紙漉阿原村(読み)かみすきあわらむら

日本歴史地名大系 「紙漉阿原村」の解説

紙漉阿原村
かみすきあわらむら

[現在地名]昭和町紙漉阿原

西は河東中島かとうなかじま村、南は中楯なかだて村・西新居にしあらい村・くち(現玉穂町)、北は押越おしこし村。村の東部を鎌田かまた川が南流し、北部をひがし川が南東に流れる。井ノ口村との境をいま川が南流する。中世の当地は釜無川の氾濫原であったとみられ、開発は信玄堤の成立と深く関係すると考えられる。天正一〇年(一五八二)一二月五日の徳川家印判状写(中巨摩郡志)によれば、饗場修理亮に「紙漉河原功刀分一貫五百文」が安堵された。同一一年四月一八日には宮原みやばら八幡宮(現甲府市の宇波刀神社)に対し「紙漉新居内四貫文・同所一貫五百文」が安堵されている(「徳川家康印判状写」社記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報