日本歴史地名大系 「秣村」の解説 秣村まくさむら 大分県:下毛郡三光村秣村[現在地名]三光村下秣(しもまくさ)・西秣(にしまくさ)・上秣(かみまくさ)犬丸(いぬまる)川上流域にあり、東は野依(のより)村(現中津市)の清水(しみず)山、西は田口(たぐち)村、南西は八面(はちめん)山、北は山を越えて伊藤田(いどうだ)村(現中津市)。元暦二年(一一八五)三月日の大神安子等連署解状案(益永文書)に「大尾社御供田二十丁 神領分十丁立用六丁不足四丁 件御供下毛庄岐浦三丁・秣浦三町之内、為御封野仲郷司成経以無□、於岐浦三丁者所押領也、被停止者、知社 不朽矣」とみえ、下毛(しもつみけ)庄内に大尾(おおお)社免秣浦があり、野仲(のなか)郷内であったため、郷司に押領されたことがあったらしい。承久二年(一二二〇)一二月二七日の関東下知状写(同文書)によれば、秣糸永(まくさいとなが)名があり、当時宇佐宮政所惣検校益永氏が買得していたが、大宮司公仲や糸永次郎昌重の濫妨を受けた。乾元二年(一三〇三)八月一九日の宇佐公世下文写(到津文書)により、下秣一帯には野仲弁分(べんぶん)名が所在したと考えられる。正和二年(一三一三)六月一六日の鎮西下知状(稲用文書)によれば、神官公豊は「野仲郷弁分」の地を神領興行により、深水武藤三郎能氏に返還を求める訴訟を起こした。嘉禄二年(一二二六)八月日に宇佐宮益永氏から稲用(宇佐)氏の手に移り(「宇佐公邦解」同文書)、鎌倉時代末期には深水武藤三郎能氏に売却されたが、正和年間の神領興行で稲用氏へ返付された。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by