3776.29メートルが得られた。その後、山頂の岩石が崩れて三角点標石が危険になったので、第二次世界大戦後の1962年(昭和37)に標石を下げて埋め直し、標高は3775.63メートルとなった。四捨五入すれば前と同じで、地図帳を直さなくてすんだが、実は、そうなるように細工して、コンクリートで固めたのである。さらに1977年にも同様な作業を行い、標高3776メートルを維持させているという。国土地理院も、実に苦心惨憺(さんたん)しているようである。
[諏訪 彰]
植物相からみると、富士山はこの地域に固有に分化したハコネコメツツジ属、ハコネラン属、アマギカンアオイ、カナウツギ、フジザクラなどの分類群を有しており、中部日本の山岳地域のなかでも特徴的である。したがって、日本の植物区系区分のなかでは箱根、伊豆諸島などとともにフォッサマグナ地域に含められている。また、火山砂礫(されき)地にはイワオウギ、ムラサキモメンヅルなど遺存分布と考えられる要素もみられる。しかし、一方では周辺の高山に分布するハイマツがみられないなど、その植物相の形成については、まだ未解明の部分を多く残している。
植生の面からみると、とくにその南麓(なんろく)は、海岸から3776メートルの山頂まで日本でもっとも大きな高度傾度を有しており、垂直分布帯が発達している。海岸から標高800メートル付近までは暖温帯(高度帯では丘陵帯)の常緑広葉樹林の領域で、400メートル以下にはタブノキ林、スダジイ林などが分布し、その上部はアカガシ林に移行する。しかし、この範囲は人為的破壊によって自然植生は断片的にしかみられず、そのほとんどは、居住地、スギ・ヒノキなどの植林地、自衛隊の演習地や放牧地としてのススキ草原となっている。
800~1600メートルにかけては冷温帯(山地帯)の落葉広葉樹林の領域である。この冷温帯と暖温帯の移行部に相当する800~1000メートルの地域には、丸尾(まるび)とよばれる溶岩流がいくつか分布する。この溶岩流はいずれも1000~1500年前に噴出したもので、現在ではツガ、ヒノキ、アカマツなどの針葉樹が優占した森林が発達している。樹海で知られる青木ヶ原丸尾はそのうちでも最大級で、東西8キロメートル、南北6キロメートルに及ぶツガとヒノキを主とする森林となっている。また、忍野の鷹丸尾(おしののたかまるび)はハリモミ林が発達する特異なものである。この両者はそれぞれ「富士山原始林」「忍野八海(はっかい)」として国の天然記念物に指定されている。これ以外の土壌がよく発達した地域ではブナが優占し、一部ウラジロモミを交えた落葉広葉樹林がみられる。
1600メートル以上は亜高山帯(亜寒帯、寒温帯)の常緑針葉樹林である。富士山の場合、亜高山帯の下部はコメツガ、上部はシラビソが優占する(とくに上部ではカラマツ、ダケカンバを多く交え、一部にオオシラビソが混じる)。ほぼ2500メートルが森林限界で、ダケカンバ、ミヤマハンノキ、ミネヤナギなどがしだいに樹高を減じて限界を縁どっている。御庭(おにわ)周辺、宝永(ほうえい)火口などではカラマツが匍匐(ほふく)状になって森林限界の上部に出現する。さらにその上部はイタドリ、オンタデ、フジハタザオなどが散生した高山帯の火山荒原植生となる。
東斜面の御殿場から須走(すばしり)付近は、1707年(宝永4)の火口(宝永火口)の噴火によって植生が破壊されたうえ、その後の基質がスコリア質(岩滓(がんさい)質)で不安定なため、1300メートル以上の地域は遷移の進行が遅く、いまだにイタドリ、オンタデなどが散生した火山荒原植生が広がり、特異な高山帯的景観を呈している。一方、この裸地には、ミヤマハンノキ、ミネヤナギ、ダケカンバなど亜高山帯上部の植生を構成する種が降下してきているため、この裸地から安定な斜面に発達する森林に向かって、遷移の各段階を構成する群落が帯状に配列している。このように富士山には、植生遷移の進行速度の差によって発達段階の異なる植物垂直分布帯や植生のモザイク構造がよく認められる。
[大澤雅彦]
富士山の動物相は、日本の温帯系要素にオコジョ、トガリネズミ、ホシガラスなど若干の寒帯系要素が加わった本州中部山地の典型的なものである。富士山東面の須走付近は東日本有数の鳥類の繁殖地で「探鳥会」発祥の地として知られる。ここの山麓帯ではヤマドリ、ヨタカ、クロツグミ、ウグイス、キバシリ、亜高山帯ではホシガラス、アオバト、マミジロ、ヤマドリ、コマドリなどが繁殖し、樹木限界付近ではカヤクグリ、イワヒバリがみられる。鳥類が豊富なことは、青木ヶ原から精進(しょうじ)口登山道を経て吉田口登山道五合目に達する森林地帯でも同様であるが、この幅の狭い老年期の森林は日本有数の森林生コウモリの宝庫である。ここでは洞窟(どうくつ)生のコキクガシラコウモリ、キクガシラコウモリ、ウサギコウモリなどのほか、樹洞生のフジホオヒゲコウモリ、カグヤコウモリ、クビワコウモリ、コテングコウモリがみられ、尾瀬固有と思われていたオゼホオヒゲコウモリも生息していることが確認された。
この地帯にはほかの動物も種類が豊富で、亜高山帯にはカモシカ、オコジョ、ヒメヒミズ、トガリネズミ、リス、モモンガ、ヤマネ、低山帯上部にはフジミズラモグラ、カゲネズミ、ヒミズ、ヒメネズミ、ジムグリ、シロマダラ、ヒキガエル、フジミドリシジミなどがみられるほか、ムササビ、ツキノワグマも姿をみせる。山麓の草原地帯にはコウベモグラ、ハタネズミ、カヤネズミ、ノウサギ、イノシシ、ノビタキ、セッカ、ヒメシロチョウ、ヤマキチョウなどが多く、水場がある大宮口の森林にはシカがみられる。標高2500メートル以上の地帯は高山地帯に相当するが、ここまで低地ないし低山生のハタネズミ、アカネズミ、ヒメネズミ、ヤマネが進出しており、登山シーズン以外にはイノシシ、カモシカ、ツキノワグマ、キツネ、テンなどが山頂まで姿をみせる。
しかし、本州の高山動物とみられるニイガタヤチネズミ、アズミトガリネズミ、ライチョウ(1960年に7羽放されたが姿を消した)、高山チョウのタカネヒカゲ、タカネキマダラセセリ、コヒオドシ、クモマツマキチョウなどは富士山には生息しない。また、本州日本海側および中部以北に分布するシナノミズラモグラ、トウホクノウサギ、西日本系のスミスネズミ、北日本系のトウホクヤチネズミなどもみられない。愛鷹山には富士山本体にいないサル、暖帯系のキリシマミドリシジミが生息する。富士山には、フジミドリシジミ、フジキオビなど富士の名をもつ動物が多いが、ニホンウサギコウモリ、オオタカの亜種など学名が富士にちなんだものも少なくない。しかし、この山に固有の種は知られていない。
[今泉吉典]
富士山に初めて登ったのは聖徳太子あるいは役小角(えんのおづぬ)とする説もあり、9世紀ごろはすでに盛んに登られていたと考えられるがさだかではない。1149年(久安5)に駿河(するが)国(静岡県)の末代上人(まつだいしょうにん)が山頂に仏閣を建てた記事があり、村山口から登山が行われたという。近世初期に長谷川角行(はせがわかくぎょう)(1541―1646)によって富士講が開かれ、先達(せんだつ)によって引率され、白装束に身を固めた人々が「六根清浄」と唱えながら登山した。山麓(さんろく)の富士吉田は浅間神社(せんげんじんじゃ)の門前町であり、日本第一の信仰登山地として発達し、登山者の集合地となった。登山口は富士宮口を正面とし、吉田口、御殿場(ごてんば)口、須走(すばしり)口が多く用いられ、村山口、須山口はその後廃道化した。女性は不浄とされ、吉田口では二合目の小浅間上の御釜(おかま)まで、村山口では一合目の女人堂までしか登れなかったが、1866年(慶応2)イギリス公使パークス夫人が女性として初めて登山した。
開山期間は7月1日から8月26日の火祭までであったが、近年は8月31日まで開かれ、各登山口の山小屋も開かれている。多いときはこの期間に100万人近くの登山者があるが、1964年(昭和39)河口湖からスバルラインの有料自動車道が吉田口五合目まで開かれ、1970年に御殿場口の五合目まで表富士周遊道路がつくられてからは、山麓から五合目までの登山道はさびれてしまった。山頂の火口を一周するお鉢めぐりや、五合目を一周するお中道回りも行われた。1871年(明治4)イギリスのベイヤード中尉が積雪期に初めて登山し、また1895年には日本における高山気象観測の開拓者である野中至(いたる)が気象観測のため厳冬期に登山した。富士山は独立の高峰であるため、冬期は蒼氷(そうひょう)が発達し、氷雪登山の舞台となり、アルピニストが多く訪れるようになった。しかし、日本第一の高峰であるため、めまい、頭痛など高山病の症状をおこす人も多く、また冬期は突風や雪崩(なだれ)による遭難事故も多発しているので注意を要する。
[徳久球雄]
富士山の秀麗な姿は、『万葉集』『竹取物語』をはじめ数々の文芸や紀行文に取り入れられているほか絵画にも描かれている。『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』には福慈山(ふじさん)(富士山)と筑波山(つくばさん)に関する伝説(富士筑波伝説)がみえる。また各地に広く分布する「山の背くらべ伝説」には富士山が多く登場する。たとえば駿河(するが)国(静岡県)の足高山(あしたかやま)(愛鷹(あしたか)山)は、大昔、唐土(もろこし)(中国)から富士山と背くらべをするためにきたが、足柄山(あしがらやま)の明神が、生意気だといって足で蹴(け)くずしたので低くなったという。また八ヶ岳(やつがたけ)と富士山とが、大昔、背の高さを競って決着がつかず、双方の頂上へ樋(ひ)を渡して水を流すと、水は富士のほうへ流れて富士が負けた。富士は怒って、その樋で八ヶ岳の頭をなぐって蹴上げたので低くなり、でこぼこの頂上になったという。鎌倉時代以降はとくに紀行・和歌・俳句に多く、絵画では江戸時代の葛飾北斎(かつしかほくさい)の『冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)』が名高い。
富士山を霊視し、また信仰の対象として崇(あが)めることは、原始信仰以来のものと想像されるが、山岳仏教と結び付いて初めて具体的な形を整えてきた。富士山への登拝の始まりは、修験道(しゅげんどう)を開いた役小角(えんのおづぬ)であると伝えられているが、事実かどうか明らかではない。富士の信仰が盛んになったのは中世以後のことであり、登拝することは富士講の開祖である長谷川角行によって広められた。富士講の行者(ぎょうじゃ)は東日本の広い範囲に活躍し、各地に富士浅間神社(ふじせんげんじんじゃ)を分祀(ぶんし)して遙拝(ようはい)所を設けた。講中の者は、旧暦6月1日の山開きから20日間、富士詣で(ふじもうで)と称して登拝した。江戸時代には宿坊(しゅくぼう)や石室(いしむろ)も整い、7月27日を山じまいとした。登拝者は夜を徹して登り、御来迎(ごらいごう)(日の出)を拝み、火口を巡る「お鉢巡り」などをする。
富士山の見える地域では、雲のかかりぐあいで天候を予測する。また富士山周辺の火山性洞窟(どうくつ)を富士風穴(ふうけつ)といい、気温が低く一定なことを利用して、氷の保存や蚕の種の孵化(ふか)抑制などを行なっていた。
[井之口章次]
2013年(平成25)には富士山域をはじめ周辺の神社、富士五湖、忍野八海(おしのはっかい)や三保松原(みほのまつばら)等を含めた25の構成資産が、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」として世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。構成資産は以下のとおりである。
(1)富士山域
〔読み〕ふじさんいき
〔所在市町村〕山梨県・静岡県
(1-1)山頂の信仰遺跡群
〔読み〕さんちょうのしんこういせきぐん
〔所在市町村〕山梨県・静岡県
(1-2)大宮・村山口登山道(現富士宮口登山道)
〔読み〕おおみや・むらやまぐちとざんどう(げんふじのみやぐちとざんどう)
〔所在市町村〕静岡県富士宮市
(1-3)須山口登山道(現御殿場口登山道)
〔読み〕すやまぐちとざんどう(げんごてんばぐちとざんどう)
〔所在市町村〕静岡県御殿場市
(1-4)須走口登山道
〔読み〕すばしりぐちとざんどう
〔所在市町村〕静岡県小山町
(1-5)吉田口登山道
〔読み〕よしだぐちとざんどう
〔所在市町村〕山梨県富士吉田市・富士河口湖町
(1-6)北口本宮冨士浅間神社
〔読み〕きたぐちほんぐうふじせんげんじんじゃ
〔所在市町村〕山梨県富士吉田市
(1-7)西湖
〔読み〕さいこ
〔所在市町村〕山梨県富士河口湖町
(1-8)精進湖
〔読み〕しょうじこ
〔所在市町村〕山梨県富士河口湖町
(1-9)本栖湖
〔読み〕もとすこ
〔所在市町村〕山梨県身延町・富士河口湖町
(2)富士山本宮浅間大社
〔読み〕ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ
〔所在市町村〕静岡県富士宮市
(3)山宮浅間神社
〔読み〕やまみやせんげんじんじゃ
〔所在市町村〕静岡県富士宮市
(4)村山浅間神社
〔読み〕むらやませんげんじんじゃ
〔所在市町村〕静岡県富士宮市
(5)須山浅間神社
〔読み〕すやませんげんじんじゃ
〔所在市町村〕静岡県裾野市
(6)冨士浅間神社(須走浅間神社)
〔読み〕ふじせんげんじんじゃ(すばしりせんげんじんじゃ)
〔所在市町村〕静岡県小山町
(7)河口浅間神社
〔読み〕かわぐちあさまじんじゃ
〔所在市町村〕山梨県富士河口湖町
(8)冨士御室浅間神社
〔読み〕ふじおむろせんげんじんじゃ
〔所在市町村〕山梨県富士河口湖町
(9)御師住宅(旧外川家住宅)
〔読み〕おしじゅうたく(きゅうとがわけじゅうたく)
〔所在市町村〕山梨県富士吉田市
(10)御師住宅(小佐野家住宅)
〔読み〕おしじゅうたく(おさのけじゅうたく)
〔所在市町村〕山梨県富士吉田市
(11)山中湖
〔読み〕やまなかこ
〔所在市町村〕山梨県山中湖村
(12)河口湖
〔読み〕かわぐちこ
〔所在市町村〕山梨県富士河口湖町
(13)忍野八海(出口池)
〔読み〕おしのはっかい(でぐちいけ)
〔所在市町村〕山梨県忍野村
(14)忍野八海(お釜池)
〔読み〕おしのはっかい(おかまいけ)
〔所在市町村〕山梨県忍野村
(15)忍野八海(底抜池)
〔読み〕おしのはっかい(そこぬけいけ)
〔所在市町村〕山梨県忍野村
(16)忍野八海(銚子池)
〔読み〕おしのはっかい(ちょうしいけ)
〔所在市町村〕山梨県忍野村
(17)忍野八海(湧池)
〔読み〕おしのはっかい(わくいけ)
〔所在市町村〕山梨県忍野村
(18)忍野八海(濁池)
〔読み〕おしのはっかい(にごりいけ)
〔所在市町村〕山梨県忍野村
(19)忍野八海(鏡池)
〔読み〕おしのはっかい(かがみいけ)
〔所在市町村〕山梨県忍野村
(20)忍野八海(菖蒲池)
〔読み〕おしのはっかい(しょうぶいけ)
〔所在市町村〕山梨県忍野村
(21)船津胎内樹型
〔読み〕ふなつたいないじゅけい
〔所在市町村〕山梨県富士河口湖町
(22)吉田胎内樹型
〔読み〕よしだたいないじゅけい
〔所在市町村〕山梨県富士吉田市
(23)人穴富士講遺跡
〔読み〕ひとあなふじこういせき
〔所在市町村〕静岡県富士宮市
(24)白糸ノ滝
〔読み〕しらいとのたき
〔所在市町村〕静岡県富士宮市
(25)三保松原
〔読み〕みほのまつばら
〔所在市町村〕静岡県静岡市
[編集部]
『木澤綏他著『富士山 自然の謎を解く』(1969・NHKブックス)』▽『国立公園協会編『富士山総合学術調査報告書 富士山』全2冊(1971・富士急行株式会社・非売品)』▽『清水清著『富士山の植物』(1977・東海大学出版会)』▽『井上浩著『自然観察シリーズ・富士山の植物』(1982・小学館)』▽『諏訪彰監修『富士山大雑学』(1983・廣済堂出版)』▽『渡辺正臣著『富士山・富士五湖』(1989・実業之日本社・ブルーガイドブックス)』▽『諏訪彰編『富士山――その自然のすべて』(1992・同文書院)』▽『つじよしのぶ著『富士山の噴火――万葉集から現代まで』(1992・築地書館)』▽『渡辺健二著『富士山の植物たち』(1993・静岡新聞社)』▽『青弓社編集部編『富士山と日本人』(2002・青弓社)』▽『志崎大策著『富士山測候所物語』(2002・成山堂書店)』▽『『平野榮次著作集 富士信仰と富士講』(2004・岩田書院)』▽『富士火山編集委員会編『富士火山(改訂版)』(2011・日本火山学会)』▽『森下晶著『富士山』(講談社現代新書)』▽『永原慶二著『富士山宝永大爆発』(集英社新書)』
静岡・山梨両県の県境にそびえる成層火山。標高は3776mで,日本の最高峰である。この山は南東麓に愛鷹(あしたか)山がある以外は円錐形の整った山体と長い裾野をもち,その高さと秀麗さとは万葉の時代から賛美され,多くの詩歌に詠まれてきた。富士の名は広く海外にも知られ,日本あるいは日本的な美の象徴となり,特別名勝に指定され,富士箱根伊豆国立公園の中心をなしている。2013年に富士山-信仰の対象と芸術の源泉として世界文化遺産に登録された。
富士山は一方で,集団登山を通じて日本人に親しまれる存在でもあった。富士登山は,平安中期にはすでに富士信仰と結びついて一種の習俗となり,登山道が開かれて以後は盛んになる一方であった。とくに近世には登山道,宿坊,石室も整備されたため,江戸の民衆にとって富士登山は一生に一度は行うべき行事になっていた。なお近代的登山はW.ウェストンが最初で,また厳冬期の登山は1895年10~12月野中到が気象観測を行うために登頂したのが先駆けになっている。
富士山は,世界の火山の中でもかなり特異な存在である。一般に火山は奥羽山脈やアンデス山脈の火山のように,高い山地の上に噴出するものが多く,その場合,火山体そのものの高さはせいぜい1000m程度にしかならない。これに対し富士山は平地に生じた火山で,内部に小御岳(こみたけ),古富士という二つの古い火山をかかえているとはいえ,4000m近い山体がすべて火山で構成されており,基底部の直径が約40kmにも達している山は世界でも珍しい。山頂部は御鉢と呼ばれ,最高峰の剣ヶ峰のほか白山,久須志岳(薬師岳),大日岳,伊豆岳,成就岳,駒ヶ岳,三島岳の富士八峰が火口のまわりを囲んでいる。中世まで火口から白煙が立ちのぼっていたことが知られるが,現在の火山活動は一部に蒸気孔を残すのみである。
富士山の裾野の地形は主として丸尾(まるび)と呼ばれる新富士の溶岩流によってつくられている。たとえば864年(貞観6)の噴火の際,側火山(寄生火山)の長尾山から噴出した溶岩流は,富士山北西側の広大な溶岩原の青木ヶ原をつくった。この溶岩流はさらに北方にあった剗海(せのうみ)に流入してこれを西(さい)湖と精進(しようじ)湖に分断したうえ,それ以前の溶岩流によって分けられていた本栖(もとす)湖にまで達している。また青木ヶ原溶岩より古く,北側に流出した剣丸尾や山中丸尾の溶岩流は河口湖,山中湖を生み出した(富士五湖)。忍野八海(おしのはつかい)のある忍野盆地もかつては溶岩堰止湖だったところである。このほか各丸尾の内部には人穴(ひとあな)などの溶岩トンネルや鳴沢溶岩樹型などの溶岩樹型のような珍しい地形があり,溶岩トンネルの一部は氷穴という,夏でも氷のとけない涼しい洞窟になっている。
富士山の中腹以下の地形をつくる要因としてもう一つ重要なのは,60個余の側火山の存在で,おもに北西側と南東側に集中的に分布している。これらは小型の噴石丘が多いが,宝永山(2693m)のように規模の大きいものもある。貞観年間の噴火をはじめ,有史以来のおもな活動はすべて側火山でおこっており,山麓の地形の形成にも大きくかかわった。なお富士山はすでに開析期に入り,大沢や吉田大沢など多くのほぼ直線状の放射谷が山腹を刻み始めている。とくに西斜面の大沢(大沢崩れ)は長さ約10km,幅300~500mにわたる長大な谷で,岩石の崩壊は約1000年前から始まったとされており,現在も幅が広がりつつある。裾野の扇状地部では,落石被害緩和のための砂防工事が1969年以降行われている。
富士山頂の剣ヶ峰には富士山測候所(1936設置)があり,その観測データをまとめたのが表である。ひと口にいえば,富士山頂の気候の特色は低温と強風にある。山頂では永久凍土が発見されているほどで,夏の7~8月でも平均気温は5℃台にしか上がらず,ときには雪の降ることもある。これは山麓の沼津市の冬の気温と同じである。また,冬は連日-20℃を下回り,秒速20mを超える強風下で吹雪が続き,また,冬から春にかけては乱気流がおこりやすい。富士山の年間降水量は平均2500mmと見積もられている。これらの降水は,山腹を構成する噴出物が粗く,降水量を受けとめることができないため,山腹に浸透して伏流水となっている。そして,山麓部の白糸ノ滝(名・天),忍野八海,湧玉(わくたま)池(特天)などの湧泉や富士五湖にも水を供給しているほか,静岡県富士宮市,三島市,御殿場市などで湧泉群となって,製紙,化学繊維などの工業や養鱒業を発達させている。気圧は富士山頂では平地の2/3弱の650hPa程度にまで下がり,このため沸点も88℃程度まで低下している。
富士山でも垂直分布帯は発達しているが,新しい火山であるため成帯性はかなり乱されており,日本の他の高山とも相当の違いがある。最も顕著なのはハイマツと高山植物の欠如で,富士山ではハイマツのかわりに低木化したカラマツやダケカンバが森林限界をつくり,それより上はイタドリやオニタデ,フジアザミなどが点在する火山荒原になっている。両者の境界は標高2500m付近である。ハイマツや高山植物が欠けているのは,新富士の形成が新しく,ハイマツなどが北方から分布を拡大してきた氷期にはまだ存在していなかったためだと考えられており,ライチョウのいないのも同じ理由で説明されている。亜高山帯以下は中部山岳とほぼ同様に発達し,シラビソやブナが生育する。しかし山麓の丸尾上ではヒノキやハリモミ,アカマツなどが生育し,宝永の噴火で火山砂礫の堆積したところでは火山荒原が発達するなど,新期の火山活動の影響も大きい。裾野は現在ススキ草原になっているが,これは火入れや採草により人為的に維持されてきたもので,近年では労働力不足のため火入れがなくなり,雑木林に移行する部分がふえてきている。
執筆者:小泉 武栄
富士山の動物相の特色は,山体の成立が新しいことと関連して高山種の乏しいことである。哺乳類では,本州中部の代表的高山種であるニイガタヤチネズミとアズミトガリネズミが生息しない。鳥類ではライチョウがみられないが,ホシガラス,イワヒバリ,カヤクグリといった高山性のものは生息する。これは飛翔力の発達する鳥類だから可能なのだが,1960年に白山より移された7羽のライチョウが,一時的に繁殖をみたものの,ハイマツがないため70年には絶滅と判定されたように,富士山そのものの環境がある種の高山種には適さないという面もある。高山チョウではタカネヒカゲ,クモマベニヒカゲ,コヒオドシが生息しない。高地性のコヒョウモンモドキは富士山周辺の御坂(みさか)山系にすむが,富士山には食草のクガイソウがないので侵入できないでいる。高山ガのソウウンオビナミシャクを産するが,本種は本来ハイマツを食物としている。ハイマツのない富士山では,カラマツに食べ物を換えることで生息可能となったようである。
半地下生の小型哺乳類相も富士山を特徴づけている。一般に本州中部では亜高山帯にヒメヒミズが,低山帯にヒミズが生息するが,富士山ではヒメヒミズが低山帯に多産し,本栖湖畔では標高910m付近にもみられる。本種は低山帯では土壌のほとんどない新期溶岩流の地帯に限って生息し,土壌地帯には生息せず,そこには競合種であるヒミズが分布する。
標高2400m以上は高山帯で岩石地帯であるが,そこにも多くの動物が生息する。山頂で確認されている哺乳類はヤマネ,カゲネズミ,ハタネズミ,ヒメネズミ,アカネズミ,ドブネズミであり,キツネ,イノシシ,モモンガも姿を見せることがある。また,夏には山頂でもオニヤンマ,ハネナガフキバッタ,アゲハチョウ,モンシロチョウなど低地性の昆虫40種がみられ,キジバト,カワラヒワなどの低地性の鳥類も出現する。
亜高山帯,低山帯の森林にはニホンカモシカ,ツキノワグマ,リス,テンなどの森林生哺乳類,ウソ,コゲラ,キクイタダキなど多くの鳥類が生息し,山麓の草原にはハタネズミ,カヤネズミ,イノシシなどのほかノビタキ,セッカ,アオジ,キジなどが草原鳥類群集を形成している。
執筆者:今泉 忠明
富士山の各登山道の一合目付近(標高約1400~1500m)より下で,隣接する山地との裾合部より上に広大な富士裾野が展開している。裾野の大部分は丸尾と呼ばれる新富士の溶岩原や火山砂礫地からなり,森林や火山荒原となる一方,一般に岩石が粗く多孔質で降水が深く浸透するため,裾野上で水を得ることは著しく困難で,耕地としての開発や集落立地の遅れた場所となってきた。丸尾の地域は中世には富士の巻狩で知られるような狩猟地となり,周縁の村落の入会地として昭和30年代ころまで,放牧地や萱刈場として用役されてきた。全体的に集落は富士裾野そのものの上にはほとんど見られないが,周辺山地と接合する裾合部では湧水などの水利があって山梨県忍野村,鳴沢村などの古い村が点在する。また裾野の縁辺には,近世以降交通の発達に伴って発展した山梨県富士吉田市,静岡県御殿場市,富士市,富士宮市の市街地がとりまいているが,これらの立地要因の一つにやはり湧水があげられる。まとまった水田は東麓の御殿場市街地周辺と南西麓の富士宮市小泉付近,西麓の同市猪之頭(いのかしら)付近にあるが,いずれも地表近くに古富士溶岩が露出する部分にあたり,顕著な湧水のある場所と一致している。なお畑作地は水田の立地する所よりやや水利のよくない北麓の鳴沢村付近の標高1000m以下の部分,南西麓の富士宮市村山,粟倉付近の500m以下の部分が近世以前から開発されてきた。南西麓の畑作地には,近世以降の開拓村である次郎長開墾や方野原新田などもみられる。
都心から直線距離で約100km,首都圏に接して冷涼で粗放利用の裾野が広く展開していることは日本の土地利用のうえできわめて重要である。近代に入って裾野の入会地の多くは軍隊の演習場となり,御殿場市板妻,滝ヶ原などに陸軍の宿泊施設がつくられていた。第2次大戦後はアメリカ軍の演習地となり,現在も裾野北東部の梨ヶ原付近を北富士演習場,東部の滝ヶ原や大野原(駒門(こまかど))付近を東富士演習場として引き続き自衛隊が使用している。これら演習場の使用については地元住民の慣行入会権と競合し軋轢(あつれき)を生じたことがあった。西麓の朝霧高原も戦時中は戦車演習場となっていたが,富士宮市広見,富士丘などに戦後開拓村が入植し,専業酪農村として定着したため,西富士では牧草地が大規模にみられる。開拓農地や水田地帯ではフジマサと呼ぶ特殊土壌特有の盤層のため,耕起作業を困難にすることがある。また西富士の開拓にあたっては西隣の毛無山の山地から引水している。
裾野の周辺の古村をつなぐ道路は古くから開け,西麓を南北に通ずる国道139号線は甲駿中道往還,東麓を北上し御殿場市から籠坂(かごさか)峠を経て富士吉田市に至る国道138号線は旧鎌倉往還を踏襲したもので甲斐と駿河をつなぐ街道であった。明治20年代に東海道本線(現在の御殿場線の経路)が開通し,当時の御殿場町東山地区は,高級避暑別荘地として開かれた。また河口湖,山中湖の周辺は,大正年間に富士電気軌道(現,富士急行)が富士吉田町まで通じて便がよかったため第2次大戦前からすでに観光・別荘地として有名であった。戦後は道路交通が著しく発達し,山梨県側(富士スバルライン,1964開通),静岡県側(表富士有料道路,1970開通。94年無料開放)とも五合目までバスが通じるようになって,富士登山の大衆化が急速に進んだ。一方,1960年以降,ゴルフ場,レジャー施設,別荘地は北斜面のスバルランド,南斜面の十里木(じゆうりぎ)高原やさらに上方の日本ランド付近(1200~1400m)にも拡大した。それらをつなぐ道路も,東名高速道路(1968開通),中央高速道路(1968),富士宮有料道路(1966開通。95無料開放)などと連結して東京からの便がよくなり,富士の裾野は一連のレジャー用地へと変貌しつつある。
執筆者:式 正英
富士山が噴出し堆積したテフラtephra(火山灰や軽石)の層の一枚一枚は古文書のように噴火の様子を記録している。それによると,噴火のはじまりは少なくとも今から8万年前の時代にさかのぼる。このようにテフラを調べて火山活動の歴史や自然環境の変遷を研究する方法をテフロクロノロジーと呼ぶ。火山活動が起こった舞台は,標高1000~1500m内外の丹沢山地からつづく山なみや,箱根山,愛鷹山,小御岳といった古い大型火山の山麓であった。こうした起伏を火山噴出物で完全に覆い隠して,日本で最大最高の火山を形成させたのは,太平洋,フィリピン,ユーラシア(あるいは中国)という三つのプレート(フィリピン,中国,北アメリカの三つのプレートとの考えもある)の会合点(トリプルジャンクション)の地下につくられた多量の玄武岩質マグマであった。1回の活動による噴出物の量はふつう1km3以下でけっして多くはないが,そうした活動がかなり頻繁に繰り返され,溶岩やテフラが火口のまわりに積もって大型の成層火山に成長したのである。
富士の火山活動史は,約1万年前から約5000年前までの活動静穏期を境にして,古期の活動期と新期のそれとに二分される。古期の活動は少なくとも7万年の間,降下スコリア(玄武岩質の黒い軽石)と溶岩の噴出を数十~数百年間隔で繰り返し,標高3000mを超す大型火山(今の富士山の大部分で,この部分は古富士山と呼ばれたことがあった)を形成した。富士山の中腹には,この時期の噴出物は地下深くに埋もれてほとんど露出していないが(わずかに宝永山の赤岩にでている),山麓には各地に台地や丘陵をなして分布し,ことに東麓では厚さ100mを超す数百枚の降下スコリア層からなる地層として見いだされる。南関東の台地を覆っている赤土(関東ローム層の上部)はそれらのつづきであって,その上部の約3万年前以降の土層中には旧石器文化が埋没している。また山麓各地には,この時期の噴火にともなった山体の崩壊堆積物が降下スコリア層の間に挟まれており,古富士泥流と呼ばれている。
ところで約1万2000~8000年前のころになると,富士山の活動はあまり爆発的でなくなり,多量の溶岩を四方に流す活動が盛んになった。中央火口から30~40kmも遠方まで流れた猿橋溶岩,岩淵溶岩,三島溶岩などがその産物である。またこの時期以降5000年前のころまで厚い腐植質黒土層が形成された。この地層は縄文時代早期から前期の考古遺物を包含している。約5000年前ころから降下スコリアを噴出する爆発的活動が再開した。歴史時代までひきつづくこの段階が新期の活動期である。スコリアのみでなく溶岩も噴出し,現在の富士山の頂上部や山腹にある60余の側火山が,この活動により形成された。今から約3000年前の縄文時代後期ころから平安時代までの間は新期の活動期の中でもとくに活発な噴火が繰り返された。781年(天応1)以降の噴火の記録があるが,その中でも噴出量が多かったのは800年(延暦19)と864年(貞観6)の噴火で,前者では火山灰は相模,武蔵,上総,下総などにまで達した。また後者では北西麓にある長尾山がストロンボリ式噴火を起こし,最後に多量の溶岩流を流して剗海を分断した。この二大噴火のほかの平安時代の噴火は小規模で,数十年おきに起こったが,1083年(永保3)の噴火以後400年以上もすっかり鳴りをひそめた。16世紀に2回の記録があるが,ごく小規模な噴火であった。このように異常な長期の沈黙のあとの1707年(宝永4)の噴火は,富士山としては珍しく大きな爆発的噴火で,宝永山を生じ約1km3ものスコリア,火山灰が高空に打ち上げられ,南関東から鹿島灘までの地域に降灰があった。江戸での降灰のようすが新井白石の《折たく柴の記》にも記されている。その後270年余,富士山は沈黙を守っている。
→宝永山
執筆者:町田 洋
霊峰富士の名は《万葉集》以来,中央に聞こえていた。新嘗(にいなめ)の晩に富士山を訪ねた〈みおや神〉が宿を断られ,筑波山で歓待された。そのため富士にはいつも雪が降って人も登らず,飲食を供えるものもないとの《常陸国風土記》の話も有名である。《三代実録》には,864年7月の噴火で溶岩が北に流れて百姓の家々を埋めたが,翌月この災害は浅間名神の神官たちの怠慢によるとして奉幣したとある。信州の浅間山,伊勢・志摩国境に朝熊(あさま)山があるように,〈あさま(浅間)〉は霊威ある山の名らしいが,浅間名神は富士山の神を指す。《本朝文粋(ほんちようもんずい)》にある都良香(みやこのよしか)の〈富士山記〉は山頂に美女が2人舞うと述べ,この山の神は女性で,名は浅間大神とある。《竹取物語》によってこの神をかぐや姫とすることもあるが,のちに大山祇(おおやまつみ)神の娘,瓊瓊杵(ににぎ)尊の妃の木花開耶(このはなのさくや)姫と定まった。いずれも山の神を女神とみる信仰によっている。
《更級(さらしな)日記》には山頂に神々が集まり,人の運命を決した話があるが,中世以来,この山を崇敬する風が東日本に広まり,近世に盛行した。富士行者に引率される信者組織の富士講が各地に結成され,神霊を分祀(ぶんし)する浅間塚,富士塚がつくられた。その中心は富士山麓の大宮,村山,河口,吉田,須走の浅間(せんげん)神社で,それぞれに御師(おし)がおり,信者の富士登拝の先達をした。神仏習合して神名を浅間大菩薩ともいい,近世には村山の浅間神社に修験道色が濃く,興法寺を別当とし,辻坊,大鏡坊などに天台系の本山派修験者が集まった。
近世中期以後とくに江戸を中心に富士登拝が盛行し,行者たちは療病祈禱を大規模に行い,大型の梵天(幣束)を用いた。あまりの激しさに幕府の取締りを受けることもあったが,これをもとに明治以後,扶桑(ふそう)教,実行教,丸山教などの神道教派が生まれた。大がかりな祈禱や梵天は姿を消したが,白装束で〈六根清浄(ろつこんしようじよう)〉を唱えて集団登拝する風は久しく伝承されている。
執筆者:高取 正男 富士山の信仰には,山岳信仰全体からみても特色あるいくつかの点を指摘することができる。多くの雲霞で仕切り,駿河湾と東海道を描く下段,浅間神社を中心とする中段,富士山を中心とした上段との3段に分けて描かれた〈富士曼荼羅〉や,一切経埋納習俗などもその一つであるが,なかでも特筆すべき点は,角行(かくぎよう)(画行,書行とも),食行身禄(じきぎようみろく)(1671-1733)の系譜に属する富士講が,近世中・後期に爆発的に隆盛し,それによって初めて富士山信仰の統一がはかられるような様相を呈したことであろう。そのために古代・中世に富士山信仰のなかで大きな比重を占めていた仏教的要素,修験道的要素は,近世期に新たな修験道と称してもよい富士講のなかに集約されてしまい,今日の富士山信仰にほとんど伝えられていないことも特色の一つといえよう。富士山信仰にみる仏教的要素は,《本朝世紀》久安5年(1149)4月16日条にみえる末代(まつだい)上人に始まるとされ,彼は山頂に大日寺を建立し,一切経を埋納するなど傑出した人物として富士修験の祖と仰がれている。また中世期に今川氏の庇護のもとで強大な勢力を誇った村山修験も,今川氏の滅亡とともに衰退してしまった。
→浅間信仰 →富士信仰
執筆者:宮本 袈裟雄
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(大迫秀樹 フリー編集者 / 2013年)
(井田喜明 東京大学名誉教授 / 2007年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
静岡・山梨両県にまたがるコニーデ型火山。標高3776mで日本の最高峰。かつては活発な火山活動があったが,1707年(宝永4)の大噴火以後は活動を停止している。古代以来信仰の対象で,「常陸国風土記」に福慈(ふじ)岳とあるのが初見。奈良時代以後噴火が激しくなると浅間(せんげん)明神として信仰され,神仏習合の浅間菩薩が成立,さらに木花開耶(このはなさくや)姫を浅間神社の祭神とするようになった。平安時代からは富士を霊場とする修験者の登山が始まり,室町時代には庶民に浸透して富士信仰が成立,近世には各地に富士講ができ,信仰登山が活発となった。登山口は大宮・須山・須走・吉田にある。なお「万葉集」以来富士山の秀麗な姿が歌われ,紀行文にも描かれた。絵画では葛飾北斎の「富嶽三十六景」が有名。明治維新以後各地のコニーデ型の山を○○富士と命名することが流行し,日本の象徴として意識されるようになった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…85年(貞享2)稲葉氏は越後国高田に移封,86年に老中大久保忠朝が下総国佐倉より再入部した(10万3000石,後に11万3000石)。その子忠増の代に1703年(元禄16)の大地震,07年(宝永4)の富士山噴火と苦難の藩政が続いた。噴火による被災地(駿河国駿東郡,相模国足柄上・下両郡)192ヵ村,5万6000石が上知となり伊豆,三河,美濃,播磨の4ヵ国11郡の村々が藩領に編入された。…
…静岡県富士宮市宮町に鎮座。現在正式には富士山本宮浅間(あさま)大社という。浅間大神(あさまのおおかみ),またの名木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)命をまつる。…
…側火山,側火口の数はマグマの粘性が小さいほど,また本体の複成火山が大きいほど多い傾向がある。シチリア島のエトナ火山,富士山,ハワイの諸火山などの火山はそうした例である。 側噴火地点は山頂火口の下へ上昇してきたマグマが,垂直な割れ目を作っては満たしつつ放射方向に動いて山腹に達した点あるいは線を示している。…
…平安前期の物語。1巻。別称《竹取の翁(おきな)》《かぐや姫の物語》《竹取翁物語》。作者不詳。成立時期は諸説があるが,9世紀後半から10世紀の初め,《古今集》成立以前とみられる。現存本はその後多少の改補がある。
[あらすじ]
昔,竹取の翁という者が竹の中から見つけ出して育てた3寸ばかりの小さな女の子は,3月ほどで輝くばかりの美女となった。その後,翁は黄金(こがね)の入った竹を見つけることが重なり,翁の家は豊かになった。…
…富士山を対象とする信仰。日本の山岳信仰の代表的なものである。…
…この不入の禁を解いて,その年に初めて登山を許すのが山開きで,近世にはこの日に信者や講中の人々が山に登って御来光を仰ぐ行事が盛んになった。江戸では,大山(おおやま)に初山と称して6月に登る慣行があったし,富士山の山開きの旧6月1日には,町の富士塚に参詣・登拝する習俗があった。また,修験の山である月山や大峰山では,山開きに堂を開く戸開(とあけ)式が行われ,ともに旧4月8日であった。…
※「富士山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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