湯浅宗重(読み)ゆあさ・むねしげ

朝日日本歴史人物事典 「湯浅宗重」の解説

湯浅宗重

生年生没年不詳
平安後期から鎌倉前期の武士紀伊湯浅党の祖。父は宗良。平治1(1159)年の平治の乱の際,熊野詣の途中でこれを聞き,都に引き返そうとした平清盛に30余騎を率いて加勢し,六波羅入りを助けた。治承・寿永内乱期には,源頼朝挙兵を勧めた文覚と親しい関係にあったことから中立的立場をとったが,屋島の合戦後,平重盛の子忠房が湯浅氏を頼ったのを受け入れ,一族500余を率いて源氏方の熊野別当湛増の軍と戦った。しかし頼朝は文覚を通じて帰服を勧め,忠房は降人となった。源義経・行家謀反の際,これに同調せず頼朝に忠誠を尽くしたことを賞されて相伝の所領安堵され,紀伊湯浅党発展の基礎を固めた。<参考文献>安田元久武士団

(野口実)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「湯浅宗重」の解説

湯浅宗重 ゆあさ-むねしげ

?-? 平安後期-鎌倉時代の武士。
湯浅宗良(むねよし)の子。紀伊(きい)湯浅党の祖。平治(へいじ)の乱で平清盛をたすけて有力な家人(けにん)となる。平家没落後,平重盛の子忠房をまもり湯浅城にこもったが,源頼朝にくだり,文治(ぶんじ)2年(1186)所領を安堵(あんど)された。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の湯浅宗重の言及

【紀伊国】より


[武家政権と紀州の武士団]
 平氏政権期には,中央政界と深いつながりをもった武士団が台頭した。その代表的なものが湯浅宗重と熊野別当湛快で,彼らは平治の乱の際,熊野詣の途中にあった平清盛を助けて乱を勝利にみちびき,平氏の有力な家人となった。ところが源平内乱の末期には,宗重は一族の行慈が文覚の弟子であった関係から源氏に寝返り,湛快の子湛増もまた熊野水軍を率いて源氏の勝利に貢献した。…

【湯浅党】より

…中世紀伊国の武士団。本領の湯浅荘に拠る惣領家を中心に,得田,糸我(いとが),石垣,保田,阿氐河(あてがわ)氏などの庶子家,および婚姻関係で結ばれた〈他門〉の諸氏からなっている。湯浅氏の確実な祖は権守(ごんのかみ)を称した藤原宗重で,彼は平治の乱(1159)に際し,熊野詣での途上にあった平清盛をたすけて帰洛(きらく)をうながし,平氏の勝利に重要な役割をはたした。それ以降,平氏の有力な家人(けにん)となり,しばしば上洛して貴族や上皇と交渉をもち,僧兵の鎮圧などに活躍した。…

※「湯浅宗重」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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