朝日日本歴史人物事典 「細川忠利」の解説
細川忠利
生年:天正14.10.11(1586.11.21)
江戸前期の熊本藩初代藩主。小倉藩(福岡県)藩主細川忠興の3男。母は明智光秀の娘玉子(ガラシア)。慶長5(1600)年人質として江戸に送られた。徳川秀忠より1字を与えられて忠利と改め,内記と称した。9年父忠興の希望で嫡子となり,10年従五位下侍従に叙任,14年秀忠の養女千代姫(小笠原秀政の娘)を妻に迎え,19年大坂の陣では秀忠に従った。元和6(1620)年家督を相続して小倉藩主となる。寛永9(1632)年加藤忠広改易のあとの肥後熊本藩54万石に封ぜられて,九州のおさえの役割を果たした。14年の天草・島原の乱には子光尚と共に積極的に出兵,原城攻撃に際しては有効な助言をし,家臣陣佐左衛門(大将天草四郎を討ち取る)などの働きもあって軍功第一といわれた。幕閣中枢の年寄衆,春日局,稲葉正勝らとのパイプを保って藩政を保った。戦国大名の系譜を引く大名で,老中への付け届けから家臣の登用,藩政の細事について,はては庭木の移植から,鴨の塩辛の塩加減まで指示している。藩内のすべてはその決定によっており,すぐれた政治感覚が,九州のかなめとしての熊本藩の地位を安泰ならしめた。
(松本寿三郎)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報