漁業は、自然の生態系のなかで自律的に更新される水界の動植物を主として生産の対象とする採取産業であって、広義には、水界動植物を栽培、増殖、養殖する増養殖業を含んでいる。
漁業と水産業は同義的に用いられる場合もあるが、一般的には後者は、水産資源の採取、増養殖に、製造、加工、流通を含めたものの総称として、用いられる。本項においては、漁業の歴史的展開を中心に記述し、「水産業」の項で漁業を含む水産業の現況を中心に記述する。
[高山隆三]
海底・河川・湖沼の地形、水流、水温等の自然諸条件は地球上の地点によって異なっている。したがって水域ごとに水界の生態系も同一ではなく、水産資源の種類と量も異なってくる。また同一の水域であっても、季節によって、水温、海流等の自然条件は変化し、その変化に生物的に適応して、大部分の魚類は、それぞれ範囲を異にはするものの、回遊・移動する。漁業は、このような自然の生命過程を営む水界動植物を主として生産の対象とするという点で、同じく第一次産業に分類されている農林業や牧畜業とは、生産の性格を異にしている。陸上での原始的な狩猟や採取という生産活動は、生産の対象となる動植物を人間が管理し育成する産業である牧畜業、農林業へと発展してきたのに対し、漁業は狩猟的、採取的生産を基本的な性格とする産業である。このような農林業、牧畜業との相違は、第一に、漁業では、広大な海洋に生息する水産資源が豊富で無尽蔵であるとみなされてきたこと。第二に、海洋の巨大な自然諸力を特定の魚類の繁殖、成長に適した環境に改造し、制御することに技術的な困難さがあり、海洋を水産資源の牧場のように利用することは、なお海洋、魚類の管理技術の発達にまたなければならないこと。第三に、1970年代後半に至るまで、各国の領海を除く広大な海洋が公海としてどの国にも属さず、基本的には自由に漁業を営むことができたこと、などの点に由来している。
以上のことから明らかなように、漁業生産の特徴は、第一に、自然の豊かさの現れである水産資源の状況に大きく規定されることである。漁獲のための網や船など同一の労働手段と労働方法を用いても、水域によって漁獲量は異なり、また同一の水域でも、自然の変動によって水産資源の状況が異なり、漁獲量が年々変動するのである。第二に、漁業生産では、漁場、漁期が、水界の動植物の生態、習性と自然条件によっても規定されることである。水界の生産の対象となる動物は産卵や索餌(さくじ)のため、適温や適した水域を求めて季節的に回遊、移動する。漁業生産の場である漁場は、魚群が群生し、あるいは回遊、移動する状況に応じて、季節的に、また日々に変化する。さらに、回遊、移動する水域も、潮流の強さやその流れが変化することによって、年々変化する。それに加えて天候による制約がある。たとえば悪天候が続く季節には出漁が困難であり、南氷洋や北洋などでは操業期間が限定されている。このように漁業の産業的特徴は、漁獲量に変動があって、生産が不安定であり、したがって生産活動が不規則となり、また季節的な制約をもつことである。これを漁業労働の側からみると、工業労働一般に比べて、日々の漁の模様によって労働が不規則に変動し、季節的な繁閑が大きく、さらに海上における労働は、天候の影響を受けやすく、海難事故や操業中の事故の危険性が高いことを特徴とする。漁業経営の側面からみると、生産の不安定性や海難事故の危険性は経営を不安定にする。また、だれにも属さない無主物である水産資源の先取をめぐって漁業経営間の競争は過度になりやすく、その結果、対象水産資源の乱獲を導き、経営を悪化させる傾向がみられる。逆に、優等な漁法、漁場を発見した経営には高い利潤が獲得される。したがって、確実な生産と漁獲の増大を目的として、漁具、漁船、漁法の改良が長年にわたって積み重ねられてきており、近代以降では工業の発展が漁業生産手段を革新し、漁獲量の飛躍的増大をもたらしたのである。
現代の漁法も魚類の生態に対応して網漁法と釣り漁法に大別される。網漁法には主として(1)引網漁法(海底に生息し、広範囲には回遊、移動しないタラ・カレイ・ヒラメ等の底魚(そこうお)類を網を引き回して漁獲する漁法。トロール網、底引網等を用いる)、(2)巻網漁法(海の表層・中層を群をなして回遊するイワシ・サバ・アジ等の浮魚(うきうお)を網で取り囲んで漁獲する漁法。巾着(きんちゃく)網、揚繰(あぐり)網を用いる)、(3)刺網漁法(網を張って網目にかかるサケ・マス等をとる)、(4)定置網漁法(一定の場所に垣網を固定し袋網にサケ・ブリ等を誘導して漁獲する)がある。釣り漁法としては、広水域を回遊するマグロには長いロープに鉤(つりばり)を一定間隔でつけた延縄(はえなわ)が、また群れをつくって回遊するが速泳力をもつカツオに対しては竿(さお)釣り漁法がある。しかし、海底の状況、海流、魚道のあり方等々、複雑な自然条件に対する世界各地域の漁業者の経験と伝統によって、同一魚種に対しても種々の漁法が開発されてきた。漁法としては引網漁法と巻網漁法が漁獲能力が高く、近年ではカツオ・マグロも巻網で漁獲されるようになり、先進国の漁獲の大部分がこれら網漁業によるものとなっている。この漁獲能力の上昇は、無限とみられてきた水産資源の限界を明らかにし、このことから国際的、国内的に漁業調整が図られ、増・養殖技術の開発も進められることになったのである。
[高山隆三]
河川、湖沼や海浜に生息繁茂する魚貝藻類を採取、漁獲して食用および生活用具として用いる活動は、貝塚や低地遺跡等から明らかにされるように、原始時代から営まれていた。しかし、漁労が食糧獲得の重要な手段となるのは、ヨーロッパでも旧石器時代後の中石器時代に入ってからのことであるとみられ、日本においても縄文時代になってからといわれる。日本の貝塚を構成する貝類も、地域、年代により異なるが、ハマグリ、アサリ、カキ、ハイガイなど多様であり、河口などではシジミ主体の貝塚も発見されている。貝塚や低地遺跡からはスズキ、クロダイ、マダイ、マグロ、サメなど多種の魚骨やイルカ、アシカの骨も出土しており、縄文時代に、今日われわれが食用とする沿岸性の水産資源のほとんどの種類を利用するに至ったとみられる。漁具、漁法としては、弓矢、やす、銛(もり)、鉤(つりばり)、網が用いられ、網以外の漁具の素材は、石、シカの角、獣・魚骨、竹・木などであった。網の素材には植物繊維が用いられたものとみられるが、どのような漁網が用いられたかは明らかではない。
古代・中世にかけて漁具、漁法の発展が徐々に遂げられてくる。骨角製の鉤、銛から鉄製のそれに変わり、舟を利用した魚貝藻類の採取活動の範囲は広がり、塩蔵、乾燥等の加工、保存技術もくふうされてくるが、なお漁網の発達は十分ではなかった。しかし、日本では中世末には地引網が広く使用されるようになり、地域によっては手繰(てぐり)網が用いられてきた。網の素材は葛(かずら)、藤(ふじ)、藁縄(わらなわ)であったとみられる。
近世に入ると漁業は急速な発達をみた。江戸幕府の成立によって関東の沿岸各地に漁業がおこり、江戸中期以降には東北、北海道沿岸の漁業も盛んになった。こうした漁業の発達の要因としては、城下町など都市における魚貝類の食料としての需要ばかりではなく、魚類を肥料として用いるという農業面からの需要が増大したこともあげられる。これらの需要が相まって魚類の商品化を促したのである。魚市場(うおいちば)が江戸の日本橋に幕府の許可を得て開設されるのが1610年(慶長15)であり、魚問屋は京都・大坂をはじめ各地に成立してくる。肥料には干鰯(ほしか)、干鰊(にしん)等が用いられ、これの漁獲のために大規模な地引網あるいは敷網、大謀(だいぼう)網などの定置網の発達が促された。網の素材も、江戸中期以降には藁縄にかわって細くて強い麻糸が各種の網や定置の袋網に使用されるようになった。対象魚類の習性に応じた精巧な漁網が各地で考案され、漁網の種類も増加した。17世紀後半には網取り法による捕鯨業がおこって盛況を呈してゆき、加工面でも土佐節とよばれるかつお節の製法が考案され、カツオ一本釣り漁業も盛んになった。またひびを用いたカキやノリの養殖が広島湾、江戸の浅草で始まった。乾海参(ほしいりこ)、乾鮑(ほしあわび)、鱶鰭(ふかひれ)の3品をはじめ水産物の清(しん)国への輸出が、長崎から行われるようになったのもこの時代であった。このような漁業の発展は、一方で各地の漁村や漁業者間で漁場利用をめぐる紛争を引き起こした。幕府は1742年(寛保2)に、磯付根付(いそつきねつき)の魚貝藻類は地元漁村の占有とし、沖合いでの操業は勝手とする海面利用の原則となる御触書(おふれがき)を出すが、これによっても漁法、漁業の発展につれて紛争は後を断たなかった。こうしたなかで日本漁業は幕末には、無動力の小型漁船を使用する沿岸漁業としては限界に達する生産力的発展を遂げたのである。
漁業は世界各地で中石器時代以降多様な発展を遂げてきたが、すでに『旧約聖書』にも釣りおよび網漁業の記述がみいだされる。その網の形状は明らかではないが、素材としては麻が用いられており、小型の地引網であったとみられている。ヨーロッパにおいて漁業が盛んになるのは近世初頭からで、その主要な漁業の一つはニシン漁業であった。ニシン漁には麻製の流し刺網が用いられ、塩蔵、薫製、酢漬けなどの加工技術の発展によって市場が拡大され、漁船、漁網の規模も徐々に大きくなっていく。延縄によるタラ漁も盛んになり、タラは塩蔵、乾燥加工されて販路を拡大し、また18世紀後半から帆船によるトロール漁業も広まってくる。
なおオランダのグロティウスは、大航海時代を迎え、またバルト海、北海における漁業の発展を背景にして、1609年『海洋自由論』を公刊して、公海自由の原則を唱えた。一国の領土とみなされる領海の範囲外を公海と規定して、そこにおける航海、漁業等海面利用を自由としたのである。この原則はイギリスをはじめとする大国にとって有利な理論であり、歴史的には1970年代後半までの海洋利用秩序の基本となった。
[高山隆三]
産業革命の進展につれて、漁業生産も飛躍的な発展を遂げてくる。まず漁業の発展は、その主要な生産用具である漁網の需要を増大させた。1778年にイギリスで編網機械の特許が取得されたが、実用に耐えうる編網機が開発されるのは1835年のことである。この機械化は近代綿工業の発展を基礎とするものであり、素材も麻から綿へと転換した。しなやかで精巧な綿網は漁獲能力を大きく向上させ、漁網の商品化を促進した。規模の大きな漁網を用いるには漁船も大型化しなければならない。しかし、18世紀、また19世紀前半においてもスコットランドのニシン漁業では、漁港施設が整っていなかったために、漁船を浜に引き揚げなければならなかった。それによって漁船の大型化が制約されたばかりか、短いニシン漁期に、少しでも天候が悪いと出漁することさえできなかったのである。また、大型漁船の入港しうる港では、漁船数の増加から、漁獲物水揚げに長時間待たなければならない状態であった。漁業生産と流通の結節点の役割を果たす漁港の修築は水産業発展の鍵(かぎ)であった。19世紀には、おもに政府・地方自治体からの補助金によって、ときには漁業関連者、鉄道業者等の出資によって漁港修築がヨーロッパ各地で進められてくるのである。
綿網の使用と並んで漁業生産を革新したのが漁船の動力化とそれによる大型化である。汽船トロール漁業が最初に試みられたのは1878年イギリスにおいてであり、これはヨーロッパ各国に急速に普及した。漁船の動力化、高馬力化、大型化は遠洋出漁を可能とし、19世紀末には航海日数が3週間に及ぶものが現れた。この長期の航海において漁獲物の腐敗を防ぐには大量の氷を必要とするが、それを可能としたのは製氷技術の開発であった。トロール漁法は漏斗(ろうと)状の袋網を船で引いて漁獲するものであるが、網口を開くには長い丸太を用いており、そのような網では丸太の長さによって網の大きさも制限されることになる。その網口を改良したオッタートロールは1885年にイギリスで試みられ、その改良が各国で進められ、1895年にデンマーク船で成功を収めた。これにより網の大規模化が可能となると同時に、その網を汽船動力を用いて引き揚げる揚網機も開発され、トロール漁業における機械化大量生産技術が確立する。群をつくって回遊するイワシ等の魚類に対しては、大きな網で魚群を取り囲んで漁獲する旋網漁法がアメリカで発展した。さらに20世紀に入ると、漁船動力には、大量の石炭を搭載しなければならない蒸気機関にかわって、ディーゼル機関が用いられるようになり、漁獲物を収納する魚倉の容積が増大し、また漁船にも冷凍設備が備えられるようになり、遠洋漁場への出漁がいっそう可能となった。
大量漁獲漁業の発展と普及の要因の一つとして、19世紀の欧米大陸における鉄道網の広がりと、冷凍・冷蔵技術の発展による内陸部市場の拡大があげられる。他面、大量漁獲は、北海に顕著にみられたように水産資源の減少をもたらし、各国に国際的漁業調整という課題を負わせることになった。
欧米においては、捕鯨業やラッコ、オットセイの海獣猟も発展してきた。捕鯨は300~400トンの帆船を母船として、それに捕鯨ボートを載せ、クジラを発見すればボートで接近して銃殺するという漁法であった。殺しても海面に浮いている脂肪の多いマッコウクジラがその対象であり、銃殺したクジラを母船で採脂した。幕末にはクジラや海獣を追ってアメリカ、ロシアの漁船が日本近海に出没するようになったのである。その漁法に対し、1864年にノルウェー式捕鯨法が開発された。綱をつけた銛を捕鯨砲でクジラに撃ち込んで殺すもので、これによって、銃殺後、海中に没するクジラ類の捕獲も可能となり、1870年代後半から急速に普及したのである。
[高山隆三]
明治維新以降の日本漁業は、漁網・漁具の改良、漁船の動力化を進め、沖合いから遠洋へと漁場の外延的拡大を遂げ、第二次世界大戦と占領下の漁区制限の影響を受けて一時的に生産を低下させたものの、1950年(昭和25)以降ふたたび新たな発展を実現してきた。
日本の漁業生産が躍進の時代に入ったのは明治40年代(1910年前後)からである。この時代から漁獲量は一貫して上昇し、明治期に150万トン前後であったものが、大正期に200万トン台、昭和初頭に300万トン台、1930年代には400万トン台に達するが、戦時下・戦争直後に生産は低下した。1950年代以降、漁業は回復から新たな発展を遂げてゆき、72年には1000万トン台に達したのである。
第二次大戦前における漁業生産の発展を支えた技術的条件は、一般的には明治中期以降の工業化の進展、とくに漁業に関連して、石油発動機、綿糸漁網と蒸気機関など生産の工業的な基礎がつくりだされたこと、造船業が発達したこと、さらに、鉄道・海運といった輸送網の拡大・整備が国内市場を広げたことがあげられる。漁業部門としては、第一に石油発動機を動力とする漁船の動力化、第二に麻から綿漁網への転換、第三にトロール、捕鯨などの新漁法の欧米からの導入と、機船底引網漁業のような動力漁船と引網を組み合わせた漁業技術の開発があげられる。また漁業生産を推進した歴史的要因としては、第一に、漁業の振興を目ざした明治政府の諸政策、とりわけ水産博覧会等による内外の水産新知識・新技術の普及、および水産講習所・水産試験場による新技術・新漁場の開発、遠洋漁業奨励法(1897年=明治30公布)による新漁業や漁船動力化の促進などがあげられる。第二に、カツオ一本釣り漁業に代表されるように沖合い・遠洋への出漁の志向を漁業者自身が強くもっていたことである。第三に、漁場的・資源的条件が日本の近海・沖合い・遠洋にあったことである。北洋から黄海、東シナ海など広域にわたる漁場の存在が漁業発展の大きな要因であった。これら遠洋漁場の利用は公海自由の原則にのっとるものであるが、歴史的には日清(にっしん)・日露の両戦争と第一次大戦を通じて日本の海外領土と権益が拡大されたという事情があずかっている。
石油発動機を動力とする漁船でカツオ釣りが開始されたのが1905年(明治38)であり、同じ年に汽船トロール漁業も試みられ、1919年(大正8)にはディーゼル機関が試用され、昭和初頭には無線電信・冷凍装置を完備したトロール船が建造されている。カムチャツカ方面の北洋を漁場とし船上でカニ缶詰を生産する母船式蟹(かに)工船漁業が企業化されたのが1921年であり、母船式サケ・マス漁業は1930年代に本格的に発展した。ノルウェー式近海捕鯨は1899年(明治32)に発足するが、1939年(昭和14)には南氷洋に母船式捕鯨船団が出漁するまでに至った。漁港を国家が補助金を支出して修築するようになるのは1918年のことである。このように、第二次大戦前における日本漁業は、欧米に追い付くだけでなく、それを凌駕(りょうが)する成長を遂げた。
戦後も戦前の発展を基礎にして、さらに重化学工業の発達に即応して、新たな発展をたどった。綿網にかわり、じょうぶで軽く、腐敗しにくい合成繊維網の実用化、魚群探知機、航海衛星を利用した船の位置の測定、航行の自動化、急速冷凍施設、冷凍すり身設備を備えたトロール工船、漁業衛星による漁場情報の伝達など、漁業は、最新技術を用いた諸機械装置の複合体ともいえる漁船によって操業され、漁場は太平洋全域からさらに大西洋まで拡大する。しかし、1970年代後半からの世界的な200海里経済水域の設定という新しい海洋秩序の形成は、遠洋漁業の発展に終止符を打つことになったのである。
[高山隆三]
近代的工業生産力を基礎として発展した大量漁獲を可能とする漁業生産力の上昇は、既開発漁場では自然的に再生産される繁殖力を上回る漁獲をもたらし、水産資源を減少・枯渇させてきた。大部分の水産資源は自然物であってだれにも属さない無主物であり、漁獲されることによって初めて所有されることになる。したがって漁場が公海である場合には、無主物に対する先取得権によって、先取をめぐって競争が激しく展開されることになる。その結果、新技術が急速に普及し、過度の設備投資競争が行われ、水産資源の減少・枯渇が加速される一方、経営費の増大に見合う漁獲をあげられず、経済的採算を悪化させる。したがって、水産資源を保護・管理して漁業者間の操業を規制・調整する制度が必要となる。近代漁業の発展史は同時に漁業調整制度の展開の歴史となったのである。
ヨーロッパでは、トロール漁業が盛んになってくるにしたがって、これに対する規制の問題が発生した。1800年にオランダでは、トロール漁業は魚類の繁殖に有害であるとして、その禁止が政府に請願された。フランスのトゥーロン湾では1818年以降12年間にわたりトロール漁業が禁止され、1853年には漁獲し売買する魚類の体長を法律で定めた。イギリスでは1887年に海洋漁業規制法Sea Fisheries Regulation Actsが公布され、また北海を中心とする漁場における漁船1隻当り漁獲量の減少と魚体の小形化が問題となり、1902年からトロール漁業を対象として周辺14か国による国際海洋開発会議が開催されるようになった。海獣猟も、1891年に英米両国はベーリング海東部海上において両国民がオットセイ猟に従事することを禁止し、ロシアも93年オットセイ繁殖地周囲とロシア領沿海10海里以内を禁猟区とした。
日本では沿岸漁場の占有利用権の主体と利用方法を定めた漁業法が1901年(明治34)に公布されるが、トロール漁業が開始されると、まもなく沿岸漁業者との間に深刻な紛争が発生し、1909年汽船トロール漁業取締規則が制定されて禁止区域を定めた。また大正期の機船底引網漁業の急速な進展は沿岸漁場を荒廃させて、沿岸漁業者との間に激しい衡突を引き起こし、このため沿岸の一定海面を禁止区域と定め、操業には知事の許可を受けなければならないという機船底引網漁業取締規則が1921年(大正10)に制定された。しかし、その後も違反は絶えず、1929年(昭和4)には高知県で沿岸漁民が底引全廃を求めて県庁に押しかけるという事件まで起こるに至って、1930年、1932年と取締規則が改正強化され、底引網漁業は農林大臣の許可漁業となった。
第二次大戦後のわが国の漁業制度は、明治の漁業法を廃止し、新たに1949年(昭和24)に公布された漁業法によって規定されている。この法律は漁業活動・漁場利用の秩序の維持と水産資源の保護を目的とするもので、沿岸海域については、定められた漁具・漁法で漁業を営む権利である漁業権を設定し、回遊・移動する魚類を対象とする漁業については農林水産大臣または知事による許可制がとられている。サケ・マス流し網漁業、捕鯨業、マグロ延縄漁業、トロール・底引網漁業、巻網漁業等の沖合い・遠洋で操業する漁業は総隻数または総トン数が定められ、あるいは禁漁区、禁漁期が定められている。しかし許可制の施行にもかかわらず、漁業生産力の上昇は、業種によって資源状態、経営状況の悪化を引き起こし、減船整理、業種転換という調整が繰り返されている。また養殖や増殖の新たな技術の開発によって、沿岸海域の利用形態も変わってきており、漁業権制度の見直しも課題となってきている。
[高山隆三]
公海の漁場に各国の漁船が自由に入り会って操業する場合に引き起こされる水産資源の減少・枯渇に対し、関係諸国は資源の共同調査、総漁獲量の規制、国別漁獲量の割当て等についての条約や協定を結んできた。先進諸国の大型トロール船が入り会って利用してきた海域ではとりわけこうした取決めが必要であった。漁業条約に基づく国際的な機構はおもなもので20以上に上り、ほとんどの海域にその効力は及んでいる。この機構には、FAO(国連食糧農業機関)憲章に基づくFAOの地域機関として設立され、調査、研究、情報の配布を主とするものもあるが、また、1946年に成立した国際捕鯨取締条約のように資源調査・研究だけではなく、保存すべき鯨種、漁期、禁止区域、体長制限、捕獲制限頭数などを規定し、強い規制力を発揮している条約がある。1970年代からアメリカやイギリスで盛り上がってきた捕鯨反対運動の圧力も加わって、捕獲しうる鯨種と頭数も年々縮減され、わが国の捕鯨業も衰退を余儀なくされてきた。またこの条約に加盟している36か国のうち、1986年まで捕鯨を行っていたのは日本とソ連の2か国にすぎず、捕鯨全面禁止の多数決の前に、わが国も近世からの歴史をもつ捕鯨業からの撤退を余儀なくされた。
わが国は、2003年(平成15)現在、北太平洋さけ・ます保存条約、ベーリング公海漁業条約、北西大西洋漁業条約、南極海洋生物資源保存条約などおもなもので26の条約・協定を結んでおり、そのほかミクロネシア連邦、ナウルなどと民間漁業協定を結んでいる。この条約や協定には、前述の捕鯨取締条約のように200海里の排他的経済水域設定以前に結ばれたものもあるが、多くは設定に伴って内容を改めて締結されたものである。200海里経済水域内での外国漁船の操業に対しては、漁区・漁期の規定、漁船数・漁獲量・魚種の制限、入漁料の徴収、違反に対する罰金規定、操業に際しての監督官の乗船などの条項が盛り込まれている。
200海里の排他的な水域の設定の経緯には、公海自由の原則を掲げた先進国の近代的漁船による開発途上国周辺海域での操業に対する開発途上国の反発・ナショナリズムの高揚が底流をなしている。しかし同時に、その契機には、1945年にアメリカ大統領トルーマンが、アメリカの大陸棚資源に対する国家管轄権を主張した宣言があるのである。この宣言に倣って、同年にメキシコが、1946年にはパナマ、アルゼンチンが大陸棚の管轄に関する宣言を発し、さらに南米諸国のなかには主権宣言を行うものが現れてくる。1967年の第22回国連総会でマルタ代表が、海底資源は人類の共同財産であり、その利用に対する国際的秩序の必要性を訴えたことが、1973年の第三次海洋法会議の発足を促した。この会議の展開過程で、開発途上国は海洋の天然資源に対しても恒久的主権の主張を打ち出し、各国沿岸の200海里内水域を沿岸国の専管水域とする方向が強まったのである。
1976年4月にアメリカは漁業保存管理法を成立させ、1977年から実施し、EC(ヨーロッパ共同体)も200海里経済水域宣言を発して77年に実施し、ソ連も1976年12月に200海里水域を設定した。わが国も1977年7月に200海里漁業水域を設定するなど、世界の主要国は1970年代後半に相次いで200海里水域の設定を行い、海洋の新たな分割と利用秩序の体制が確立したのである。アメリカは1980年にブロー法といわれる「アメリカ漁業促進法」を成立させ、1982年にさらにブロー法を修正し、自国漁船による水産資源の最適利用を促進・強化し、外国漁船の入漁を締め出してゆくことを基本方針とすることになった。この200海里体制の確立によって、わが国のような遠洋漁業の操業を外国200海里水域に頼ってきた国は、漁獲量制限によって遠洋漁船の減船が強いられ、また入漁料も増額され、経営的には苦しい立場に追い込まれた。この時期の、入漁料等の変化をみると、わが国がアメリカに支払う入漁料等は、1977年の16億円から83年には86億円となり、ソ連水域への入漁に対する漁業協力費は83年度で42億5000万円に上った。ここに公海自由の原則によって漁業生産を遠洋漁場の開発・利用によって発展させるという生産力展開の時代は終わりを告げ、自国200海里内水産資源の合理的利用を模索する時代が始まったのである。
[高山隆三]
『日本学士院編『明治前期日本漁業技術史』(1959・日本学術振興会)』▽『岡本清造著『水産経済学』(1961・恒星社厚生閣)』▽『高山隆三他編著『現代水産経済論』(1982・北斗書房)』▽『小野征一郎著『200海里体制下の漁業経済』(1999・農林統計協会)』▽『川崎健著『漁業資源』(2000・成山堂書店)』
現在日本の漁業は世界一の地位を占めているが,本項ではこうした日本漁業の発達を歴史的に概説し,それとの関連で外国の漁業についても若干触れることにしよう。なお第2次大戦後については〈水産業〉の項目を参照されたい。
採取産業である漁業は原始時代から行われたが,その発達は内陸の河川湖沼や海面沿岸水域のうちで漁業が行われやすい条件をもったところで始められたと思われる。そして奈良時代以前から,突具,釣具,網のほかに魞(えり),簗(やな),筌(うけ),それに鵜飼いなどの漁具漁法が用いられていたという。その具体的内容がどの程度のものであったか明らかでないが,それらが奈良・平安時代にさらに発達し,その使用区域も広くなり,漁獲物の種類や量もかなり多くなったとみられる。
平安から鎌倉初期にかけて皇室,貴族,神社,寺院の諸権門が,それぞれの経済体制を確立していく過程で,漁業もその体制内に一定の位置を与えられていった。その位置付けは,あるいは水産物を貢進する供御人(くごにん),供祭人(ぐさいにん)等を寄人(よりうど)として組織し,御厨(みくりや)を設定することによって,あるいはその所有する荘園・公領内に浦,浜,津等の地域を定め,そこに生産者を招き寄せ開発させることによって行われた。そこから貢進された水産物は主として食膳に供せられるためのものであり,このほかに部分的には市売や振売を通じて,商品として流通する水産物もあった。
鎌倉・室町時代には,そのような関係がしだいに逆転して,水産物も商品流通の部分の比重が増大していき,やがてそれが主流を占めるようになった。それは漁業年貢の金納化などから推測される。またこの中世期に漁業生産の発展は,地域的拡大と漁業技術の発達という両面でさらに進められた。すなわち,はじめ畿内やその周辺が主であった漁業生産はかなり地域的に広がったし,中世末期には江戸時代に開花する大型網漁業が,伊豆,陸前,越中,九州など各地に姿を現しはじめたことが知られている。
漁業が名実ともに一つの産業といえるまでに発達したのは,江戸時代に入ってからである。江戸幕府が成立してから関東各地の漁業は関西についで急速に発達し(関東漁業開発),中期以降は東北と北海道の漁業も勃興した。このような発達は,江戸時代における商品経済の発達が,食料・肥料としての水産物の需要を増加させたためであり,またそれに対応して漁業技術が発達したためである。漁業技術の中では釣りはえなわなど各分野で進歩がみられたが,最も注目すべきは網漁業の技術である。そして江戸時代を通じて,日本の沿岸漁業におけるほとんどすべての代表的な漁業がいちおう出そろったのである。これら漁業の中には家族労働力だけで操業できるものも多かったが,10人以上数十人の労働力を必要とする大規模なものも少なくない。例えば上総九十九里浜の大地引網には,漁夫100人以上を必要とするものもあった。また建網(定置網類)は水中に垣網をたてて回遊魚群をふくろ網に誘導,捕獲する漁網であり,江戸時代に著しく発達したが,これにも漁夫数十人を要する大型漁網が少なくなかった。
これらの漁業の経営を述べるには,まず漁場制度に触れなければならない。漁業は天然に生息する魚介藻類を採取する産業であるから,そのための場である漁場がひじょうに重要である。概括的にいえば経済的価値が高く,位置固定・排他独占的利用の必要性が高い主要漁場の占有利用権は,総百姓共有,村中入会であった。なお総百姓といい村中といっても,その構成員は本百姓層のみで,水飲層は無権利状態であったとみられる。ただ水飲層も経済的価値が低く,位置固定・排他独占的占有利用の必要性も低い漁場で雑漁を営むことは許されていた。また経済的価値が高く,位置固定・排他独占的占有利用の必要性が低い漁場と,経済的価値が低く,位置固定・排他独占的占有利用の必要性が高い漁場との場合には,総百姓共有と個人有と二つの形態がみられえたであろう。総百姓共有漁場には大別して三つの形態がみられた。第1は,その漁場占有利用権が〈百姓株〉と結合し,一人前の百姓はすべて平等の占有利用権を分有する形態である。階層分化が進み,これらの百姓株に半人前,四分の一人前といった分化が行われた場合には,漁場占有利用権にもそれに応じた分化がみられた。第2は,漁場占有利用権がそれぞれの百姓の持高と結合し,それぞれの持高に比例して分有された形態である。耕地所有における総百姓の階層分化は,そのまま漁場占有利用権の持分の分化でもあった。第3は,以上のように漁場占有利用権を個々の百姓が分有することなく,それを村自体でもっている形態であった。なお総百姓の構成する近世的な〈村〉の形成が未成熟であった辺境地域では,漁場占有利用権の総百姓共有形態も未発達で,個々の上層百姓,名子主,商人などに,それが領主から与えられている形態が多かった。漁場占有利用権が近江商人に与えられたケースの多かった北海道の場所請負制度の場合は,その最も極端な事例である。
江戸時代の漁業経営は,家族労働力による小漁民経営が数の上では圧倒的であったが,家族労働力では営みえない大・中規模漁網経営やカツオ,マグロ等の釣りはえなわ経営も少なくなかった。そのような経営は漁民の共同経営か,網元の個人経営かいずれかであった。漁民の共同経営の場合でも,総百姓の共同経営と任意の漁民の共同経営と2通りであった。個人経営の労働力は小百姓や水飲百姓が多かったであろうし,共同経営の中でもそれは考えられる。江戸時代の漁業生産は,初めからほとんどすべてが商品生産として発達した。水産物市場は初期の城下町中心からしだいに在郷町や農村に拡大していった。その水産物流通の担当者は魚問屋であるが,その過程で漁業生産は魚問屋仕込制度などを通して,魚問屋の強い支配を受けるようになった。それに漁民の生活は農民の生活よりもずっと商品経済への依存度が高かった。
江戸時代末期までに一応出そろった日本の沿岸漁業は,そのまま明治初期にもちこされたが,当時の低い技術水準の制約下で,漁業生産は全体として横ばい,伸び悩み状態に入った。そして沿岸漁場の狭隘化問題がかなり深刻になってきていた。したがって明治期漁業の最重要課題は,政府にとっても漁業者にとっても漁業生産を発展させるための技術革新であり,明治期の大半はその模索であったとみられる。江戸時代で述べたように,漁業生産は早くから商品生産として発達し,家族労働力では経営できない大規模漁業が発達したために,漁業では早くから資本制生産の萌芽的形態がみられた。水産事項特別調査によると,1891年における全国の漁業者戸数は44万5000戸,その44.3%が漁夫戸数で残り55.7%が漁船漁具主戸数である。このように明治初年の漁業生産は,日本の産業の中でも最も資本制生産の萌芽的形態が目につく分野であった。しかしそのことは漁業生産のその後の順調な発達を意味するものではない。農林統計で漁獲高が記載されるのは1894年の162万t以降であるが,明治末期まで日本の漁獲高は横ばいを続けた。このような漁業生産の伸び悩み状態が全国的にみていつから始まるか確定はできないが,94年からはかなりさかのぼると思われる。この総生産量の伸び悩みは漁業生産の全領域における停滞を意味したのではなく,衰退していく古い漁業技術と開発されてくる新しい漁業技術との交錯の結果が生み出した現象であった。
古い漁業技術を概括的にとらえれば,第1にあまりにも沿岸的でごく狭い漁場範囲でしか有効でない技術であったことと,漁獲能率自体が低い技術であったということである。明治10年代から衰退傾向が顕著になる九十九里浜の大地引網漁業などは,その典型とみられる。
新しい漁業技術はその逆で,次の二つの方向をとった。第1は沖合遠洋への進出である。それは無動力漁船の時代からカツオ釣漁船やマグロはえなわ漁船の大型化,改良揚繰(あぐり)網,巾着網,打瀬(うたせ)網,流(ながし)網などの開発改良など漁業の沖合化,沖合操業化の方向として進められ,汽船漁業の導入や石油発動機による漁船の動力化などを通じて,大正期以降の沖合遠洋漁業のめざましい発達に連なった。第2は沿岸漁業の中での技術改良によって生産力を高めていく努力である。沿岸漁業の中でも漁業の沖合化,沖合操業化の方向が進み,事実上の漁場拡大が行われたし,もう一つ大型定置網の発明改良など漁獲能率を高める技術開発が進められた。それには綿網の開発普及など網材料の改良が大きかったが,これは第1の沖合遠洋漁業の場合にもいえることである。沿岸漁業の中でのもう一つの方向は,ノリ,カキ,真珠養殖とサケ・マスの孵化(ふか)放流など,養殖業への努力の展開が本格化されたことである。このようにして明治期は大正期以降の日本の本格的近代漁業を模索し,探り当てたのである。また以上の過程において,1899年にノルウェー式捕鯨の導入が成功し,1906年には石油発動機による漁船動力化の成功,08年には汽船トロール漁業の導入がみられた。これらはいずれも先進地のヨーロッパ諸国から輸入したり,学んだりしたものであった。
大正期以降戦前の漁業生産の発展はかなり順調であり,1912年の185万8000tから第2次大戦前最高に達した36年の432万8000tまで24年間に2.3倍の増加であった。海面漁業生産量の伸び率はもちろん沖合遠洋漁業のほうがはるかに高かったが,沿岸漁業生産量も1912年の172万tから36年の294万2000tと1.7倍になっている。ただ戦前には沿岸漁業生産量の比重が大きく,36年においても海面漁業生産量の68%を占めていた。以上の発展の過程は沖合遠洋漁業を先頭として,漁業における資本制生産発展の過程でもあった。多くの中小資本経営と日水,日魯,林兼など大資本経営も形成され,大経営を中心にカニ,サケ・マス,捕鯨など母船式漁業も発達した。ところで第1次世界大戦後,大正10年代の不況局面に入ってから漁獲量は伸びるが漁獲金額は横ばいの状態になった。昭和初期の恐慌期には最悪の状態になり,大漁貧乏が深刻化した。第2次大戦後まで続いたいわゆる〈沿岸漁業問題〉の発生である。漁業部門の内外における資本制生産の発達結果が,過剰人口をかかえ沿岸漁民の上に加えるようになった構造的重圧の深刻化であり,戦後まで引き継がれたのである。
江戸時代に村=総百姓を主体として形成された漁場制度は明治期に引き継がれ,新しい法治国家のもとでの漁場制度に再編された。1901年に旧漁業法が公布され,専用,定置,特別に整理された漁業権は物権とみなされ,その所有主体は明治の町村合併以前の〈村〉から同地区の〈漁業組合〉になった。この制度は旧慣尊重を原則とし,江戸時代の権利関係を打破するものではなかったが,条件によってその後民主化も進めうるものであった。しかし本格的な民主化政策としての漁業制度改革の実施は,第2次大戦後占領軍の軍政下においてであった。新漁業法は農地改革よりもおくれて難航の末に49年12月に成立し,50年3月以降に施行された。
戦後漁業生産の発展は戦前よりもさらに急速であった。戦争による荒廃から生産量がほぼ戦前水準に復したのは51年(戦前を上回ったのは1952)であるが,同年の462万7000tから75年の1054万5000tまで,前述の戦前の例と同じ24年間に2.3倍に急増した。沖合遠洋漁業,特に沖合漁業の比重がぐっと高まり,沿岸漁業の比重が大きく低下した。また経済の高度成長に支えられて水産物需要が拡大し,国内生産の増加にもかかわらず,かつての水産物輸出国から71年には輸入国に転落,いまでは世界一の輸入国である。戦後における漁業生産の急速な発展を支えたのは,水産物需要の増加のほか,合成繊維の開発導入による漁網綱類の改良と漁船ならびに関連機器の発達,それに養殖技術の進歩である。またこのような漁業生産の発展は,高度成長に支えられたものであったが,一方で高度成長は漁村の若年労働力を他産業,あるいは都市に流出させていわゆる過疎問題を引き起こしたり,石油や工場・都市排水などによる漁場汚染問題を深刻化させるなど,さまざまな社会的ゆがみを生み出しもした。
執筆者:二野瓶 徳夫
漁民の生業は厳しい自然環境のなかで営まれるため,生命の安全,豊漁祈願に関し,種々の信仰がある。船の守護神としての船霊(ふなだま)信仰は古くから知られ,船霊の名は《続日本紀》や《延喜式》神名帳に見える。この特徴として,その発現する機会は,(1)特定の場-海路難所,岬などの聖地,(2)特定の時-天候の急変や神に対し粗相をした場合,(3)特定の人だけに予兆が感知される,などである。また,オーダマサマをまつるところが瀬戸内海海域に広くみられる。オーダマは網霊の意味で,網のアバ(網の上縁部につける浮子)に取り付けたものを神体とし,これを失うと漁がないという。いうまでもなく,えびすは漁民信仰の基底をなす。一方,農業神としての稲荷信仰が漁民の間にも,青森県方面をはじめかなり広く流布している。狐の鳴き方や供物の食べぐあいで豊凶を占うという。さらに竜宮信仰は水神信仰を基盤とし,漁民に深く根ざした信仰でリューゴンさん,竜宮などと呼び,多くの港々の玄関口に当たる波止にまつられ,初漁の魚をささげ豊漁を祈願する。蛇も竜といつしか混交して〈長もの〉と表現され,海の神の表象となっている。海上生活で使うことを忌み嫌うことばは〈沖言葉〉といい,蛇や猿などの語は口にしない。また金物を海中に落とした場合,リューゴンさんにお詫びとして洗米や神酒を捧げる習俗がみられる。大漁祝(たいりよういわい)をマンイワイというが,マンは幸せとか運という意味で,不漁時にはまんなおしの儀礼を営む。死や葬儀関係のことを穢れとして黒不浄といって一般に嫌うが,一方では海上で海難者を見つけると必ず拾い上げて丁重に葬り,葬式に用いたものを豊漁の縁起物として歓迎する心意がみられる。出産や月経は赤不浄として徹底的に忌む。漁民の山アテ(沖で漁場を確定するため山を見て位置を知る)の対象になる山に寄せる信仰は強く,山形県善宝寺,宮城県金華山,志摩半島の青峰山などはその代表的な対象となっている。
→漁労文化
執筆者:北見 俊夫
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…その一方では集積した土地を直接耕作にあて,古い譜代下人や質奉公人に替わり,日限奉公人などと呼ばれる新しい雇人を使う4~5町規模の商品作物中心の農業もみられるようになる。 畿内を中心に綿作・菜種作・野菜作などに油粕・干鰯などが重要な肥料源として使われはじめたことは,漁業にも変化を生じた。近世初期には各地の海岸地帯に領主の御用魚を小物成として納める地が生じたが,1650年以後になると町場の商人たちが海岸村に魚を求めて入りこむようになる。…
…水界の動植物を生産対象として行われる漁業と養殖,その生産物を原料とする水産加工,生鮮および加工水産物の輸送・保管・流通,以上の各事業分野を包括するものとして水産業という用語がある。漁業,養殖業のいずれも,その生産物は生物であるところから,品質の変化が大きくかつ急速であり,品質の劣化や腐敗によって商品としての使用価値を損ないやすい性質をもっている。…
※「漁業」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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