神宮寺城跡
じんぐうじじようあと
[現在地名]桜川村神宮寺
神宮寺の西南にあり、城の成立時期や城主は不明であるが、建武五年(一三三八)一〇月日の烟田時幹軍忠状案(烟田文書)に「右吉野没落朝敵人北畠源大納言入道以下凶徒等、経海路、当国東条庄著岸之間、為誅伐之、被発向之間、時幹罷向之処、今年五日、押寄神宮寺城、致至極合戦之処、(中略)次家子鳥栖太郎三郎貞親、切破壁、責入城内、致散々合戦、令切捨訖(中略)如此致忠節、追落御敵等、令対治城
訖」とあり、同年九月に東条庄に漂着した北畠親房らが立てこもった当城は、北朝方の鹿島一族の攻撃で落城している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 