日本歴史地名大系 「神宮寺村」の解説
神宮寺村
じんぐうじむら
東南は羽州街道の
「月の出羽路」に村名は「延喜式」記載の山本郡「
貞治五年(一三六六)一一月の保阿譲状(新渡戸文書)によると、保阿が辰犬丸へ神宮寺・蒔田の両村を譲渡している。
中世末期は富樫氏の支配に属したと考えられる(月の出羽路)。
天正一八年(一五九〇)の出羽国仙北之内北浦郡御検地目録帳(戸沢文書)に、田方五四町三段余、その分米五九一石余、畑屋敷方三町、その分米二七石余で、計六一八石余とある。この村域は北楢岡村の東まで含まれていたようである。
「奥羽永慶軍記」によれば、天正一六年に小野寺義通が、
と中世の館跡を伝えることから、かなりの集落が開けていたことが知られる。
神宮寺村
じんぐうじむら
神宮寺川下流域に位置し、東は井伊谷村。南部の田園地帯に
元和元年(一六一五)には高四〇九石余、田方二一町六反余・畑方二〇町九反余、ほかに八幡(現渭伊神社)領一五石・正楽寺(勝楽寺、現廃寺)領一五石・
神宮寺村
じぐじむら
- 長野県:諏訪市
- 神宮寺村
神宮寺村
じんぐうじむら
神宮寺村
じんぐうじむら
神宮寺村
じんぐうじむら
- 福井県:小浜市
- 神宮寺村
北は
とあり、寺家百姓のいた当村は神宮寺の門前村であったと思われる。さらに「手振市夫」の記載は、神宮寺東側に残る
「信長公記」は天正三年(一五七五)七月一二日のこととして「去程に江州勢田の橋、山岡美作守・木村次郎左衛門両人に仰付けられ、若州神宮寺山・朽木山中より材木を取り」と記す。
神宮寺村
じんぐうじむら
神宮寺村
じんぐうじむら
神宮寺村
じんぐうじむら
- 大阪府:八尾市
- 神宮寺村
神宮寺村
じんぐうじむら
神宮寺村
じんぐうじむら
神宮寺村
じんぐうじむら
神宮寺村
じんぐうじむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報