浜波太村(読み)はまなぶとむら

日本歴史地名大系 「浜波太村」の解説

浜波太村
はまなぶとむら

[現在地名]鴨川市太海浜ふとみはま

岡波太おかなぶと村の南にある海沿いの村。伊南房州通いなんぼうしゆうどおり往還が村内を通る。南西天面あまつら村。正保郷帳に波太村とみえ、岡波太村とともに一村を構成していた。享保一〇年(一七二五)の入会漁場出入裁許留書(高梨家文書)に掲載された延宝二年(一六七四)訴状に浜波太村とみえ、海高として三〇石余とあり、旗本植村(のち勝浦藩主)領。元禄郷帳では高四八石余。元文村高帳では高五六石余で、勝浦藩領。宝暦元年(一七五一)に同藩主植村氏は改易され、大岡忠光領となり、同六年大岡氏が武蔵岩槻へ転封となった後も岩槻藩領として幕末まで続いた(「寛政重修諸家譜」、宝暦二年「勝浦藩申渡定書」貝渚区有文書、同一〇年岩槻藩領知目録写、旧高旧領取調帳など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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