湯浅党(読み)ゆあさとう

日本大百科全書(ニッポニカ)「湯浅党」の解説

湯浅党
ゆあさとう

平安中期以降、湯浅一族を中核として成長してきた武士団。御家人(ごけにん)役を勤めるために在京する順番を、正月から翌年2月まで、17番に分けて定めた1289年(正応2)の「湯浅入道宗重跡本在京結番注文(ゆあさにゅうどうむねしげあとほんざいきょうけちばんちゅうもん)」によれば、一族の所領として湯浅、田殿(たどの)、田仲(たなか)、糸我(いとが)、石垣、宮原、芳養(はや)、浜仲、保田(やすだ)、阿氐河(あてがわ)、木本(きのもと)、藤並(ふじなみ)、六十谷(むそだに)などの諸荘(しょう)がみえ、その勢力範囲は紀伊国在田(ありだ)郡(和歌山県有田(ありだ)郡)一帯に広がる大規模なものであった。また党は、湯浅一族の湯浅、保田、石垣、阿氐川、糸我、得田(とくだ)、崎山(さきやま)の各氏に加え、「他門」と称される田中、宮原、六十谷、木本、藤並などの諸氏によって構成されていた。なかでも宗重の嫡男宗景(むねかげ)の系統(湯浅氏)と、阿氐河、保田、田殿、石垣などの荘園の地頭(じとう)となった宗光(むねみつ)の系統(保田氏)とが有力で、党結合の中軸をなしていた。しかし鎌倉時代後半期には各家々が独立性を強め、党結合は解体の方向へと向かう。

[酒井紀美]

『安田元久著『武士団』(1964・塙書房)』

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百科事典マイペディア「湯浅党」の解説

湯浅党【ゆあさとう】

紀伊国在田(ありだ)(有田)郡を中心に勢威を振るった中世の武士団。有田郡湯浅荘を本領とする湯浅氏を惣領家とし,得田・糸我(いとが)・保田石垣・阿弖河(あてがわ)などの庶流各氏,さらに姻族の崎山氏・藤並氏ほかが加わっていた。湯浅氏は平氏の有力家人(けにん)として頭角を現し,のち鎌倉御家人に転じ,一族は有田郡内諸荘の地頭に補任された。の勢力は有田郡を越えて紀ノ川流域まで及び,また在京人として交代で京都八条辻の篝屋番役を務めた。元弘の乱後,その勢力は急速に衰退。華厳宗の高僧明恵(みょうえ)は湯浅一族の出身,また〈ミヽヲキリ,ハナヲソギ〉と百姓たちに糾弾された阿弖河荘地頭宗親も一族。
→関連項目阿【て】河荘

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世界大百科事典 第2版「湯浅党」の解説

ゆあさとう【湯浅党】

中世紀伊国の武士団。本領の湯浅荘に拠る惣領家を中心に,得田,糸我(いとが),石垣,保田,阿氐河(あてがわ)氏などの庶子家,および婚姻関係で結ばれた〈他門〉の諸氏からなっている。湯浅氏の確実なは権守(ごんのかみ)を称した藤原宗重で,彼は平治の乱(1159)に際し,熊野詣で途上にあった平清盛をたすけて帰洛(きらく)をうながし,平氏の勝利に重要な役割をはたした。それ以降,平氏の有力な家人(けにん)となり,しばしば上洛して貴族や上皇と交渉をもち,僧兵の鎮圧などに活躍した。

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世界大百科事典内の湯浅党の言及

【阿氐河荘】より

…地の利のある高野山が11世紀初めよりしばしば当荘の領有を企て,とくに12世紀末には源平合戦の混乱に乗じて源頼朝・義経の安堵まで獲得したが,いずれも失敗に帰している。1197年(建久8)鎌倉幕府が天王寺と高野山大塔の用材採取のために,神護寺の僧文覚を下司職に補任,その弟子行慈が湯浅党の出身であったことから,下司職は湯浅宗光に譲渡された。1210年(承元4)宗光は地頭職に補任され,以後この一族が上荘と下荘に分割して相伝する。…

【紀伊国】より

…湯浅一族のみが湯浅・保田・阿氐河(あてがわ)荘などの地頭に補されたのは,行慈・文覚と幕府との特別な関係によるものと思われる。鎌倉時代の湯浅党は,在田郡に蟠踞した本流のほか,婚姻関係によって多くの中小武士を包摂しており,その勢力は紀伊国の各地におよんでいる。鎌倉後期には,西国御家人のなかにもみずから地頭を称するものがあらわれ,高野山領荒川荘を中心に悪党の蜂起もみられた。…

※「湯浅党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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