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加藤清正 かとう きよまさ

デジタル大辞泉の解説

かとう‐きよまさ【加藤清正】

[1562~1611]安土桃山時代の武将。尾張の人。幼名、虎。豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍の一。肥後の半国を与えられて熊本城主となり、文禄の役慶長の役で朝鮮に出兵。関ヶ原の戦いには東軍につき、肥後一国を与えられた。築城名手で、熊本城の設計は有名。

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百科事典マイペディアの解説

加藤清正【かとうきよまさ】

安土桃山時代の武将。通称虎之助。幼少より豊臣秀吉に仕え武功多く,賤ヶ岳の戦で七本槍の一人として有名。1588年熊本城主として肥後(ひご)半国を領有。文禄・慶長の役に出陣,蔚山籠城(うるさんろうじょう)など大奮戦(オランカイ)。
→関連項目川尻熊本[市]熊本藩小西行長賤ヶ岳の戦千丁[町]名護屋城

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

加藤清正 かとう-きよまさ

1562-1611 織豊-江戸時代前期の武将,大名。
永禄(えいろく)5年6月24日生まれ。豊臣秀吉につかえ,賤ケ岳(しずがたけ)の戦いに七本槍のひとりとして活躍。天正(てんしょう)16年肥後(ひご)(熊本県)半国の領主となる。文禄(ぶんろく)・慶長の役で朝鮮に出兵,講和派の石田三成(みつなり)らと対立した。関ケ原の戦いでは東軍に参加。戦後,肥後一国の領主となり,堅固な熊本城をきずいた。慶長16年6月24日死去。50歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。通称は虎之助。
【格言など】汝等はひとしく予が股肱(ここう)腹心なり。使うところはそのに従うのみ

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朝日日本歴史人物事典の解説

加藤清正

没年:慶長16.6.24(1611.8.2)
生年:永禄5.6.24(1562.7.25)
安土桃山時代・江戸時代前期の武将。肥後国(熊本県)の大名。従五位下主計頭,のち従四位下肥後守。尾張国愛智郡中村(名古屋市)の生まれ。清忠の次男。幼名夜叉丸。元服後に虎之助清正。豊臣秀吉と同郷の出身。その縁により幼少より秀吉の台所方に仕える。のち秀吉の直轄領の代官を務め,豊臣経済の状態や当時の経済構造,特に貿易の実態を知る。勇猛果敢な武将といわれる半面,「しわき人(けち,勘定にたけた人)」と呼ばれるほど緻密で合理的な性格は,この代官の職を通じて形成されたと思われる。清正の武名は天正11(1583)年,賤ケ岳の戦で七本槍のひとりとして功名をあげたのにはじまる。同16年,肥後半国(19万5000石)領主となり,秀吉の「唐入り」(朝鮮侵略)の先兵的役割を果たし漢陽(ソウル)を攻略,李朝の2王子を捕縛した。後世に朝鮮人民から「鬼将軍(清正)が来るぞといえば(泣く子も)すぐに泣きやんだ」といわれたほど,その武力行為は恐れられ,諸文化財の破壊も徹底したものであった。講和問題では秀吉の主張する講和条件を循守したため石田三成らと対立を深め,一時蟄居を命ぜられた。まもなく同処分は徳川家康の後援で解除されるが,これにより清正は関ケ原の戦で東軍(徳川方)に参加し,やがて肥後一国(54万石)大名へと成長していく。 清正は日本3大名城のひとつである熊本城の築城に着手し城下町の形成に努めるとともに,独特の手法で肥後の4大河川を改修,灌漑用水の便を図り約8000町歩の新田を開発した。そのため「土木の神様」と称され,後世「加藤神社」に祭られた。日蓮宗の熱烈な信者で寺社の復興に力を尽くし,キリスト教には厳しい弾圧を加えている。徳川幕府に服従する一方で豊臣家の存続を念願,家康と豊臣秀頼の二条城会見にも従い,豊臣家の危機を救った。その帰途,船中で病にかかり,まもなく病没。熊本市本妙寺に葬られる。<参考文献>『熊本県史料 中世編』,中野嘉太郎『加藤清正伝』,『新・熊本の歴史 近世』上

(森山恒雄)

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デジタル大辞泉プラスの解説

加藤清正

海音寺潮五郎の歴史小説。1983年刊行。

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世界大百科事典 第2版の解説

かとうきよまさ【加藤清正】

1562‐1611(永禄5‐慶長16)
安土桃山・江戸初期の肥後熊本の城主。尾張国愛智郡中村生れ。幼名夜叉丸。元服して虎之助清正。豊臣秀吉と同郷出身で秀吉の子飼いの家臣。83年(天正11)の賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍の一人。功により河内国等3000石をあてがわれる。85年従五位下主計頭。88年,朝鮮出兵の主要員として肥後半国19万5000石の領主に任命される。92年文禄の役に1万人出兵し,オランカイ(豆満江近辺の女真族の地)まで攻め,朝鮮2王子を捕縛。

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大辞林 第三版の解説

かとうきよまさ【加藤清正】

1562~1611) 安土桃山時代の武将。通称、虎之助。尾張の人。幼少より豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳七本槍の一人。熊本城主。文禄・慶長の役の先鋒。関ヶ原の戦いでは徳川方について肥後五二万石領主となる。他方、秀吉亡きあとの豊臣家の安泰もはかった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

加藤清正
かとうきよまさ

[生]永禄5(1562).尾張,中村
[没]慶長16(1611).6.24. 肥後,熊本
安土桃山~江戸時代初期の武将。通称虎之助。豊臣秀吉の荒小姓の一人として常に近仕し,中国征伐に従軍した。天正9 (1581) 年因幡鳥取城,備中冠城の攻城に功あり,翌 10年には明智光秀の軍と摂津山崎に,また丹波亀山に戦い,これを打破った。同 11年4月の賤ヶ岳の戦いには「七本槍」の一人として勇名をはせた。同 13年,従五位下主計頭に叙任され,同 15年に肥後熊本 25万石を領した。文禄・慶長の役においても,朝鮮南北の征旅は攻城野戦とも大いにふるい,鬼上官の異名をとり,特に蔚山 (ウルサン) の籠城戦は有名 (→蔚山の戦い ) 。また武断派として石田三成らとは和せず,慶長5 (1600) 年関ヶ原の戦いには東軍に加担し,九州での戦いに終始した。功により加増されて 52万石を領した。同 10年4月,従五位上侍従兼肥後守。また築城,土木,築堤に長じ,熊本城,名古屋城をはじめ,安土桃山~江戸時代初期の名城には彼の関与したものがきわめて多い。性は豪毅で,『論語』を好んだといわれ,その信義に厚い人柄は,秀吉,秀頼2代に仕えた功績と相まって,江戸時代以降庶民に愛され,その忠勇談は,講談,小説,戯曲などを通して一般庶民に愛好された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

加藤清正
かとうきよまさ
(1562―1611)

安土(あづち)桃山時代の武将。秀吉「子飼い」の肥後熊本の大名。尾張(おわり)国愛智(えち)郡中村(名古屋市)の生まれ。幼名夜叉丸(やしゃまる)、元服後は虎之助(とらのすけ)清正と改名。幼少時より豊臣(とよとみ)秀吉に仕える。1580年(天正8)播磨(はりま)国神東(じんとう)郡(兵庫県神崎郡)120石を給せられ、翌年の鳥取城攻め、備中(びっちゅう)国冠山(かんむりやま)城攻め、山崎の戦いに参加。とくに1583年の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで活躍し、七本槍(やり)の一人に数えられる。その功績により近江(おうみ)・山城(やましろ)・河内(かわち)国など3000石の知行(ちぎょう)を得る。1585年従五位下(じゅごいのげ)主計頭(かずえのかみ)に叙任。1587年の九州征伐には後備、肥後宇土(ひごうと)城番を勤める。このころの役職は兵粮方(ひょうろうかた)に関係していたらしい。また和泉(いずみ)国(大阪府)堺(さかい)周辺の代官を兼務。このころから母の教化で日蓮(にちれん)宗の信仰が強くなる。1588年佐々成政(さっさなりまさ)の後を受け、肥後北東部半国(芦北(あしきた)郡を含む)の領主となり隈本(くまもと)(熊本)城主。領地高約19万5000石。肥後の豊臣蔵入地(くらいりち)の代官も兼務。文禄(ぶんろく)の役には第二軍を率いて出兵し、鬼将軍と恐れられ、1592年(文禄1)7月には朝鮮の2王子臨海君(りんかいくん)、順和君(じゅんなくん)を会寧(かいねい)(北朝鮮)で捕らえ、さらに兀良哈(オランカ)(現ロシア領)にまで兵を進む。片鎌槍(かたかまやり)での虎狩りは有名なエピソードで、武将の名を高めているが、江戸中期につくられたもの。戦役では領土割譲を主張し、しだいに石田三成(いしだみつなり)、小西行長(こにしゆきなが)らの講和派のために孤立化し、ついに1596年(慶長1)讒訴(ざんそ)され、伏見(ふしみ)に蟄居(ちっきょ)を命ぜられる。この蟄居期間中に京畿(けいき)で大地震があり、秀吉の身を案じて登城したので謹慎が解けたという、「地震加藤」の物語があるが、謹慎解除の真相は不明。このころ呂宋(ルソン)(フィリピン)貿易を計画しているし、理財にも秀でた人物である。慶長(けいちょう)の役に再出兵したが、蔚山(うるさん)城にて苦戦し、九死に一生を得て帰国。関ヶ原の戦いでは九州における東軍の中心となる。戦後に肥後一国(天草・球磨(くま)を除く)領主(54万石、豊後(ぶんご)国の一部を含む)となる。このころから領内の川普請(かわぶしん)、新田開発を進め、今日の肥後平野の基礎をつくる。また壮大堅牢(けんろう)な名城熊本城を築城(慶長3、4、6年着工説がある)し、城下町を形成し、今日の熊本市の母胎となる。領内政策の一つにキリスト教の弾圧を早くから行い、日蓮宗の興隆に努めた。1603年(慶長8)3月、従四位下(じゅしいのげ)肥後守(ひごのかみ)に叙任。その後江戸城、名古屋城の普請工事に活躍。11年豊臣秀頼(ひでより)を説得し、徳川家康と二条城で会見させ、和平策を企図する。その帰途、船中にて発病。後世、この会見で毒饅頭(どくまんじゅう)を食わされて毒殺されたと伝説化されているが誤りで、彼の死因は脳溢血(のういっけつ)による。晩年は「履道応乾(りどうおうけん)」の印章を使用し、文芸・茶道にも努める。慶長(けいちょう)16年6月24日、50歳で死亡。本廟(ほんびょう)が熊本市西区本妙寺にある。のち子加藤忠広のとき御家騒動や領内政策などの不手際で、1632年(寛永9)庄内(しょうない)(山形県)に配流(はいる)され、加藤氏断絶となる。[森山恒雄]
『中野嘉太郎著『加藤清正伝』(1909・隆文館/復刊・1979・青潮社)』

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367日誕生日大事典の解説

加藤清正 (かとうきよまさ)

生年月日:1562年6月24日
安土桃山時代;江戸時代前期の武将;大名
1611年没

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世界大百科事典内の加藤清正の言及

【加藤氏】より

…(1)伊勢国の中世武家。藤原利仁流の末裔景貞(清)が伊勢に下向,祖となったという。津市,鈴鹿市に景貞伝承の地がある。その子景員,孫景廉・光員は源頼朝挙兵に参加,その後,光員は頼朝側近として,また1185年(文治1)平家家人上総介忠清を志摩国で捕縛,没官領の注進など当国統治にも活躍,朝明郡豊田荘など数ヵ所の地頭職を得,左衛門尉,伊勢守に任官している。1206年(建永1)当時,彼は西面の武士として後鳥羽院と,道前(みちのさき)政所職(神宮領朝明郡,員弁郡,三重郡)として大神宮と関係するなど複雑な関係を持った人物であった。…

【清正記】より

…加藤清正に関する伝記戦記物語。著者は古橋左衛門又玄(ゆうげん)。…

【熊本[市]】より

…8世紀中ごろ東部の出水(いずみ)地区に肥後の国府,国分寺が置かれ,その後南部の二本木に国府が移り,ここが数世紀にわたって肥後の中心となった。17世紀の初め加藤清正が築いた熊本城の城下町が市発展の基礎となり,その後細川氏54万石の城下町として栄えた。細川家に仕えた宮本武蔵は,金峰山の西,岩戸観音の霊巌洞に参禅し,《五輪書》を著した。…

【熊本藩】より

…1587年(天正15)佐々成政が隈本城に封ぜられたのが起りで,領域は球磨郡を除く肥後国12郡であった。成政は翌年起こった肥後一揆の責を負って尼崎で切腹,肥後国は豊臣秀吉子飼の加藤清正(北半国19万石)と小西行長(南半国14万石)に分与された。この間秀吉の上使衆によって球磨郡を除く肥後国検地がなされ,肥後54万石の表高が確立した。…

【白川】より

…1953年6月の集中豪雨は熊本市に未曾有の大泥水害をもたらした。白川の本格的な治水工事は,加藤清正によって始められた。1603年(慶長8)熊本城築城にあたっては白川の水害を除き,熊本城下の水運を確保するために,白川に合流していた坪井川の分離工事が行われた。…

【清正公信仰】より

…肥後熊本の領主で熱心な法華の信者であった加藤清正を〈清正公(せいしよこ)さん〉と奉称し,所願成就を祈る信仰。この信仰は地域的には清正の旧領で,その廟所(びようしよ)(本妙寺)のある熊本を中心に九州一円に広がる宗派を超越した庶民信仰としてみられ,教団的には日蓮宗旧六条門流寺院を中心に全国的に分布している。…

【八陣守護城】より

…1807年(文化4)9月大坂大西芝居初演。徳川氏の策謀による豊臣氏の没落を,加藤清正の豊家に対する誠忠や毒殺の俗説を中心として描き,それに大坂の陣における真田幸村の軍略家ぶりを加えた。名題の〈八陣〉は軍師正木雪総(幸村)が八陣の計を敷くことに由来し,守護城は清正の居城の肥後本城(熊本城)を暗示するとともに,加藻朝清(加藤清正)が幼君春若丸(豊臣秀頼)のために本城を守護したことを表す。…

【肥後国】より

…そしてその制圧によって肥後の近世化は一気に推進されることになる。【工藤 敬一】
【近世】

[所領配置]
 1588年佐々成政が国衆一揆の責を負って改易されたあと,肥後は上使衆によって検地(太閤検地)が行われ,ついで北部半国(9郡19万5000石)に加藤清正,南部半国(4郡14万6300石)に小西行長が封ぜられ,旧領を安堵された球磨郡(2万2100石)の相良長毎(ながつね)と3人で肥後国を三分することとなった。加藤清正は隈本(くまもと)城に入ったが,領内は国衆一揆で土豪層が排除されており,静謐(せいひつ)であった。…

【本妙寺】より

…山号は発星山(ほつしようざん)。肥後熊本の領主加藤清正の廟所,〈清正公(せいしよこ)さん〉の名で知られている。1585年(天正13)清正が大坂に創建,1600年(慶長5)新たに築かれた熊本城のなかに移転。…

※「加藤清正」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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