益富(読み)ますとみ

日本歴史地名大系 「益富」の解説

益富
ますとみ

遠賀おんが川上流域、現大隈おおくま中益なかます・下益一帯に比定され、平安期―室町期には筥崎宮領であった。建久元年(一一九〇)筥崎宮在京所司は「前庄号時例」に任せて「益富名田」を半不輸とすることを本家山城石清水いわしみず八幡宮に訴え(同年八月二五日「筥崎宮在京所司解案」宮寺縁事抄/鎌倉遺文一)、同二年正月一七日付後白河院院宣(石清水文書/大日本古文書四―二)により不輸神領として認められている。「前庄号時例」とあるため、平安期には当地を中心として益富庄が形成されていたものと考えられる。当地には筥崎宮の「若宮仮殿御遷宮饗膳米」三斗のほか(正平二一年四月日「執行成貞注文」同文書/南北朝遺文(九州編)四)、筥崎宮放生会の用途として「嘉麻郡益富役」三石が賦課されていたが、文明一〇年(一四七八)には収納が困難になっている(同年一〇月日「筥崎宮神事用途注文」同文書/大日本古文書四―二)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報