牛李の党争(読み)ぎゅうりのとうそう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「牛李の党争」の意味・わかりやすい解説

牛李の党争
ぎゅうりのとうそう

中国、9世紀前半、唐朝の支配官僚層の内部で闘われた党派争い。初め、牛李は牛僧孺(そうじゅ)、李宗閔(そうびん)の一党を意味したが、後世では牛僧孺と李徳裕(とくゆう)両派の頭目の姓をとって派閥争いをよぶのに用いられる。李徳裕の父の宰相李吉甫(きつほ)が、制挙に際して時政を鋭く批判した牛僧孺、李宗閔らの登用を阻んだことがきっかけで、約40年間にわたって多数の官僚を巻き込む大党争に発展した。そのため皇帝文宗が「河北の賊(中央に頑強に抵抗した河北地方の軍閥)を去るは易(やす)く、朝中の朋党(ほうとう)を去るは難し」と嘆じたほどであった。現代の歴史家陳寅恪(ちんいんかく)は、李党を儒教的教養を尊ぶ貴族派、牛党を文芸に長ずる新興階級とみなしたが、実際は両派の社会階層や出身背景は入り交じっている。政策面では、牛党が現状維持と和平論に傾いたのに対し、李党はむしろ改革推進、対外強硬論であった。

[池田 温]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の牛李の党争の言及

【牛僧孺】より

…中国,唐代の宰相。牛李の党争の代表者。字は思黯。…

【唐】より

…8世紀後半から9世紀にかけて,河北や河南の藩鎮はしばしば反乱を繰り返したが,唐朝は生産力の高くなっていた江南地方の藩鎮をよく抑えていたので,政権を維持しえたのである。9世紀の前半,中央政府では牛僧孺李徳裕をそれぞれの領袖とする〈牛李の党争〉がつづき,宦官(かんがん)の派閥と結びついて,互いに攻撃し合った。中央の軍事力を形成する神策禁軍の指揮権も宦官の手に握られた。…

※「牛李の党争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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