中国で官僚が私的に結合することをいう。君主制の下では官僚の朋党は君主権の貫徹をはばむものとして禁ぜられたが,王朝の末期には朋党の争いが激化し,党争のうちに王朝が滅亡するということがしばしば起こった。後漢には,宦官の専横に反対する清流党が,太学生らの広範な世論を背景に政府を攻撃し,李膺(110-169)ら党人が逮捕され,禁錮せられた。その後,党人の多数が虐殺されている。これを〈党錮の獄〉という(党錮の禁)。唐代には門閥と貴族の争いが牛・李(牛僧孺・李徳裕)の党争という形で起こった。宋代になって〈慶暦の党議〉が起こると,欧陽修が〈朋党論〉を書いて,道をもって集まった〈朋〉は君子のみがなし得るもの,小人には〈朋〉はない,として,〈朋〉を積極的に肯定すべきことを説いている。ついで王安石の改革をめぐって新法党と旧法党との間に激しい党争が行われた。
明代には,万暦年間(1573-1619),無錫(むしやく)の東林書院を中心に顧憲成らの東林党が起こって在野から政府の失政を厳しく追及した。しかし宦官魏忠賢らの大弾圧に遭遇して東林書院は閉鎖され,指導的メンバーは虐殺されねばならなかった。当時,東林党の高樊竜は〈朋党説〉を書いて,〈小人の朋党に対抗していくためには君子と朋党を組むべきである。朋党という非難を恐れて組織を解体することは小人に手を貸し国家を滅亡に導くもの〉,と主張した。これは東林党人に共通する認識で,彼らは天下の公党として,東林党を脱皮させようとしていた。党争のうちに明は滅んだが,異民族の清王朝になると,朋党は厳しく禁じられることになった。雍正帝の〈御製朋党論〉はその代表的なものであって,欧陽修の〈朋党論〉以来,利益追求のための小人の党がはびこってきたとし,朋党を激しく攻撃した。君主に仕えて以後は,五倫の一つである朋友すら私情であり,臣下は君臣の〈公〉義をもって私情を滅ぼすべきである,としている。朋友という横の関係を排して,君臣の上下関係をいっそう強化しようとする専制君主の意図をそこにみることができる。
執筆者:小野 和子
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主義・利害を同じくするものが一つに結び合って他のものを排斥する政治団体をいう。旧中国において官僚はひとりひとりが天子に隷属すべきものとされ、官僚が横に結合して党派をつくるときは朋党として処罰された。朝廷で党争の激しいとき、互いに相手を朋党と称して罪に陥れることがあった。宋(そう)の仁宗(じんそう)(在位1022~63)のとき、党争の風潮がしだいに強くなり、党派に対する議論が激しくなったおり、欧陽修(おうようしゅう)は『朋党論』を著し、小人の党は永続せず、君子の結合だけが永続できると論じた。清(しん)の雍正(ようせい)帝(在位1722~35)は『御製朋党論』をつくり、官僚はいかなる理由があっても党派をたてるべきではなく、党派はすべて小人の所業だと論じ欧陽修の議論を排撃した。
[宮崎市定]
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