牛僧孺(読み)ギュウソウジュ

デジタル大辞泉 「牛僧孺」の意味・読み・例文・類語

ぎゅう‐そうじゅ〔ギウ‐〕【牛僧孺】

[779~847]中国政治家あざな思黯しあん。時の宰相の子、李徳裕対立。新興科挙官僚と門閥貴族の対立として名高い牛李ぎゅうり党争展開

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精選版 日本国語大辞典 「牛僧孺」の意味・読み・例文・類語

ぎゅう‐そうじゅギウ‥【牛僧孺】

  1. 中国、中唐の宰相。いわゆる牛李の党争の代表者。字(あざな)は思黯(しあん)。甘粛安定の人。李吉甫とその子李徳裕と反目し、その際科挙に合格して官僚となった連中を味方としたため、それら新官僚と貴族出身者とのはげしい抗争のもととなった。奇章公。(七七九‐八四七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「牛僧孺」の意味・わかりやすい解説

牛僧孺
ぎゅうそうじゅ
(779―847)

中国、中唐の宰相。字(あざな)は思黯(しあん)、奇章公ともよばれる。隋(ずい)の宰相牛弘の後裔(こうえい)を称し、安定(甘粛(かんしゅく)省)を本貫とする。進士に及第し、憲宗の808年(元和3)皇帝の特命による登用制挙に応じて鋭く時政を批判し、宰相李吉甫(りきつほ)に疎まれた。穆宗(ぼくそう)の長慶年間(821~824)に栄進して宰相となり、李宗閔(そうびん)と手を結んで朋党(ほうとう)(政党)を築き、李吉甫の子の李徳裕(とくゆう)一派と激しく争った。これが史上に名高い牛李の党争である。武宗の会昌(かいしょう)年間(841~846)には李徳裕の全盛時代を迎え、彼は実権を失って閑職に左遷された。卒(しゅっ)して太子太師を贈られ文貞と諡(おくりな)された。小説『周秦(しゅうしん)行紀』『幽怪録』は彼の著と伝えられる。

[池田 温]

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改訂新版 世界大百科事典 「牛僧孺」の意味・わかりやすい解説

牛僧孺 (ぎゅうそうじゅ)
Niú Sēng rú
生没年:779-847

中国,唐代の宰相。牛李の党争の代表者。字は思黯。一名は奇章公。安定(甘粛省涇川県)の人。進士に及第したが,制挙の際に時政を糾弾し,宰相の李吉甫(758-814)にうらまれた。穆宗(ぼくそう),敬宗の代に宰相となり,李宗閔(?-843)らと朋党をつくり,李吉甫の子の李徳裕のグループと吐蕃に対する政策などをめぐって激しく争った。これが牛李の党争といわれる。小説《周秦行紀》《幽怪録》の著者とされている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「牛僧孺」の意味・わかりやすい解説

牛僧孺
ぎゅうそうじゅ
Niu Seng-ru

[生]大暦14(779)
[没]大中1(847)
中国,唐の政治家。安定 (甘粛省 涇川県) の人。字,思黯 (しあん) 。貞元 21 (805) 年進士に及第。考功員外郎,御史中丞を歴任,穆宗 (ぼくそう) に認められて長慶3 (823) 年宰相となった。会昌1 (841) 年武宗が即位し,李徳裕が宰相となると地方に左遷されたが,のち都へ戻り太子少師となって没した。進士出身官僚の指導者として,門閥貴族出身の李徳裕らと激しい抗争を繰広げて,「牛李の党争」と呼ばれた。伝奇小説集『玄怪録』 (『幽怪録』) の作者であり,また,伝奇小説『周秦行紀』を書いたとしてその内容を理由に攻撃されたが,これは政敵李徳裕の腹心韋かん (いかん) の偽作である。

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