軍閥ということばは,次のような多様な意味をもつ。(1)軍隊の上層部が軍事力を背景に政治的特権を握った場合,(2)出身地,地位,政策などによってつくられた軍隊内のグループが,政治的行動を行う場合,(3)地方に割拠した軍事集団が,独立の地方勢力となった場合など,それらの集団・グループを指す用語として使われている。プロイセンや第2次大戦前の日本のように,軍隊が優越した政治的地位を占めている場合にその上層部を軍閥というのは(1)の場合であり,明治以後の陸軍における長州閥,海軍における薩摩閥や,昭和期の陸軍における皇道派,統制派,海軍における条約派,艦隊派などを軍閥というのは(2)の場合であり,辛亥革命後の中国における各地の半独立勢力や,西南戦争直前の薩摩の私学校党などは(3)の場合である。また(1)の範疇に属するが,南アメリカ諸国などでときおりみられるように,他国の支援をうけた軍人の一派が政治的実権を握るような場合もある。軍隊が民主的に統制されているときに軍閥は成立し難いが,戦時には,軍備拡張などにともなって軍部指導者の政治的発言力は強化される傾向になる。また,軍需産業と軍閥とが癒着して勢力を伸張する例も少なくない。
(1)明治維新後陸軍においては長州出身者,海軍においては薩摩出身者が,それぞれの上層部を独占し,強力な派閥を形成した。さらに明治国家が軍国主義政策をすすめたため,軍の上層部は,統帥権独立と軍部大臣現役武官制を武器にして,藩閥,官僚勢力にたいしても相対的に独自な地位を占め,日清・日露戦争の勝利によってその地位を高めた。政党勢力が進出すると,大正政変,シーメンス事件の際のように軍閥反対の運動がおこり,大正デモクラシーの時期には一時軍部の政治的地位は後退したかにみえた。しかし中国革命の進展に反発して満蒙権益の擁護を叫んだり,国内の社会的矛盾を背景に国家改造を主張したりするなかで,軍部の政治的進出が再びはじまり,満州事変以後戦争の拡大を図りつつその勢力が伸張する。そして日中戦争の全面化から太平洋戦争に至る過程で,軍閥の政治支配が完成した。
(2)明治期には,陸軍は長州閥,海軍は薩摩閥が全盛であったが,軍の拡大と近代化がすすむにしたがって出身藩による閥の勢力はしだいに衰えた。陸軍では大正末期から長州閥にかわり宇垣一成を中心とする宇垣閥と,上原勇作を中心とする九州閥が対立したが,満州事変後は,荒木貞夫,真崎甚三郎らの皇道派と,永田鉄山らの統制派が対立した。これらは政策の対立の面もあるがより多く人事をめぐる争いであった。海軍もロンドン軍縮会議への賛否をめぐって,条約を是認する条約派と,これに反対する艦隊派が対立したが,これも中央官衙の幹部と,艦隊勤務の幹部との対立という面があった。これらの部内の派閥は,戦争の激化とともにしだいに解消した。
(3)1873年,征韓論を理由とする中央政界の分裂から鹿児島に帰った西郷隆盛に従って薩摩出身の近衛兵らが多数帰国した。彼らは中央政府に反対し,私学校を設立して独立の軍隊を養成し,さらに鹿児島の県政を握って税金を中央政府に納めず,政府のすすめる諸政策に従わなかった。その状態は中国の軍閥割拠の状況と類似している。
執筆者:藤原 彰
中国では,古く唐代から軍閥の存在が指摘されているが,歴史的に重要なのは近代のそれである。近代中国の軍閥の起源は太平天国鎮圧戦争のために組織された曾国藩の湘軍,李鴻章の淮軍(わいぐん)等にもとめられる(郷勇)。清朝支配下にあってはなお文官を軸に編成されていた支配体制が,辛亥革命による専制王朝体制の崩壊とともにむきだしの軍人支配に移行する。在地の地主武装を基盤に,各地の特殊性に応じた重層的な軍閥支配の体制ができたのであって,革命で一人の皇帝を追放したら,無数の〈土皇帝〉が誕生した,といわれるゆえんである。軍閥割拠こそ,統一的国内市場が形成されず,列強がそれぞれに勢力範囲を分割しあっている半植民地中国にもっともふさわしい,地主階級と帝国主義の利益擁護の支配形態だったのである。軍閥自身はふつう地主兼商工業経営者(高利貸をふくむ)でもあったが,配下の兵士の給養はその支配地域からの租税収奪に依存した。田賦(土地税),釐金(りきん)(商品流通税),アヘン税等が主で,十数年先の田賦の事前徴収といった例もみられた。地盤争奪のための戦争は不可避とされ,中華民国の前半20年間に大小数千回の内戦があったとされる。
中華民国となって最初に中央権力を掌握したのは,淮軍の流れをくむ袁世凱の北洋軍閥である。北洋軍閥は華北・華中の要衝をおさえることにより,周辺の諸軍閥をしたがえたのである。袁世凱の死後,北洋軍閥は段祺瑞の安徽派と馮国璋の直隷派に分裂し,雲南,広西方面には陸栄廷,唐継尭らの西南軍閥が割拠した。ここに南北分裂がはじまり,北京の中央に対立する広東政府の登場をみる。中間の福建,湖南,四川,陝西等の地方は小軍閥の割拠する緩衝地帯であると同時に,南北両勢力の争奪の地でもあった。北京の政権は,日本の手先の安徽派がまずにぎり,ついで英米のおす直隷派にかわり,さらに安徽派から分化した張作霖の奉天派にうつるが,1928年,国民革命軍の北伐が勝利して北洋軍閥支配は終焉した。同年末の張学良の〈易幟(えきし)〉によって蔣介石による全国統一が完成するが,それは国民党の新軍閥化とむすびついていたのであって,南京国民政府は非北洋系軍閥の寄合所帯となったのである。西北の馮玉祥,山西の閻錫山(えんしやくざん),広西の李宗仁,広東の李済深がそれで,彼らは1929-31年にかけて反蔣戦争を発動し,広東独立をおこなった。英米が蔣介石をおしたのに対し,反蔣派は日本にちかづいた。南北政府は1935年の幣制改革によって統一をすすめ,翌年の粤漢(えつかん)鉄道全通によって両広の中央化に成功したが,このときには中国共産党の支配するソビエト区が国中の国として無視できぬ勢力になっていたのである。日中戦争をへて国共内戦で敗れた蔣介石が台湾にのがれ,中国人民は40年におよぶ軍閥支配から解放された。全国の兵数については不確実な推計しかないが,袁世凱の時代50万,北伐開始前150万,北伐終了後200万,抗日戦勝利後の国民政府軍400万,共産党軍120万人といわれる。
→藩鎮
執筆者:狭間 直樹
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軍人が本来の公的な職権を越えて、同僚や部下と私的に結合し、その軍事力を背景に政権に関与ないし掌握したり、特定地域の政権を独占した場合の政治・軍事機構またはその集団をいう。軍閥はさまざまな時代、また国々に発生したが、とくに中国で、清(しん)末以降、中華民国の時代に典型的に形成され発展した。
中国における軍閥は、19世紀後半、太平天国運動を鎮圧するために、曽国藩(そうこくはん)、李鴻章(りこうしょう)らがその故郷湖南省・安徽(あんき)省で彼らとの師弟関係や地縁・血縁関係を軸に地主・郷紳を中心として組織した義勇軍(湘軍(しょうぐん)・淮軍(わいぐん))に芽生えた。それらはのちに清の正規軍に改編され、彼らも清朝の忠実な官僚として清朝の専制支配再編の支柱となったため、軍閥的性格は顕在化しなかった。軍閥は、李鴻章に登用された袁世凱(えんせいがい)が日清戦争後編成した北洋陸軍以降本格的に形成された。袁はこの軍の中枢に、彼が建設し養成した天津(てんしん)武備学堂、北洋武備学堂などの卒業生を配し、清朝の権威が衰退するなかで、これらを事実上私的な支配下に置いた。とくに辛亥(しんがい)革命(1911)に際して、彼はこの武力を背景に清帝を退位させ、他方で革命派に譲歩を強いて、中華民国の初代大総統に就任して中央権力を奪取した。この権力を守るために、彼は利権供与と引き換えにイギリスなど列強から多額の借款をして軍事力を強化し、財政、金融、交通運輸を独占支配下に置き、儒教道徳を学校教育の中心に置いた。袁が帝政復活に失敗して没落したのち、北洋系軍閥は直隷(ちょくれい)派(呉佩孚(ごはいふ/ウーペイフー))、安徽派(段祺瑞(だんきずい/トワンチールイ))などに分裂し、奉天軍閥(張作霖(ちょうさくりん/チャンツオリン))や、地方の徴税権・行政権を奪って割拠した大小の地方軍閥を含めて、中央・地方の権力をめぐる軍閥間の混戦が激化した。各帝国主義列強はそれらに借款や武器を与えてそれぞれの勢力範囲と権益を守り、拡大しようとした。この特異な現象は、資本主義の発展が微弱で、各地方を密接不可分に結び付ける国民経済が成立しなかったという中国の半封建的性格と、一強国が独占する植民地ではなく、複数の帝国主義国が中国内部の半封建的な支配勢力を支柱としながら中国支配をめぐって対立抗争した半植民地であったことなどによって起こった。1926年以降の国民党の武力統一の進行(北伐(ほくばつ))によって地方軍閥はしだいに弱体化したが、この過程で南京(ナンキン)の国民政府自身も、蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー)麾下(きか)の軍事力と地主勢力、官僚資本勢力に依拠する新軍閥的性格をもつようになった。
中華人民共和国政府が進めた土地改革をはじめとする反封建的改革は、軍閥支配成立の基礎を決定的に弱めたが、経済のいっそうの近代化と、社会の民主化が軍閥の息の根をとめる条件だと考えられる。
[小島晋治]
日本では征韓論決裂後から西南戦争に至る鹿児島県の状況があたる。県政を西郷隆盛(たかもり)の率いる私学校党が支配、中央政府の諸改革を実行せず税金も上納せずに独立国のような状態にあった。また、明治政府のもとで、薩長(さっちょう)出身者が実権を握る軍部は、統帥権の独立と軍部大臣現役武官制などによって特権的地位を保っていたが、藩閥勢力に対して政党勢力が台頭してきた明治末年ごろから、軍部の政治的独自性が対抗的に発揮されるようになり、この軍部勢力を軍閥とよぶようになった。大正デモクラシーの時期、軍部の政治的発言権は一時後退したかのようにみえたが、海軍軍縮条約、満州事変を契機に、さらに二・二六事件を画期として軍部の政治的発言権は絶対的になった。軍部による政治支配は日中戦争から太平洋戦争に至って完成。独占資本を含む諸支配勢力が軍部と結合したことによって、表面軍部独裁のようにみえる体制が確立され、軍閥政治ともいわれるようになった。
[林 茂夫]
『波多野善大著『中国近代軍閥の研究』(1973・河出書房新社)』▽『来新夏著、岩崎富久男訳『中国軍閥の興亡』(1969・桃源社)』
軍人の私的集団をいう。中国においては藩鎮(はんちん)などを便宜的に軍閥と呼ぶこともあるが,ふつうは清末から民国初期にかけて存在した武力集団をいう。清朝の武力的基盤である八旗,緑営が腐敗し無力化すると,地主,郷紳(きょうしん)層は自衛のため武装化を図った。その代表的なものは湘軍(しょうぐん),淮軍(わいぐん)などで,これは独立化の傾向を内在したが,清朝の軍事的支柱となった。最初の本格的軍閥は,袁世凱(えんせいがい)の率いる北洋軍閥であった。彼は新式陸軍を建設し,これを私有化し,辛亥(しんがい)革命が起こると,これによって清朝,孫文に対する取引を有利にし,最初の大総統となり,軍事面だけでなく政治面でも独裁的権力をふるった。彼の死後,政権,軍権は旧部下の安徽(あんき)派,直隷派に引き継がれ,この時期(1920~24年)が北洋軍閥の全盛期であった。24年東北軍閥張作霖(ちょうさくりん)が北京政府を支配したが,国民革命の進展は北洋軍閥を窮地に追い込んだ。一方蒋介石(しょうかいせき)を中心とする国民党軍は,革命勢力の発展をおそれて地主,買辦(ばいべん)資本家層と妥協してみずから軍閥化し,北洋軍閥および国民革命軍に投じた地方軍閥を傘下に収めた。軍閥の経済的基盤は,中華人民共和国の成立により一掃された。
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日本では明治後期~昭和前期に二つの意味で使われた。(1)軍事力を背景に,政府・元老・重臣・政党・官僚・財閥に対抗する権力主体となった陸海軍上層部の呼称。明治憲法第11条による統帥権独立,軍部大臣現役制など閉鎖的で団結強固な武力集団として最終的に軍部独裁体制にまでいたった。軍閥という語は「中央公論」1919年(大正8)4月号の三宅雪嶺の論文,「改造」26年5月号の巻頭言などで使用された。昭和期のジャーナリズムではほとんどが軍部を使用した。(2)陸軍内の派閥が政治行動を行うときの呼称。建軍以来,陸軍主流派の長州閥に対して反長州閥が大正末期に台頭し,31年(昭和6)頃からは統制派と皇道派が対立,政策・人事をめぐる抗争のとき相手の派閥を軍閥とよんだ。「軍閥重臣閥の大逆不逞」と題した怪文書のように,非合法文書で用いられたのみで公には使用されなかった。
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…49年以降,大陸を追われた中国国民党の政権が台湾に拠って今に至っている。中華民国の約40年間の歴史は,27年をピークとする国民革命を境に前後2段に分けられ,前段は北洋軍閥が支配した時期,後段は国民党が支配した時期である。首都は前段が北京,後段が南京(抗日戦中は重慶)である。…
…中国,唐・五代の軍閥。唐中期の律令支配崩壊の過程で,多様化する社会に対処するため,唐朝は各種の〈使職〉(いわゆる〈令外の官〉)と総称されるポストを続々と新設した。…
※「軍閥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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