日本歴史地名大系 「浦辺村」の解説 浦辺村うらべむら 広島県:府中市浦辺村御調(みつぎ)郡内の河面(こうも)川(芦田川)・御調川流域に位置する諸毛(もろけ)村・小国(おぐに)村・河面村・篠根(しのね)村・河南(かなん)村および三郎丸(さぶろうまる)村・白太(はかた)村・本(ほん)村・大蔵(だいぞう)村(現御調郡御調町)の九村の総称で、浦辺村組ともよばれた(芸藩通志)。慶長八年(一六〇三)の浦辺村々役人連署年貢請状(「御調郡誌」所収)に、<資料は省略されています>とある。「惣として」とあるように以降も公的には浦辺村一村で高付されており、元和五年(一六一九)の備後国知行帳でも浦辺村として高一千五八一石余。 浦辺村うらべむら 千葉県:印西市浦辺村[現在地名]印西市浦部(うらべ)小倉(おぐら)村の西に位置し、寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図では手賀(てが)沼に通じる水路に面する。浦部とも記された。応安六年(一三七三)銘の鰐口に「埴生西浦部天神」などと記されていたといい(房総金石文の研究)、当地をさすものか。「本土寺過去帳」には文安元年(一四四四)六月一七日に没した浦辺ノ神主性珍禅門がみえる。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高四九五石余、旗本上杉領。印西牧の牧付村で、享保一五年(一七三〇)野馬入場新田の開発が行われ、浦部新田持添として幕府領の五二町六反余・高五二石余があった(印旛郡誌)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by