江戸時代に百姓を中心として徒党を形成し、領主の政策などに反対した闘争。幕末には直接領主を相手とせず、豪農や商人などに対して打毀(うちこわし)を行う世直し騒動が発生するが、それらを含めて考えるのが普通である。青木虹二(こうじ)著『百姓一揆総合年表』によれば、1590年(天正18)から1877年(明治10)の間に3700余件発生したとされる。
[保坂 智]
一揆は、百姓らの生活を破壊すると考える領主の諸政策を排除するために、徒党して非合法的手段で訴願を行うことを目的とした。領主の施策は多様であるから、一揆の要求も多様となり、十数か条から数十か条に及ぶことも多い。その内容は、年貢・小物成(こものなり)の減免、納租法の改善、夫食米(ふじきまい)などの拝借、御用金免除、流通課役・専売制などの廃止、役人の排除などが要求される。初期は年貢減免が主要な要求であったが、18世紀以降しだいに流通課役や専売制に反対し、自由な商品流通を求めるものが主流となってくる。
一揆の要求は、封建制の改廃を求めるものではなく、百姓経営が「成立(なりたち)」うる「仁政(じんせい)」を施行することを求めるものであった。そして悪政を具体的に指摘する論理は、新規課役であること、それを旧来の定法に戻すことと隣領や天下一統の法・慣習に違反していること、にあった。これは一揆の行動やいでたちにも明確に現れている。一揆は、初期の土豪一揆を除き、領主と武力衝突するものは存在しない。得物(えもの)として鎌(かま)や鍬(くわ)などとともに竹槍(たけやり)も持たれたが、防衛的なものであって、武器として使用されることは基本的になかった。鉄砲を持つこともあるが、百姓らが結集するための鳴物(なりもの)として鐘・太鼓・ときの声などとともに使われる例が多い。衣装も蓑笠(みのかさ)などの農民らしい姿で出てくることが求められた。
この訴願を有効たらしめるために多様な闘争形態が駆使されるが、大別すれば越訴(おっそ)、強訴(ごうそ)、逃散(ちょうさん)、打毀の4形態に分けうる。越訴とは、所定の手続を経ずに上級機関に訴願することをいう。領主や幕府役人の駕籠先(かごさき)へ訴状を提出する駕籠訴(かごそ)や、奉行所(ぶぎょうしょ)などへ駆け込む駆込訴(かけこみそ)などが典型である。強訴は、徒党した集団の圧力で要求を強いる形態であり、大規模な一揆では数千から万余の人々が結集し、城下などへ押し寄せた。逃散は、訴願を貫徹するために居村を立ち退き、隣領や領主権力の力の及びにくい山や寺などに集団的に移動する行為をさし、訴願を前提とせず、集団性を伴わない「走り」や「欠落(かけおち)」とは区別される。打毀は、集団で家々に乱入し、家財や書類などを破壊する行為である。その目的とするところは、村人の一揆への参加を拒んだ村役人などの百姓一統の結合に反対する者や、政策に荷担する商人たちを襲うことによって、一揆の目的達成を容易にするものであったが、しだいに独立し、百姓たちの経営を破壊する豪農・商人たちを打毀すことをおもな目的とする一揆・騒動が増えていく。
[保坂 智]
一揆は個々の百姓の結集ではなく、村々の結合として組織された。強訴で行動をともにする場合も村旗のもとで村単位に行動し、訴状も最終的には村々の代表者の合意によって作成されることが多く、何領何か村惣百姓(そうびゃくしょう)という形式で提出された。一揆参加者には百姓一統という意識が強く存在した。また一統となるために、個人あるいは村々の連判状を作成することも多く、起請文(きしょうもん)を伴い、神水(じんずい)を酌み交わすことも珍しくない。さらに、一統していることを象徴し、副次的には頭取(とうどり)を隠蔽(いんぺい)するための効果をももつ、車連判(くるまれんぱん)(傘状連判(かさじょうれんぱん))という連判形式もとられた。焼討ちや打毀の脅迫を伴う参加強制や不参加村落の村役人宅打毀は、この一統意識によって正当化された。
もちろん村々の連合は容易には形成されない。一揆を組織し指導する頭取たちの活動は一揆構成上不可欠な存在である。頭取は一揆後処刑されることが予想されるが、その恐怖を自己犠牲の精神で乗り越え、人々に一揆参加を説き、訴状を取りまとめ、自ら越訴に赴いたり、強訴の先頭にたった。彼らは村共同体からまったく自由な存在となったわけではないが、居村の利益のみに拘泥(こうでい)せず、領内の百姓全体の要求を認識しうる幅広い知識と、それを表現しうる能力が必要とされ、したたかな精神力の持ち主であることが要求された。この頭取たちの一部は、一揆でかちとられた諸条項とともに義民として伝承され、神格化されて神社に祀(まつ)られたり、碑が建てられるなどの顕彰もなされた。
[保坂 智]
近世初頭には、検地と兵農分離政策に代表される新政策に反対し、従来の特権を否定された在地土豪が、配下の百姓たちを率い、領主との間で武装闘争を展開する一揆(土豪一揆)が辺境地域を中心に展開した。この形態の一揆は、新領主の入封や大坂の陣などの権力の空白期あるいは弱体期に多発するが、態勢を立て直した領主によって鎮圧され、1637年(寛永14)の天草・島原の乱を最後に終息する。訴願闘争も直目安(じきめやす)の提出という形でみられるが、多くは1村単位の小規模なものであり、訴願の主体も村役人であることが多く、小百姓が闘争の前面に出てくることは少ない。この期の小百姓の行動として注目しうるのは走り百姓である。これは、年貢負担に耐えかねた百姓が、耕作を放棄して周辺の町や地主経営の下に下人(げにん)などとして移り住むものであるが、領主の農村支配を危うくするために、たびたび禁令が出され、隣領との間で走り百姓の交換協約が結ばれた。
17世紀中葉になると、藩政の整備が進み、領域内の統一的収奪体系が完成するので、一揆も広範な村々が結集し、その収奪体系に全面的に対決するに至る。闘争形態は、領内の惣百姓を代表し、1人あるいは数人の村役人が越訴するものが多く、代表越訴一揆あるいは全藩越訴とよばれる。佐倉惣五郎(さくらそうごろう)が将軍に直訴したとされる伝承がその典型であるように、義民伝承はこの型の一揆として伝承されることが多い。
17世紀末から18世紀に至ると、全藩的規模の闘争という点では変わらないが、闘争形態として強訴の比重が急速に増してくる。この越訴から強訴への変化は、小百姓層が闘争主体として成長したことの反映であり、彼らの活動力を背景に訴願の貫徹が図られたのである。この形態の一揆を惣百姓一揆あるいは全藩強訴とよぶ。
享保(きょうほう)期(1710~1730年代)ごろから打毀を伴う一揆が多くなり、打毀される家数が増えてくる。また、同時期に集中的に発生し、闘争の波及性が強まること、従来比較的少なかった幕領に多く起こることなどの特徴を伴ってくる。また1733年(享保18)に江戸で初めての打毀が発生したように、都市民の闘争、塩田や鉱山などの諸産業に働く労働者も独自の闘争を展開し始め、百姓の一揆と密接な関係をもって展開していく。この状況は天明(てんめい)年間(1780年代)により大規模な形で再現される。
このような一揆と諸闘争の展開に対し、幕府は徒党禁令を強化した。享保末から安永(あんえい)・天明期(1770~1780年代)にかけて出される禁令では、一揆処罰規定の強化、隣領への越境出兵の許可、一揆頭取に対する密告奨励とそれに対する褒賞を伴う高札、弾圧への鉄砲使用許可などが盛り込まれ、一揆に悩まされた領主は、この幕令を背景として弾圧を強化していくことになる。
18世紀後半以降、百姓たちが藩領域を越えて結集する広域闘争が成立する。早くは1764年(明和1)の中山道筋(なかせんどうすじ)4か国にわたる伝馬闘争(てんまとうそう)にみられるが、それが一般的となるのは天保(てんぽう)期(1830年代)である。この闘争形態は、幕府の全国政策や広域に展開する商品流通に伴う収奪、豪農・商の買占め、高利貸支配に反対したものであり、訴願の比重が軽くなり打毀が中心的闘争形態となる。同時期には領域を越えた合法的訴願としての国訴(こくそ/くにそ)も畿内(きない)に発生する。天保期の一揆の高揚は、この広域闘争と全藩強訴、都市の打毀が同時的に発生し、大坂での大塩平八郎の乱も加わり、支配者たちに強烈な危機意識をもたらし、天保の改革の要因となった。
幕末の開港に伴う経済変動は百姓生活に大きな影響を与え、土地を喪失した半プロたちが、米価騰貴や収奪に反対し、豪農・商を打毀す闘争が各地に展開した。とくに1866年(慶応2)には、幕長戦争の行われるなかで、江戸・大坂の打毀や武州世直し一揆などの大規模な一揆・打毀が発生し、江戸期最高の一揆発生件数を数え、幕府に多大な影響を与えた。また1868年(慶応4=明治1)には、戊辰戦争(ぼしんせんそう)に伴う政治的空白のなかで再度一揆・打毀が高揚したが、この一揆参加者は、明確に世直しを標榜(ひょうぼう)するに至った。
維新政府が成立し、矢つぎばやに近代化政策を施行すると、それらに対する反対一揆が各地に発生した。それらの一揆は、直接的要因から地租改正反対一揆、血税一揆などとよばれるが、それらの個々の政策に反対したのではなく、維新政府の対民衆政策全体に反対して蜂起(ほうき)し、官に対する強い拒否意識を示した。またこの期の一揆は、竹槍・鉄砲で武装され、邏卒(らそつ)(巡査)を殺害するなど激しい行動を展開するのも特徴である。1875年の伊勢暴動(いせぼうどう)や翌年の九州における西南戦争下の諸一揆が最後の百姓一揆であり、以降の農民闘争・民衆運動は、自由民権運動や小作騒動へと受け継がれる。
[保坂 智]
『小野武夫編『徳川時代百姓一揆叢談』上下(1927・刀江書院)』▽『黒正巌著『百姓一揆の研究』(1928・岩波書店)』▽『堀江英一編『明治維新の社会構造』(1955・御茶の水書房)』▽『佐々木潤之介著『幕末社会論』(1969・塙書房)』▽『青木虹二著『百姓一揆総合年表』(1971・三一書房)』▽『林基著『百姓一揆の伝統』正続(1971・新評論社)』▽『深谷克己著『百姓一揆の歴史的構造』(1979・校倉書房)』▽『青木美智男他編『一揆』全5巻(1981・東京大学出版会)』▽『山田忠雄著『一揆打毀しの運動構造』(1984・校倉書房)』▽『青木虹二他編『編年百姓一揆史料集成』全20巻(1979~ ・三一書房)』
年貢,諸役を負担する百姓身分の小農民が結集して,増徴と統制に反対する直訴(じきそ)を行うこと。一揆の歴史は中世,近世の両時代にまたがるものであり,その主体も武士,僧侶から百姓にわたっているが,近世の一揆は百姓一揆が中心である。しかし初期と幕末には,百姓一揆とは規定しがたい内容の一揆が起こった。
近世の領主権力は,中世の武士の一揆を解体して家臣団という支配機構に組み替え,また一向一揆の結末にみられるように中世百姓の一揆を壊滅させた。検地と諸法令を用いた兵農分離,武士の城下町集住によって,武士と百姓の関係は大きく変質した。中世では一揆は社会全体から容認されているものだったが,近世ではいっさいの一揆的結集は徒党として禁止され鎮圧された。武士の徒党も厳禁されている。しかし近世の農民は中世の一揆とは異質な,より純化した方式としての百姓一揆をつくりだした。近世の百姓一揆は,支配する階級や抑圧する階層に対して抗議する社会的勢力として現れる方法であった。近世民衆の抵抗は一揆という形態だけではなかったが,一揆はもっとも中心的な形態であった。ただ,近世になって一挙に典型的な百姓一揆が登場したのではなく,一揆の主体,組織,要求,原因などが時期によって異なっていた。
17世紀は百姓一揆が成立する段階である。近世初頭には,新しく入封してきた領主による年貢賦課や検地の強行に抵抗したり,新しい領主の入封そのものを阻もうとする,敗北した領主の遺臣や家父長制的な地主農民を主導者にした武力反乱があちこちに起こっている。このような階層は,領主化の道を閉ざされて百姓なみに扱われるようになっており,その意味では幕藩領主に対抗する百姓一揆である。しかし百姓一揆の本来的な基礎である小農民と,彼らから年貢,夫役(ぶやく)を村請(むらうけ)制を通して領主が収奪する近世農村の成立という点で,17世紀前半はまだ百姓一揆を準備する過程にあった。この時代には組織的な武力一揆と分散的な逃散(ちようさん)とに農民闘争の形が二分されていた。小百姓層はきわめて不安定であり,多数の〈走百姓〉と呼ばれる欠落(かけおち)者がでた。大百姓の中のある部分も,大百姓に隷属する下人的農民も,領主負担を転嫁されて欠落した。逃散した農民は他村や鉱山や都市に逃げこんで生活を立て直そうとしたが,捜し出されて引き戻されることもあった。1637(寛永14),38年の島原・天草一揆(島原の乱)は,武力一揆と逃散の二つに分離していた農民闘争が次の本来的な一揆的結集へ転換していく分水嶺の位置にある。
居村内でのねばりづよい小農自立闘争と領主の小農維持政策によって近世農村が成立してくると,小農民が惣百姓として村役人を通じて領主と向かいあうことになった。兵農分離はいっそう貫徹し,武器は百姓の手から奪われて武力一揆は終わった。しかし,小百姓をふくむ惣百姓寄合は形成されたが,まだ村落は階層差が大きく,惣百姓の意志や要求は村役人層がおしはかって代表するか,迫られて代表する。佐倉惣五郎のような伝説的義民が生みだされるのは,このような時期である。惣百姓結合を土台にしているが,形態は村役人越訴(おつそ)闘争が中心になる。それは単独の行動から若干名の行動までさまざまであるが,惣百姓がそのまま参加するのではない点で共通する。17世紀末になると,惣百姓が直接に登場する惣百姓強訴(ごうそ)闘争への移行を示す百姓一揆が現れてくる。1686年(貞享3)の松本藩一揆(加助騒動)はその事例である。この一揆は打毀(うちこわし)をともなったが,1708年(宝永5)の水戸藩一揆は打毀をともなわない惣百姓強訴になった。惣百姓強訴には二つの形態があったが,もっとも典型的なものは激しい打毀をともなう全領域的な惣百姓強訴である。この場合には,多数の平百姓が少数の村役人を圧倒しながら闘争を展開する。この時期の領主は,基本年貢をかってに引き上げることはできず,小農民が経営の補いにしている無年貢のさまざまな作間稼(さくまかせぎ)に対し,新規の小物成や小役を課して徴収しようとした。それを実行するにあたっては特定の村役人や問屋が協力しており,一揆は彼らの居宅を激しく打ち毀した。
領主に対する一揆が激しくなる他方で,被支配身分の地主・金主に対する闘争も増加する。質地地主・小作関係が広がって耕作権確保をめざす質地騒動が起こったり,経営を取り倒す高利貸に対する打毀が行われた。18世紀前半の惣百姓強訴闘争の原動力になった農民は,質持=負債小農民であった。18世紀後半になると,惣百姓強訴の性格は変わらないが,専売制反対一揆が闘われるようになる。1755年(宝暦5)に土佐藩では,国産方役所設置にともなう特権商人の不当な国産紙強制買上げに反対する一揆が起こる。専売制反対一揆も多くの要求項目をもつが,どの一揆も自由売買を主張して価格,流通の統制に反対する点で共通する。小商品生産段階へ進んだ百姓経営の成果を,領主は殖産・専売政策によって吸収し国益を増進させようとした。この段階の一揆農民は不安定で零細な小生産者であった。この時期の一揆は支配関係をこえる広域闘争を行うという点にも特徴があった。農民の生産と消費が,本来の領域をこえる広がりのなかで営まれるようになったことが,その条件になった。また村役人を追及する村方騒動は17世紀以来ふんだんに起こったが,この時期にはいっそう増加し,旧勢力を追い落としたり,一揆のなかで村役人の任免についての要求を提出することもあった。一般に百姓一揆は都市民の闘争と結びつかないことが多いが,この時期の領主が財政難打開のため村方,町方両方に御用金を課すことがあったので,百姓・町人の共同闘争が実現されることがあった。
19世紀の一揆はこれまでのあらゆる形態をみせながら,広域闘争の一つとしての世直し一揆を登場させる。国訴(こくそ)のように小商品生産農民と在郷商人が連合する順法的な広域訴願も現れたが,天保飢饉,開港,内乱という社会変動のなかで,もはや幕藩領主の政治能力に期待をもたず,みずからの力で地域社会の富を独占する者に対して制裁を加える世直しの闘いが行われた。その主体は,小生産者のほかに,プロレタリア的貧農,諸渡世民が活発な力を発揮し,窮民として結集し,全体として豪農商に対する徹底的な打毀の様相を示した。
執筆者:深谷 克己
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幕藩体制下の百姓身分の者を中心として,幕府や領主の年貢の収奪強化などに抵抗しておこしたもの。近世初期から明治初年までに約3700件発生。幕府は徒党禁令を制定してその行為を禁止し,頭取以下一般参加者まできびしい処罰を行ったが,一揆の発生を防止できなかった。闘争形態としては越訴(おっそ)・逃散・門訴(もんそ)・強訴(ごうそ)などがあり,強訴では打ちこわしをともなうことが多かった。規模や闘争形態・闘争主体などから土豪一揆・代表越訴型一揆・惣百姓一揆・全藩一揆・広域闘争・世直し一揆(騒動)などに分類される。
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…したがってふつう打毀というと,近世都市の米一揆とみなして理解されることが多い。しかし百姓一揆においても,たとえば全藩一揆にみられるように,大衆的組織的強訴(ごうそ)に際して幕藩領主権力との交渉の過程で,一揆の要求貫徹のための圧力・手段としても打毀が行われた。その際に打ち毀される側は,領主権力と結託して日ごろ民衆を搾取している大庄屋・庄屋層,特権的御用商人などであり,日常のふんまんが爆発して徹底的に打ち毀されることが多かった。…
…武士・公家から庶民に至るまで,一方では私的な争論を禁じ,他方では順を踏まない越訴を禁じて,訴訟の制度にもとづき大小の紛争を解決するというのが江戸幕府のたてまえであったが,実際には越訴は根絶できず,それへの対処も変化した。百姓一揆の多くは,単独か少数あるいは多数の農民の越訴行為であった。1603年(慶長8)に徳川家康が定めた郷村掟(ごうそんおきて)では,直訴を原則として禁じたが,代官が不当であるときは特別に認めた。…
… 低年貢期の50年をこす継続は,次に続く激しい年貢収奪期をとくに耐え難いものにする。1745年(延享2)の畿内の大一揆をはじめとし,宝暦(1751‐64)・明和(1764‐72)にかけて大規模な百姓一揆を激発させ,一揆鎮圧の手段として一揆に向けての発砲も認められるようになる。全国的な一揆の頻発のなかで,個別一揆はほとんど敗北したとされながら,幕府直轄領での年貢徴収量は一揆の激発を機に減少していき,天明(1781‐89)の大凶作時に底をつく。…
…惣百姓による集団的な直訴行動。江戸時代の百姓一揆の中心的な闘争形態。江戸時代初頭には武力による反抗も起こったが,島原の乱以降は百姓訴訟法と村落支配制度が整備され,順を踏んだ訴願がふえた。…
…江戸時代において越前などで起こった打毀(うちこわし)などを伴った大規模な百姓一揆の総称で,特定の一揆をさす名称ではない。史料上では,〈百姓蓑虫出る〉〈丸岡御領内蓑虫騒立つ〉(藩政史料),〈七月廿七日夜六ッ時みのむしをこし候〉(一揆廻状),〈蓑虫徒党致すまじく〉(村法)などと表現されている。…
※「百姓一揆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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