天台宗(読み)てんだいしゅう

精選版 日本国語大辞典 「天台宗」の意味・読み・例文・類語

てんだい‐しゅう【天台宗】

〘名〙 (中国浙江省台州府の天台山が宗祖智顗(ちぎ)大師以後この宗の根拠地となっているところから) 仏語。
① 日本八宗・中国十三宗の一つ。法華経を根本とする。日本には奈良時代の天平勝宝六年(七五四)に唐の僧鑑真(がんじん)が初めて伝え、後、平安初期の延暦二三年(八〇四)に僧最澄が唐へ渡り、翌年帰朝して、比叡山に延暦寺を建てて日本天台宗を開創。朝廷の保護の下に隆盛をきわめた。後、分かれて山門派・寺門派・真盛派となった。比叡山延暦寺をはじめ、園城寺(三井寺)・日光輪王寺・上野寛永寺・中尊寺・妙法院(三十三間堂)・善光寺などが著名。天台法華宗。天台円宗。
類聚国史‐一七九・諸宗・弘仁一三年(822)六月癸亥「延暦末入唐請益、皇太子詹事陸淳、左降台州刺史、会天台宗道邃和尚座主
② 特に、山門派の称。

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デジタル大辞泉 「天台宗」の意味・読み・例文・類語

てんだい‐しゅう【天台宗】

法華経を根本経典とする大乗仏教の一派。575年隋の智顗ちぎ天台山にこもって大成。日本へは奈良時代に唐僧鑑真がんじんが初めて伝え、平安初期に最澄比叡山延暦寺を建て開宗。のち、山門派寺門派、さらに真盛しんぜいに分かれた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「天台宗」の意味・わかりやすい解説

天台宗
てんだいしゅう

6世期末、中国浙江(せっこう)省台州の天台山において、智顗(ちぎ)禅師が創始した教学と修行を奉ずる、中国・日本仏教を通じての代表的宗派。日本では平安時代に最澄(さいちょう)が比叡山(ひえいざん)に伝えて平安仏教の中心となり、文化に多大の影響を与えた。天台法華宗(ほっけしゅう)、法華円宗(えんしゅう)、台宗、叡山仏教ともいわれる。

 岳州(湖南省洞庭湖の北)華容県出身の智顗は光州(河南省南部商城県)南方の大蘇山(だいそざん)における慧思(えし)禅師の下で禅観を修し、『法華経(ほけきょう)』の真髄を受けたのち、金陵(きんりょう)(南京(ナンキン))で教化活動に入り陳帝はじめ僧俗多くの帰依者(きえしゃ)を集めたが、575年、38歳のとき天台山に籠(こも)り思索と実修に努めた。これが天台教義成立の成果となって、法華経精神によって全仏教を体系づけた『法華玄義(ほっけげんぎ)』、天台修行法の止観(しかん)を思想的に意義づけた『摩訶止観(まかしかん)』、独自の法華経注釈書『法華文句(ほっけもんぐ)』の天台三大部を講述した。これらの書は天台教義の指南となっただけでなく、インド伝来の仏教を中国人の実修できる仏教として形成した意義がある。しかも彼は釈迦(しゃか)から十三祖龍樹(りゅうじゅ)(ナーガールジュナ)の『大智度論(だいちどろん)』→慧文→慧思→智顗の相承(そうじょう)を主張した。師の講述の多くを筆録した章安灌頂(かんじょう)はじめ多くの門下は、この相承を守って天台山で修学し、灌頂→智威(ちい)(?―680)→慧威(えい)(634―713)→玄朗(げんろう)(673―754)→湛然(たんねん)と受け継がれた。智顗は全仏教を統摂し五時(5段階)に分類して意義づけ、すべての教理を蔵教(ぞうきょう)、通教(つうぎょう)、別教(べっきょう)、円教(えんぎょう)の四教で判じ、空仮中(くうけちゅう)の三観(さんがん)を綱格として、日常心の一念のうちに地獄や餓鬼(がき)から仏に至る十界が内在するという「一念三千」の思想や、人間的計らいを超越した境地を説く円教を主張した。

[塩入良道]

中国天台

天台山六祖荊渓(けいけい)湛然は、当時盛行した華厳学(けごんがく)や『起信論(きしんろん)』を学び、三大部の注釈や多くの著述で天台教義を宣揚し瓦礫成仏(がりゃくじょうぶつ)の説や仏教性悪説(しょうあくせつ)をも展開した。唐の武宗の廃仏や五代の戦乱により衰えた仏教は北宋(ほくそう)代に復興し、天台教学も十二祖義寂(ぎじゃく)と同門の志因(しいん)の両系から学僧が輩出し、教学の精密な研究の結果異論が生じ、山家(さんげ)・山外(さんがい)の論争に至った。義寂の弟子義通(927―988)とその門下の知礼(ちれい)や遵式(じゅんしき)らは四明山(しめいざん)や明州(寧波(ニンポー))を中心に、志因系の悟恩(912―986)、源清、慶昭(936―1017)らは銭唐(せんとう)(杭州)地方に住し、互いに反論書を著して70年に及ぶ論争を繰り返し、前者が山家派と称して後者を山外派と貶称(へんしょう)した。四明知礼門下の南屏(なんべい)(?―1103)、神照(じんしょう)(982―1051)、広智(こうち)の3系統は後世まで天台主流とされ、遵式系も教化面で活躍したが、山外派は漸次消滅した。南宋代には善月(ぜんげつ)や志磐(しばん)らが講学に秀で、元代は仏教学全体が衰微したが、明(みん)代に復興して禅や浄土との融合に進み、明末に学僧智旭(ちぎょく)が出た。

[塩入良道]

日本天台

日本天台宗は、785年(延暦4)最澄が東大寺で受戒した年、南都の仏教を避けて入山した比叡山で開創され、この山を中心に発展した。自ら完成するまで下山しないと『願文(がんもん)』で誓った最澄の法華教学は朝廷に認められ、彼は804年(延暦23)天台法門を求めて入唐(にっとう)した。入唐中の最澄は、湛然門下の道邃(どうずい)と行満(ぎょうまん)から天台円教を付法したほか密教、菩薩戒(ぼさつかい)、達磨禅(だるまぜん)の相承を伝えられ、のち円・密・戒・禅の四宗融合と称される。806年、南都六宗10人に対し、天台宗にも毎年2人の年分度者(ねんぶんどしゃ)(公認僧)を請い、ただちに勅許され、この年を天台宗の立教開宗とする。

 天台法華宗は南都仏教とくに法相宗(ほっそうしゅう)から非難を受け、徳一(とくいつ)との一乗三乗の論争(三一権実論争(さんいちごんじつろんそう))となり、最澄は人間の能力に応じて差別的教えがあるという三乗教に対して、法華円教こそ差別を超越した一乗の真実の教えと論難した。これが『守護国界章(しゅごこっかいしょう)』や『法華秀句(ほっけしゅうく)』などの著述となり、教えや修行に大・小乗があるように戒にもそれがあり、大乗戒こそ日本相応の仏教であると3回上奏し(のちこの三つの式を総称し『山家学生式(さんげがくしょうしき)』という)、『顕戒論(けんかいろん)』を奉って大乗菩薩戒を主張し、仏教統制官僧の僧綱(そうごう)の支配から独立する運動に生涯をかけた。822年(弘仁13)最澄の入滅後7日に大乗戒の勅許が下り、翌823年高弟義真(ぎしん)は遺弟に大乗戒を授け、また延暦寺(えんりゃくじ)号を賜り官寺に加えられた。

[塩入良道]

叡山仏教の確立

最澄門下には逸材が多かった。師とともに入唐した義真は師没後の一山を統率し、824年(天長1)勅命で延暦寺伝法師(1世座主(ざす))となった。第2世を継いだ円澄(えんちょう)(772―837)、入唐して師の不十分な密教を伝承し台密(たいみつ)(天台密教)の基を築いた円仁(えんにん)や円珍(えんちん)、唐土で没した円載(えんさい)(?―877)、師の行業を伝記とした一乗忠(仁忠?)、延暦寺別当で『伝述一心戒文』を著した光定(こうじょう)らが比叡山興隆の基礎を確立した。初の勅任座主(3世)となった円仁は、師の没後入唐して会昌(かいしょう)の廃仏(845)にあうが、その旅行記『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいぎょうき)』は世界的に著名である。帰国後、横川(よかわ)を開き如法写経会(にょほうしゃきょうえ)を始修し、写経によって悟れるという師の思想を実践に移し、五台山の念仏を伝えて叡山浄土教の基とした。円珍も入唐し多くの経軌(きょうき)や図像などを伝えて台密の充実を図り、三井寺(みいでら)(園城寺(おんじょうじ))を中興し、勅により延暦寺別院となし、門下の惟首(ゆいしゅ)(826―893)、猷憲(ゆうけん)(827―894)、増命(ぞうみょう)(843―927)、尊意(そんい)(866―940)は座主となった。

[塩入良道]

天台宗の発展

円仁滅後に4世座主となった安慧(あんね)(794―868)、六歌仙に入った遍昭(へんじょう)はじめ、安然(あんねん)、相応(そうおう)(831―918)は円仁門下で、安然は台密を五教論で大成させ、相応は修験(しゅげん)的行法による回峰行(かいほうぎょう)を創始した。天台宗を日本仏教の中枢としたのは18世座主慈恵大師(じえだいし)(元三(がんさん)大師)良源(りょうげん)で、皇室や貴族の庇護(ひご)を受けて堂舎を再興し、論議をおこして学問の発表会を設け、『二十六条式』を制して僧団の刷新を図った。「門下三千」と称されたうち、覚運(かくうん)は法華円教を宣布してその門流を檀那流(だんなりゅう)と称した。また源信(げんしん)は恵心僧都(えしんそうず)といわれ、その著『往生要集(おうじょうようしゅう)』は叡山浄土教を確立させ念仏思想の基となり、この門流を恵心流とよぶ。同門の横に住した覚超(かくちょう)は密教に秀で、その法系を川流(かわのりゅう)と称し、東塔南の皇慶(こうけい)の密教法流を谷流(たにのりゅう)という。同門の増賀(ぞうが)は大和(やまと)(奈良県)の多武峰(とうのみね)に入り法華三昧(ざんまい)を行じ、性空(しょうくう)は各地の霊山で修行して播磨(はりま)(兵庫県)の書写山(しょしゃざん)に円教寺(えんぎょうじ)を開創した。

 円仁系の良源に対し円珍系の余慶(よけい)は学徳良源と並び称せられ、門下にも人物が輩出した。989年(永祚1)余慶が天台座主となると、円仁系僧徒が拒否して紛争となり、円珍系僧徒3000余人は叡山を追われ三井寺に移る。以後これを寺門と称し、叡山の山門と分裂した。余慶は座主職を3か月で辞し、1047年(永承2)三井寺長吏(ちょうり)の明尊(みょうそん)も座主在任わずか3日で、行尊も6日であった。この両門の抗争は後世まで続き、白河(しらかわ)天皇に信任された頼豪(らいごう)も戒壇建立を請したが、山門徒の反対で憤死した。

 しかし両門の教学は伸長し、源信はその著を入宋者に託して天台山に送り、弟子寂昭(寂照)(じゃくしょう)が入宋のとき「疑問二十七条」を託し、また日延、日円、成尋(じょうじん)など入宋僧の学は彼土に響いた。また恵心・檀那両流は8流となり、川・谷両流の密教は13流に分流した。各教義の心要を師から弟子に直伝(じきでん)する口伝法門(くでんほうもん)は鎌倉仏教成立の遠因にもなり、口伝によって独自に意義づけた教義は観心主義の教学や、人間は本来悟っているという本覚思想(ほんがくしそう)となり、記録故事に秘義を認める記家成仏や、声明(しょうみょう)による成仏などが唱えられた。このような風潮のなかに証真(しょうしん)、静算(じょうざん)、道邃(どうずい)など優れた学匠が輩出した。宝地房証真は叡山に籠り『法華三大部私記』その他の厳密博学の業績を残し、1204年(元久1)慈鎮(じちん)座主に勧めて九旬の安居(あんご)を開き興学に努めた。

[塩入良道]

天台仏教の展開

良源の『九品往生義(くほんおうじょうぎ)』や源信により教義づけられ、空也(くうや)や良忍(りょうにん)によって普及した天台の弥陀(みだ)信仰は、法華信仰念仏往生とを調和した叡山浄土教となった。良忍に師事した叡空(えいくう)の門には法然(ほうねん)(源空)が出で、鎌倉浄土教を支えた証空、弁長、聖覚(しょうがく)(1167―1235)、幸西(こうさい)(1163―1247)、長西(ちょうさい)(1184―1266)、親鸞(しんらん)、一遍(いっぺん)らは、いずれも叡山浄土教を受けており、栄西(えいさい)、道元、日蓮(にちれん)らはみな叡山で学んで鎌倉仏教を開いたが、15世紀の真盛(しんぜい)は宗内にとどまり天台円戒と称名念仏を双称し日課念仏の伝統を築いた。また最澄が叡山の守護神を山王(さんのう)とよび、神を仏の垂迹(すいじゃく)とする信仰は山王一実神道(いちじつしんとう)(山王神道)となり、真言宗の両部神道(真言神道)とともに長く民間に普及した。天台寺院は平安末から京都のほかに日光山、善光寺、多武峰、書写山、九州国東(くにさき)、平泉などで栄え、一方、田舎天台(いなかてんだい)と称されながら関東天台も発展した。

 織田信長焼討ち(1571)により全山壊滅した比叡山は、天海(てんかい)によって再建された。徳川家に尊崇された天海は、東山寛永寺を創建し法親王を迎えて輪王寺門跡(りんのうじもんぜき)となし、管領宮(かんりょうのみや)門跡は天台座主を兼ね仏教を総統した。また天海は幕府の寺檀制度(じだんせいど)の発案者ともいわれ、山王神道を民間に浸透させ、滅後慈眼大師として元三大師良源とともに両大師として信仰された。江戸時代には諸宗ともに教学が振興したが、四明知礼教学と四分律を鼓吹する安楽律院の妙立(慈山)や霊空(れいくう)とこれに反対する真流(1711―?)や敬光(1740―1795)らと論争して安楽騒動が起こった。明治維新で管領宮が廃され、寺院は神社と分離されて衰退し、第二次世界大戦後諸派や大寺が独立して一宗を称するに至った。

[塩入良道]

現状

天台系宗派は現在、天台宗、天台寺門宗(園城寺)、天台真盛宗(しんせいしゅう)(西教寺(さいきょうじ))、本山修験宗(ほんざんしゅげんしゅう)(聖護院(しょうごいん))、和宗(四天王寺)、聖観音宗(しょうかんのんしゅう)(浅草寺(せんそうじ))、鞍馬弘教(くらまこうきょう)(鞍馬寺)、修験道(五流尊滝院(ごりゅうそんりゅういん))、金峯山修験本宗(きんぷせんしゅげんほんしゅう)など20余がある。教育機関として、大正大学(浄土宗および真言宗(しんごんしゅう)豊山派(ぶざんは)、智山派との合同経営)、叡山学院、比叡山行院などがある。天台系全体(文部科学大臣所轄)で、神社数6、寺院数4539、教会数250、布教所数174、その他7、教師数1万5956、信者数302万4329(『宗教年鑑』平成26年版)。

[塩入良道]

『硲慈弘著『天台宗史概説』(1969・大蔵出版)』『佐々木憲徳著『天台教学』(1978・百華苑)』『島地大等著『天台教学史』(1965・隆文館)』『福田堯穎著『天台学概論』(1954・文一総合出版)』『塩入良道編『日本仏教基礎講座2 天台宗』(1979・雄山閣出版)』


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百科事典マイペディア 「天台宗」の意味・わかりやすい解説

天台宗【てんだいしゅう】

大乗仏教の一派。中国では天台大師智【ぎ】(ちぎ)が開創。その著《法華玄義》《法華文句》《摩訶止観》の三大部によって立てられた《法華経》を中心とする円頓一乗の教義とその実践に立脚する。智【ぎ】のあとに灌頂(かんぢょう)が出たが,以後不振で六祖湛然(たんねん)によって復興され,その弟子道邃(どうずい)・行満が受け継いだ。 日本天台は道邃・行満に教えを受けた最澄が,806年比叡山で開宗した。中国天台と異なり,法華円教のほかに,密教・菩薩(ぼさつ)戒を包容し,真言宗の東密に対し台密として発展した。平安中期には円仁円珍の衆徒の間に紛争が生じ,山門派と寺門派(園城寺(おんじょうじ))に分裂した。また良源の弟子の源信と覚運の系統も恵心(えしん)流と檀那(だんな)流に分かれた。台密は13流に分かれ,鎌倉時代には口伝(くでん)法門が盛んとなり,教義は衰微した。他方では多くの僧兵を擁して政治的武力抗争に介入し,戦国末期には織田信長の焼打を受け,ほとんど壊滅した。鎌倉時代の新仏教を唱えた法然(ほうねん),親鸞(しんらん),栄西(えいさい),道元日蓮らもこの宗派の学僧であったが,新宗派が興ることによって,天台宗学の独自性と自立性は減じた。天台宗の統率者は天台座主(ざす)と呼ばれ,中世以後は皇族が多くこの地位についた。江戸初期に天海が出て徳川氏の保護のもとに東叡山(寛永寺),日光山を建立,比叡山と合わせて天台三山と呼び,輪王寺宮が管領するに及び繁栄をとりもどした。現在,総本山は延暦寺で,寺門宗,真盛(しんぜい)宗など別派は多い。
→関連項目打聞集霧島山久遠実成山門派・寺門派寺門寂光土浄土信仰大正大学大日経大日如来題目澄憲天海天台座主天台山中西悟堂仏教平安時代平安仏教六根清浄

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改訂新版 世界大百科事典 「天台宗」の意味・わかりやすい解説

天台宗 (てんだいしゅう)

中国と日本仏教の一派の名。天台法華宗ともよばれる。

 隋代,天台智顗(ちぎ)が第2代皇帝煬帝(ようだい)の帰依をうけ浙江省の天台山国清寺と湖北省の荆州玉泉寺をひらき,中国仏教を再編したのに始まる。すでに5世紀の初め,クマーラジーバ(鳩摩羅什)が漢訳した《法華経》に基づき,智顗が著した注釈書の《法華玄義》と《法華文句》および《摩訶止観》の3部を根本聖典とする。9世紀の初めに,伝教大師最澄が入唐し,智顗より7代目の道邃と行満について宗旨をうけ,比叡山に延暦寺を創して日本天台をひらくが,最澄は,天台法華宗のみならず,達麿系の禅,円頓戒,密教という,同時代の中国仏教をあわせて,奈良仏教に対抗する新仏教運動の根拠としたため,日本天台は中国のそれとかなりちがったものとなる。とくに密教を重視する後継者によって,智証大師円珍を祖とする園城寺が独立し,天台密教の特色を発揮する一方,鎌倉時代になると浄土宗,禅宗,日蓮宗など,新仏教の独立をみるのは,いずれも日本天台の特色である。

 智顗の仕事は,《法華経》を軸とする教相判釈(きようそうはんじやく)と,止観の体系を完成させたことにある。教相判釈とは,大小乗の経論の相違を,仏陀一代の説法の時期によるものとし,そこに華厳,阿含(あごん),方等(ほうどう),般若,法華(涅槃(ねはん))という,五時の別を主張するもので(五時八教),さらに弟子たちの能力の向上に応ずる教化の形式という頓・漸・秘密・不定(ふじよう)の化義と,その内容に当たる蔵・通・別・円の化法を分け,諸宗の教学を総合することで,そこに《法華経》に説く一切皆成の真実と方便を,あますことなく発揮することとなる。頓は華厳であり,円は法華である。とくにまた止観とよばれる法華三昧の実践が,これに応じて総合され,頓・漸・不定の3種となる。すなわち頓は摩訶止観のことで,完全に高度の坐禅を最初から方便なしに行ずるもの,漸は漸次止観であり,低きより深きに至る前方便を具するもの,不定は始めから頓漸いずれとも定めず,随時に行ずるもので,低いところにすでに高い境地があり,高い境地にも低い方法を含むという,円融の実が発揮される。とくに智顗の時代,禅の実践者は暗証に堕し,教学研究者は訓詁に偏していたから,両者の偏向を戒めて,教と観の統一をはかるところに天台の特色があった。天台宗は,八宗の祖とされる竜樹より,北斉の慧文,陳の慧思に至る伝統を立てて,これを今師(こんし)相承とよび,《付法蔵伝》に仏陀みずから予言する二十三祖の伝統を,金口(こんく)相承とよんで,仏教の正系としての歴史を自任するのであり,あたかも六朝末に起こる末法意識の広がりの中で,中国民族自身による新しい中国仏教を開創することとなる。とくに,そうした中国仏教としての天台宗の特色は,やがて達磨禅の実践の方面に影響するのであり,早く日本に伝わることは,すでに先に記すごとくであるが,宗祖のとき,すでにあまりにも体系的な天台学は,中国でこれ以上の発展をみることはなかったといえる。

 日本天台は,奈良の旧仏教,および空海の真言宗と対決しつつ,日本固有の雑多な民俗信仰を包み込むことで独自の天台密教を形成する。禅や円頓戒もこれを助ける。叡山の五大院安然による法華曼荼羅と真言密咒の伝統は,空海の真言宗を含めて,日本人好みの口伝法門となる。しかし,王城の政治,経済,軍事の動きと深く結合していた叡山は,時代が下るとともに末法意識を強めるだけのこととなる。天台座主制度の人脈硬化も強まる。平安中期,元三大師良源が円教を再興するが,教学の弱体化を免れない。むしろ日本天台は,山門や寺門の外に出て,文学や美術の世界に新しい美意識を生む。衆生本来仏なりという日本独自の本覚法門は,禅や戒の形を変えて新しい女人成仏論を育て,衆生の範囲を草木国土にまで広げることで,幾多の法華信仰を主題とする文芸を生み,《法華経》に説かれる写経の功徳信仰が扇面写経,経塚の美術を育て,法華賛仰の法会の組織,読誦,講説の拡大より,風流念仏や能楽の再編を経て,近世の通俗講談や説経節の誕生を導く。近代日本の文芸にも法華信仰をテーマとするものがみられ,新宗教の運動の多くが日蓮教学の再編より出ていることも,注目してよい。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「天台宗」の意味・わかりやすい解説

天台宗
てんだいしゅう

中国,隋の智 顗を開祖とする仏教宗派。『法華経』の教説に基づいて五時八教の説を唱え,観法によってすみやかに成仏することを説く大乗仏教の一派。智 顗の著書『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』 (三大部) によって天台宗の教義が確立した。日本へは伝教大師最澄が延暦 23 (804) 年入唐し,天台山国清寺の道邃和尚から伝法を受けて翌年帰国し伝えた。比叡山延暦寺を中心に多数の優れた僧を生み,日本仏教の一大勢力を形成した。鎌倉新仏教の興隆,織田信長の叡山焼打ちなどにより衰微したが江戸時代には復興した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「天台宗」の解説

天台宗
てんだいしゅう

中国隋代の僧天台大師智顗(ちぎ)により開かれた宗派。「法華経」を根本聖典とし,五時八教・一念三千などの教理をたて,一心三観の実践を説く。805年(延暦24)最澄によって日本に伝来。翌年には年分度者(ねんぶんどしゃ)を与えられ,国家公認の宗となる。また比叡山での大乗戒壇(だいじょうかいだん)独立をめざして南都と論争し,最澄の死後に実現した。10世紀末に山門派(延暦寺)と寺門派(園城(おんじょう)寺)に分裂した。以後,両者とも貴族との結びつきを強めながら権門化し,中世にはその権勢を背景に政治史上でも大きな役割をはたした。鎌倉新仏教や中世文化の母体としても重要である。比叡山は織田信長の焼打により焦土と化すが,江戸幕府や諸大名の後援をうけて復興した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「天台宗」の解説

天台宗
てんだいしゅう

中国,隋代に智顗 (ちぎ) が開いた仏教の一派
『法華経』をもとにし,「一念三千」などの思想を説く。天台宗の書物は奈良時代に日本に入っていたが,最澄が入唐してからよく理解されるようになった。806年に最澄は従来の南都六宗のほかに新しく天台宗を独立させることに成功した。比叡山延暦寺が総本山。9世紀中ごろ,円仁・円珍が相ついで入唐し密教を学び,安然 (あんねん) に至って台密を大成。のち山門派・寺門派に分かれて対立した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「天台宗」の解説

天台宗
てんだいしゅう

中国・日本における大乗仏教の一宗派
隋の智顗 (ちぎ) が開祖。浙江 (せつこう) の天台山で修行して完成したのがその名の由来。法華 (ほけ) 経の主旨にもとづいて実践を重んじた。唐・宋代に盛行。日本には最澄 (さいちよう) が唐から帰朝して伝えたが,禅や密教という当時の中国仏教の傾向をあわせて導入したため,信仰の内容は異なる。

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葬儀辞典 「天台宗」の解説

天台宗

■本尊/釈迦牟尼如来■宗祖/最澄(伝教大使)■本山/延暦寺(滋賀比叡山)葬儀の特徴は、授戒と引導を中心に仏の供養と念仏によって得る功得をもって、故人の冥福を祈ります。授戒式を通夜あるいは入棺のとき行い、葬儀の後続いて引導を行います。

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世界大百科事典(旧版)内の天台宗の言及

【安然】より

…平安前期の天台宗の僧。天台密教(台密)の大成者。…

【一念三千】より

…人間の日常の一瞬一瞬のかすかな心の動きに,三千の数で現された宇宙のいっさいのすがたが完全にそなわっているということ。天台宗の基本的な教説の一つ。智顗(ちぎ)の《摩訶止観(まかしかん)》五ノ上に〈此の三千は一念の心に在り,若(も)し心無くば已(や)みなん,介爾(けに)も心あらば即ち三千を具す〉とあるにもとづく。…

【延暦寺】より

…滋賀県大津市にある天台宗の総本山。山号は比叡山。…

【最澄】より

…平安初期の僧。日本天台宗の開祖。俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。…

【山王信仰】より

…この日吉大社は山王権現とも称された。大山咋(おおやまくい)神を主祭神とする古い山岳信仰にその源流を発し,平安時代の初め,延暦年間(782‐806)に天台宗の開祖,伝教大師最澄が延暦寺を建立したとき,山麓にあった日吉の神を,延暦寺一山の鎮守神,天台宗の護法神と定めた。これは中国天台山にまつられている山王祠の例にならってまつったもので,山王は霊山を守護する神霊のことをいう。…

【山王神道】より

…元来日吉(比叡)の大神は大山咋(おおやまくい)神が比叡山に鎮祀されたものであるが,延暦年中(782‐806)僧最澄がこの地に延暦寺を創建するに及び別に大三輪神を山上にまつり大比叡神と称し,大山咋神は山下に移された。しかし大山咋神は元来比叡山の地主神(じぬしがみ)であったので天台宗徒は宗派の守護神と仰ぎ,唐の天台山の守神たる地主山王に擬し,この神を山王と称し天台神道の主神とした。 山王神道の中心思想は山王の2字を天台宗の三諦円融観をもって説明するもので,三諦とは仮諦・空諦・中諦を指す。…

【仏教】より

… 教相判釈の典型は,隋の天台智顗(ちぎ)が集大成する五時八教論である。それは,この国はじめての一つの宗派,天台宗の開創をも意味する。天台の五時八教論は,先にいうクマーラジーバが訳する《妙法蓮華経》を真実とし,他のすべての仏典を,その方便として体系づける。…

【法華宗】より

…注釈も多く行われ,とりわけ法雲の《法華経義記》はその最高とされる。この経を根本としたのが天台宗で,天台大師智顗(ちぎ)により一宗となり,独特の経の位置づけをした。智顗の三大部(《法華玄義》《法華文句》《摩訶止観(まかしかん)》)はその体系を示している。…

※「天台宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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