熊本城下(読み)くまもとじようか

日本歴史地名大系 「熊本城下」の解説

熊本城下
くまもとじようか

現在の熊本市の中心部に位置し、熊本城がある茶臼山ちやうすやま台地を中心とし、西は井芹いせり川と坪井つぼい川中流、東は白川に囲まれ、北は黒髪くろかみ三―四丁目、南は春日かすが一丁目で限られる。それに旧高麗門外こうらいもんがい(現横手一―二丁目)、白川左岸の旧たから(現迎町一丁目)・旧新屋敷しんやしき(現新屋敷一―三丁目)、北の旧出京できよう(現池田一丁目)を加えた地域である。北のきよう町から茶臼山に至る台地が走り、台地の東から南を坪井川が流れ、城下南西部で井芹川を合流する。茶臼山台地は東側が断崖状をなし、西は自然に低地になって宮内みやうち段山だにやまに至り、井芹川に囲まれ、天然の要害の条件をもつ。

〔千葉城と隈本古城〕

天正一六年(一五八八)加藤清正入国以前の様子を記した茶臼山ト隈本之絵図(代継神社蔵)によると、茶臼山の西端近くの八幡宮(藤崎八旛宮)の下が宮内で、放生池がある。茶臼山の東山麓を坪井川が流れ、現花畑はなばた町・山崎やまさき町を経て現河原かわら町の長六ちようろく橋付近で白川に合流する。宮内の放生池から流れた水は、山崎の西で坪井川に合流する。このため茶臼山の東山麓下一帯は氾濫しやすく、沼沢や湿地が多かったと思われる。そのため茶臼山を中心とする地域が政治・軍事の中心地となるのは戦国時代からで、観応三年(一三五二)一二月日の伊東氏祐軍忠状(伊東家古文状)に「隈本在陣仕」と熊本の古名隈本くまもとがみえる。しかしこの時期には城は形成されていなかったと思われる。茶臼山台地に城郭が形成されたのは、菊池氏の一族出田秀信が千葉ちば城を構えたことに始まる。その時期は不明だが、文明四年(一四七二)四月一五日の藤崎宮番次第写(藤崎八幡宮文書)の裏書に「惣政所出田山城守殿」とあり、また同じ頃と思われる六月二日の菊池重朝書状(同文書)に出田山城守の名がみえることから、文明初年に千葉城に進出したと推定される。明応五年(一四九六)鹿子木親員(寂心)が千葉城に入城したが(古城主考)、永正四年(一五〇七)新たに茶臼山台地南端に築城したという。隈本城と称され、清正が築城した熊本城と区別するため、一般的に古城ふるしろとよばれる。天文一九年(一五五〇)逃亡中の守護菊池義武が隈本城を拠点として菊池氏勢力の再興を企図したため、大友義鎮の攻撃を受け、鹿子木氏も隈本城から退城した。その後義鎮の肥後経略の軍事上の中心的城として、城親冬が入城。城氏は一千町余を領したといわれ、入城後は白川以南の熊本平野や緑川以南の益城ましき郡一帯にまで所領を拡大し、天正五年の龍造寺隆信公御家中着到(鍋島文庫所蔵文書)には三千町歩と記されるほどであった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の熊本城下の言及

【熊本[市]】より

…市内には,1960年に復元された熊本城天主閣,清正をまつる本妙寺,細川ガラシャ夫人の眠る泰勝寺など名勝・史跡が多い。【岩本 政教】
[熊本城下]
 肥後国の城下町。〈隈本(くまもと)〉の地名の初見は1377年(天授3∥永和3)で,茶臼山の一隅に隈本城が構築されたが,南北朝期には政治の中心は守護菊池氏の本拠の隈府(わいふ)(菊池郡)にあり,隈本は古代以来の国府の地位を保ったにすぎない。…

※「熊本城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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