改訂新版 世界大百科事典 「湯浅党」の意味・わかりやすい解説
湯浅党 (ゆあさとう)
中世紀伊国の武士団。本領の湯浅荘に拠る惣領家を中心に,得田,糸我(いとが),石垣,保田,阿氐河(あてがわ)氏などの庶子家,および婚姻関係で結ばれた〈他門〉の諸氏からなっている。湯浅氏の確実な祖は権守(ごんのかみ)を称した藤原宗重で,彼は平治の乱(1159)に際し,熊野詣での途上にあった平清盛をたすけて帰洛(きらく)をうながし,平氏の勝利に重要な役割をはたした。それ以降,平氏の有力な家人(けにん)となり,しばしば上洛して貴族や上皇と交渉をもち,僧兵の鎮圧などに活躍した。源平の内乱にも平氏方に属し,屋島の戦で敗走した平重盛(たいらのしげもり)の末子忠房(ただふさ)をかくまったりしたが,1185年(文治1)末ころまでに源氏に寝返った。平氏家人から鎌倉幕府御家人に転身することができたのは,宗重の子行慈が文覚(もんがく)の弟子であったことによるところが大きい。得田氏以下の湯浅一族は,芳養(はや)氏(牟婁(むろ)郡)を除いて在田(ありだ)郡内の諸荘園に所領をもち,いずれも地頭職(じとうしき)に補任(ぶにん)されたが,〈他門〉である宮原,藤並氏(在田郡),田仲氏(那賀郡),六十谷(むそた)氏(名草郡),木本(きのもと)氏(海部(あま)郡)などは地頭ではなく,西国御家人(さいごくごけにん)の地位にとどまった。
湯浅党の面々は在京人(ざいきようにん)として交代で洛中の八条辻固篝屋番役(かがりやばんやく)を負担し,また六波羅探題(ろくはらたんだい)からの指令をしばしば〈両使〉として国内に伝達・執行している。湯浅一族のなかでは,保田,石垣,阿氐河氏などに分化した宗光の系統が有力で,惣領家に匹敵する勢力を有していた時期もある。なお〈ミミヲキリ,ハナヲソギ,カミヲキリテアマニナシテ……〉と百姓を威嚇した阿氐河荘上村の地頭は,宗光の孫の宗親である。文覚,行慈のもとで出家し,高山寺の開山となった明恵(みようえ)も母が宗重の娘で,幼少より湯浅一族に養育され,しばしば在田郡に下向し,郡内の各地で修行した。このため一族のなかには明恵に対する信仰が広まり,これが族的結合の強化に一役買っている。鎌倉時代の湯浅党は紀伊国内で守護をしのぐほどの勢いを示したが,南北朝内乱には一族の多くが南朝を支持したため,室町期になると急速に衰退した。
執筆者:小山 靖憲
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報