貞観七年(八六五)慈覚大師円仁は大山に入山したと伝えられる。円仁の来山は疑わしいが、「入唐求法巡礼行記」承和一四年(八四七)一〇月二八日の記事から大山と円仁および天台宗との結び付きは否定し得ず、また比叡山の阿弥陀信仰の影響が大山にも及んだものと考えることができよう。阿弥陀堂創建の年代は確定しがたいが、天承元年(一一三一)三月一四日などの胎内銘をもつ本尊阿弥陀如来像が存在しているから、遅くとも平安末期と推定される。通説によると阿弥陀堂はもと
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阿弥陀如来を本尊とする堂やそれを含む院(阿弥陀院)。奈良時代から記録にみえ,東大寺南阿弥陀堂(741)や法華寺阿弥陀浄土院(760)は有名で,後者には苑池もあったらしい。このような伽藍は《当麻曼荼羅(たいままんだら)》のような浄土変相図の影響を受けたものであった。しかし,阿弥陀堂という形式が成立し隆盛となるのは,末法思想を背景として浄土信仰が高まった平安時代中ごろからで,大小各種の規模の堂が建立された。これには本尊と脇侍を中心に安置し,周囲を行道できる求心堂平面のものと,九品(くほん)阿弥陀になぞらえた9体の仏像を並べる九体阿弥陀堂とがあった。求心堂平面をもつ堂は平安前期に円仁によって建立された比叡山の常行(じようぎよう)三昧堂のように中心に仏壇をおき,周囲1間通りに行道できる庇(ひさし)をめぐらし,さらに孫庇をめぐらした方五間堂の省略形から発展したとも考えられる。その左右に翼廊を付し,前面に苑池を設けた形は1053年(天喜1)に藤原頼通が造営した平等院阿弥陀堂(鳳凰堂)で,白河天皇の法勝寺(1077)や藤原基衡の平泉毛越(もうつ)寺(1150ころ)なども浄土になぞらえて,苑池に面する伽藍とされた。小型の方三間堂(阿弥陀堂)は全国各地に設けられ,京都法界寺阿弥陀堂は方5間に裳階(もこし)を付した発展形式をもつ。中尊寺の金色堂は阿弥陀堂を工芸的に装飾して墓堂に使用した例である。大分県豊後高田市の富貴寺(ふきじ)大堂(12世紀末)は正面を3間,奥行きを4間とし,中心より後方に仏壇をおき,周囲行道と仏壇前の儀式の両方が可能な平面をつくっている。一方,九体阿弥陀堂は藤原道長建立の法成(ほうじよう)寺(1020)が古い例で,京都を中心に各地に建てられた。現存するのは浄瑠璃寺本堂(1107)のみである。これらの阿弥陀堂に共通する特色は,苑池を伴うものが多いこと,内部装飾が華麗で壁画や彩色文様などを各部に施していることであり,阿弥陀浄土を眼前することが目的であった。建築としては床張り,小組格天井(ごうてんじよう),板壁など和様の表現を主とした。鎌倉時代に仏教宗派が多様になり貴族の力も衰えると,阿弥陀堂の華麗なものはしだいに造営されなくなる。重源の造営した浄土寺浄土堂は阿弥陀三尊をまつる三間堂であるが,建築の構造・表現はそれまでの阿弥陀堂とはまったくちがうものとなった。
執筆者:沢村 仁
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阿弥陀仏を本尊にもつ堂宇の総称。中国で東晋(とうしん)時代に慧遠(えおん)が廬山(ろざん)(江西省)般若台(はんにゃだい)に創建してから、唐時代に善導(ぜんどう)、法照らが造営したとみられる。日本においては、奈良時代に東大寺阿弥陀堂、法華寺(ほっけじ)浄土院が建ち、阿弥陀悔過(けか)などの法要が行われた。阿弥陀堂の建立がもっとも盛んになったのは平安時代後期で、方一間の母屋(おもや)に阿弥陀仏を安置し、周囲に庇(ひさし)を伸ばして三方を囲んだ形式につくられた。これは、円仁(えんにん)が比叡山(ひえいざん)に始めた常行堂(じょうぎょうどう)の形式を継いだもので、一間四面堂とよばれる。源信(げんしん)らにより、浄土信仰が一世を風靡(ふうび)すると、貴族階級はことごとく浄土往生(おうじょう)を願い、個々に阿弥陀堂建立にいそしんだ。藤原道長の法成寺無量寿院(ほうじょうじむりょうじゅいん)阿弥陀堂はその代表で、藤原頼通(よりみち)の宇治平等院鳳凰堂(ほうおうどう)にその様式がしのばれる。福島県いわき市の願成寺(がんじょうじ)(白水(しらみず)阿弥陀堂)、京都日野の法界寺阿弥陀堂、京都大原の三千院本堂、大分県豊後(ぶんご)高田市の富貴寺(ふきじ)大堂、岩手県平泉の中尊寺金色堂、京都の浄瑠璃寺(じょうるりじ)本堂などが遺構として有名。
[木内堯央]
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阿弥陀仏を本尊として安置した堂。中国では東晋の僧慧遠(えおん)が盧山(ろざん)の般若台精舎(はんにゃだいしょうじゃ)に阿弥陀仏像をすえたのに始まる。日本では奈良時代に阿弥陀信仰が流行し,東大寺阿弥陀堂などが造られた。平安後期の浄土信仰の隆盛にともなって,この世で阿弥陀仏の極楽世界とその荘厳(しょうごん)を心に描いて一心に思いをこらし観相念仏を唱えるため,阿弥陀堂が数多くたてられた。藤原道長の法成(ほうじょう)寺,同頼通の平等院鳳凰堂(1053)や富貴(ふき)寺大堂(12世紀前半)・願成寺白水阿弥陀堂(1160)などが代表。京都浄瑠璃寺阿弥陀堂(1107)は道長の頃に始まった九体阿弥陀堂の唯一の現存例。
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出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
…阿弥陀信仰が成熟したのは平安時代中・末期である。阿弥陀堂,迎接堂が建てられ,聖衆来迎図が描かれ,迎講,往生講,阿弥陀講などが営まれた。信仰者は当初僧侶・貴族層であったが,官人,武士,農民,沙弥など各層に及び,奴婢,屠児など卑賤のものも阿弥陀信仰を精神的支柱としていた。…
… 985年(寛和1)源信の撰述した《往生要集》は,現世をいとい来世に往生する手段として阿弥陀如来を念仏する五つの方法や臨終時の作法を説いたが,その中でも最も重視されたのは阿弥陀を観想する法と臨終時に来迎(らいごう)を祈念する法であったとみられる。以後浄土信仰は急速に貴族社会に滲透したが,その際,前者からは定印阿弥陀仏と阿弥陀堂建築が成立し,後者からは迎講(むかえこう),阿弥陀来迎図が生まれる。阿弥陀堂の代表的遺構は11世紀建立の平等院鳳凰堂,法界寺阿弥陀堂,白水阿弥陀堂などであり,葬堂に用いられている中尊寺金色堂も同類である。…
…そして,高野山の奥の院が弥勒下生の地と信じられた平安末期になると,人々は竹筒や木造の五輪塔に骨をこめて奥の院へ納骨するようになり,さらに室町時代になると石造五輪塔も持ちこむようになった。一方,土葬した上に阿弥陀堂を建立することも行われ,またこれに結縁せんとして火葬骨を持ちこむ者もあった。堂の中に阿弥陀如来の代りに五輪塔を建立する者も出た。…
…したがって,これは神社建築においては拝殿となり,八幡造から権現造へと発展する。平安時代の後半には浄土教が盛んになり,阿弥陀堂が数多く建てられた。これらは当時の人々が頭に描いていた極楽浄土の造形的表現で,平等院鳳凰堂などに見られるように,絵画・工芸の粋を集めて装飾された。…
…そして堀河天皇の墓所の上に阿弥陀如来の立つのが夢に見られるまでになった。ここに埋葬した上に阿弥陀堂を建立する風習が生まれてくる。現存する代表的な事例が平泉の中尊寺金色堂である。…
※「阿弥陀堂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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