浦部(読み)うらべ

日本歴史地名大系 「浦部」の解説

浦部
うらべ

中世の国東くにさき郡・速見郡(現在の豊後高田市・杵築市・別府市・西国東郡・東国東郡・速見郡および大分郡湯布院町全域)の総称として用いられたと考えられる地名。浦辺とも記す。両郡域は海岸線が発達し、良港を多く抱えて海岸部での活動が活発であったことが呼称の由来と思われるが、山中にある山香やまが(庄)なども浦部の内とされており、定かではない。戦国期には一帯の在地領主たちは浦部衆(浦部水軍)として組織された。なおのちには南北浦部・北浦部などの表記がみえ、南北に分れたと思われる。しかし北浦部は同称を冠された地名からおおよそその範囲が想定されるが、南浦部については不明である。

文治二年(一一八六)四月一三日の後白河院庁下文案(益永家記録)に「豊後国浦部拾伍箇庄」とみえ、仁安二年(一一六七)の院庁下文の旨に任せて国司押妨を停止し、宇佐宮神宮寺弥勒寺に返付している。ここにみえる浦部十五箇庄とは八坂やさか(現杵築市)大神おおが庄・日出ひじ(現日出町)由布ゆふ(由布院、現湯布院町)伊美いみ庄・岐部きべ庄・竹田津たけたづ(現国見町)臼野うすの庄・真玉またま(現真玉町)香々地かかじ(現香々地町)ひめ(現姫島村)都甲とごう庄・草地くさじ(現豊後高田市)山香庄(現山香町)、藤尾寺(不詳)の一五ヵ所である。日田郡司職次第(東京大学史料編纂所影写本)によると、治承・寿永の内乱に参戦した日田四郎永俊は竹田津庄地頭職を得て浦部四郎を名乗っている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報