デジタル大辞泉 「大宰府」の意味・読み・例文・類語
だざい‐ふ【▽大宰府】
[補説]地名別項。→太宰府
大宰府の起源については「日本書紀」宣化天皇元年五月一日条にみえるいわゆる那津官家とするのが通例であるが、これに加えて百済救援時における斉明天皇の行宮であった
このような職務を遂行するため、大宰府の機構内には多くの諸司・諸所(以下、所司と略称)が形成されていた(「三代実録」貞観一二年二月二三日条)。「類聚三代格」「延喜式」など史料上確認できる所司は
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
古代において西海道(さいかいどう)(九州)全域を行政下に置き、外寇(がいこう)の防衛と外交の衝にあたる権限を与えられた官庁である。それに類する役所の起源については3世紀、卑弥呼(ひみこ)が伊都(いと)国に一大率(いちだいそつ)を置いて大陸交渉の監察にあたらせたこともあげられるが、6世紀の前半、筑紫君磐井(つくしのきみいわい)の平定後、宣化(せんか)天皇は那ノ津(なのつ)に官家(みやけ)を設け、諸臣に命じて軍粮(ぐんろう)を運輸せしめて非常に備えさせたことをあげるべきであろう。だが、実際に「筑紫大宰(つくしのたいさい)」の名の初見は、609年(推古天皇17)である。推古(すいこ)朝は、新羅(しらぎ)問題がしばしばおこり、また遣隋使(けんずいし)派遣も始められるという外交上重要な時期だけに「筑紫大宰」の任も重かったようである。大宰府の大きな転換期となったのは、白村江(はくそんこう)の戦い(663)である。唐・新羅の連合軍の前に、百済(くだら)の救援に赴いた日本軍は海戦で大敗した。百済の遺臣らとともに引き揚げてきたが、ただちに唐・新羅の侵攻の脅威にさらされることになった。天智(てんじ)天皇は対馬(つしま)・壱岐(いき)、あるいは筑紫の海岸線に沿って防人(さきもり)を配し、烽(とぶひ)を置いた。同時に防衛を考えて、那ノ津から水城(みずき)の線まで大宰府を後退させた。大宰府の前面の、山地の狭く迫る所を土塁で結んだ。この土塁(大堤)は全長1.2キロメートル、高さ13メートルに及ぶ長大な堤である。土塁には木樋(もくひ)を埋め、事あるときはこれに水を引き、土塁の前面の堀池に水を流し込んだ。それゆえこれを水城と称した。さらに、百済の遺臣たちをして、都府楼(とふろう)の後方の山に大野城をつくらせた。すり鉢状の山の尾根伝いに、1周約6.5キロメートルの土塁や石塁を巡らし、北側の谷は、いわゆる「百間石垣」を築いている。その要所要所には兵舎や武器倉庫、食糧倉庫などの建物がつくられたが、現在60余棟が確認されているという。そのほか、肥前(ひぜん)の椽(き)城、対馬の金田(かねだ)城、讃岐(さぬき)の屋島(やしま)城および大和(やまと)の高安(たかやす)城などが相次いでつくられ、都までの軍事上の要衝地が固められた。しかし、朝鮮の統一をめぐって、唐と新羅が争うこととなり、いちおう日本への攻撃は回避されることとなった。その後、大宰府は、西海道の統轄と外交の任を与えられ、特別行政府としての体制を整えることになったが、その長官には大臣クラスの人物や皇族が選ばれることも多く、大宰府は、『和名抄(わみょうしょう)』で、「おほみこともちのつかさ」と訓(よ)まれ、また「遠(とお)の朝廷(みかど)」ともよばれ大きな権限を与えられることになった。
令(りょう)制では、「主神(かむつかさ)、帥(そち)、大弐(だいに)、少弐(しょうに)、大監(だいげん)、少監、大典(だいさかん)、少典、大判事(だいはんじ)、少判事、大令史(だいれいし)、少令史、大工(だいく)、少工、博士(はかせ)、陰陽師(おんみょうじ)、医師(くすし)、算師(さんし)、防人正(さきもりのかみ)、防人佑(さきもりのすけ)、令史(りょうし)、主船(しゅせん)、主厨(しゅちゅう)、史生(ししょう)」といった官人構成をなしていた。主神は中央官庁の神祇(じんぎ)官、大宰帥(だざいのそち)以下が太政(だいじょう)官に相当する。大宰府は西海道諸国を統治下に置いたから、いわゆる九国三島(筑前(ちくぜん)、筑後(ちくご)、豊前(ぶぜん)、豊後(ぶんご)、肥前(ひぜん)、肥後、日向(ひゅうが)、大隅(おおすみ)、薩摩(さつま)の九国と壱岐、対馬、多褹(たね)の三島)が行政下にあった。
それだけに大宰府を抑えることは政治的にも優位にたつことができた。壬申(じんしん)の乱(672)のときも、近江(おうみ)方はこれを味方に引き入れようと努めたし、藤原広嗣(ひろつぐ)の乱(740)や藤原純友(すみとも)の乱(941)にも、直接この地が争乱の舞台となった。そのたびごとに大宰府は焼失したが、焼け跡を整地した上にまた再建され直された。現在でも、表土の60センチメートルばかり下には平安中期の焼土が堆積(たいせき)し、そのさらに下には奈良朝期の遺構なども検出されている。
もちろん、大宰府は以上のように政治や軍事の中心であったばかりでなく、文化的にも西海道の拠点であった。仏教では戒壇(かいだん)が設けられた観世音寺(かんぜおんじ)が、学問では学業院(がくぎょういん)が、その地位を占めていた。博士(はかせ)のほか音博士(おんはかせ)もおり、五経とともに『史記』『漢書(かんじょ)』『後漢書(ごかんじょ)』『三国志』『晋書(しんじょ)』など賜下されて、国学生(くにがくしょう)たちを教授していた。
その後、律令制の弛緩(しかん)に伴い大宰府の機構・統制も衰退し、平安時代に入ると上級官人はほとんど赴任せず、実権は少弐の手に移った。さらに鎌倉幕府が鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)を置くに及び、大宰府は有名無実となった。
[井上辰雄]
『鏡山猛著『大宰府都城の研究』(1977・風間書房)』▽『倉住靖彦著『大宰府』(1979・教育社)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
律令制下の筑前国,現,福岡県太宰府市におかれた地方特別官庁。外交使節との交渉や接待,中央への連絡など独自の機能をもち,国防面では防人(さきもり)の指揮や軍事施設・兵器の維持などの任にあたる。府の財源には西海道諸国の調庸物などがあてられ,管下の西海道諸国に対しては,中央政府にかわり民政・財政面で強い監督権限をもった。職員は長官の帥(そち)以下,大弐(だいに)・少弐(しょうに),大監(だいげん)・少監,大典・少典の四等官のほか,主神・大少判事・大少工・博士・陰陽師(おんみょうじ)・医師・算師・防人正佑・主船(ふねのつかさ)など多くの品官(ほんかん)がある。四等官の官位相当は外官としては異例に高く,地方官というより中央の出先機関としての性格が濃厚である。こうした性格は大化前代の那津官家(なのつのみやけ)や筑紫大宰までさかのぼるが,663年(天智2)の白村江(はくそんこう)敗戦を機に現在の太宰府市の地に移され,浄御原(きよみはら)令制で基礎が確立したらしい。9世紀以降は外交以外に貿易活動も活発化する一方,帥は親王の名誉職となって遥任(ようにん)化し,権帥(ごんのそち)・大弐が事実上の長官となるが,12世紀以降はこれも遥任となり,府の実務は府官とよばれた在庁官人からなる監・典に掌握された。13世紀には鎮西(ちんぜい)奉行との一体化が進み,元寇後に鎮西探題がおかれるに及んで完全に形骸化した。府跡は国特別史跡。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…七道のなかで特異な地位を占めていたのは西海道である。すなわち西海道にはこれを統轄するための機関として大宰府(だざいふ)がおかれ,他の諸道では国から直接都に送られる調・庸もすべて大宰府に収納され,その一部が京進された。また大宰府は掾以下の国司および郡司の詮擬権を認められるなど,他の諸道に比して強い独立性を保持していた。…
…平安末期以降の文書様式の一つ。大宰府庁宣旨の略称。大宰府の府務を請け負う官長(帥,権帥,大弐のうち1人)が府在庁官人に府務を指令する文書。…
…663年の白村江(はくそんこう)敗戦後は水城(みずき)(太宰府市,大野城市)や大野城(太宰府市,粕屋郡)などを築いて防衛を強化した。 そのころ筑紫大宰とその管掌組織は内陸の現太宰府市の地に移り,やがて官衙としての大宰府が成立した。政庁の周辺には府学校や観世音寺などが並び,西海道の政治・文化の中心としてみずから〈天下の一都会〉と誇称した。…
…そして日本からは金・銀・水銀・真珠・硫黄・銅・鉄・木材などを持ち帰った。宋商船が来着すると,大宰府が商人の身分・来航目的・積載貨物などについて尋問し,朝廷ではその報告に基づいて商人の滞留,貿易の許否などを決めた。頻繁に来航する商人に対しては,10世紀初めに制定された毎三年一航という来航制限規定を適用して貿易を許さないこともあった。…
※「大宰府」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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