浄土の一宗を創唱した法然(ほうねん)(源空)の門弟親鸞(しんらん)(1173―1262)によって開かれた仏教の一派。真宗とも略称する。古くは俗に一向宗(いっこうしゅう)、門徒宗ともいわれた。浄土宗鎮西派(ちんぜいは)や浄土宗西山派(せいざんは)、時宗(じしゅう)などとともに日本浄土教の主流を形成し、日本の総人口の約20%を占めている。
[石田充之]
最初叡山(えいざん)に学び、1201年(建仁1)法然の専修念仏(せんじゅねんぶつ)に帰した親鸞は、1207年(承元1)法然が四国方面へ流罪となったとき還俗(げんぞく)させられて越後(えちご)国府に流罪となる。4年ばかりの配所の生活を送るころに恵信尼(えしんに)と結婚、その後、越後・関東・京都にわたる非僧非俗の在家者(ざいけしゃ)的な念仏教化生活を送るが、その態度は、彼の主張内容と相まって、僧俗一体平等の同朋(どうぼう)教団としての歩みを形成する。
親鸞の晩年に異端を主張した長子善鸞(ぜんらん)の義絶事件などが関東方面で起こるが、性信(しょうしん)などの有力門弟の協力により収拾され、その末女(すえのこ)覚信尼(かくしんに)(1224―1283)は、親鸞没(1262)後その廟所(びょうしょ)を夫の小野宮禅念(おのみやぜんねん)や門弟顕智(けんち)らと協力して京都東山大谷(おおたに)につくり、廟所全体を親鸞門弟に寄進して、門弟の共同管理とし、留守役をいちおう親鸞の子孫が勤めていくこととする。その後、留守役は、覚信尼より長子覚恵(かくえ)(亡夫日野広綱の子、1239/1249―1307)が継ぐが、覚恵の異父弟唯善(ゆいぜん)(禅念の子、1266―1317)の大谷廟所押領専有事件などが起こる。しかし関東の門弟などの努力により落着し、廟所は親鸞門弟が共同で管理していく体制が確立された。
覚恵の長子覚如(かくにょ)(1270―1351)は、親鸞門流の同意をかろうじて得て留守役(留守職(るすしき))につき本願寺の寺号を掲げるが、彼は真宗教団の形態的なまた信仰的な体制の確立に異常な努力を払い、大谷廟本願寺親鸞聖人(しょうにん)を受け継ぐ法統・血統の正統者・主権者であるといった傾向を強く示した。そのため、門弟一同に信望の厚い長子存覚(ぞんかく)(1290―1373)をも一生涯義絶状態に置き、関東の真仏(しんぶつ)(1209―1258)・顕智(1226―1310)の高田門徒専修寺派(せんじゅじは)、その系統の三河(みかわ)(愛知県)の和田門徒(わだもんと)、京都東山の了源(りょうげん)(1295―1352)の仏光寺派(ぶっこうじは)、越前(えちぜん)(福井県)の如道(にょどう)(?―1352ころ)らの三門徒派(さんもんとは)系、江州(ごうしゅう)(滋賀県)の木部(木辺)(きべ)慈空(じくう)(?―1351)の錦織寺派(きんしょくじは)などが、いずれも本願寺離反の傾向を示す。
大谷廟本願寺の留守職は、のち善如(ぜんにょ)―綽如(しゃくにょ)―巧如(ぎょうにょ)―存如(ぞんにょ)と継がれるが、その勢力は仏光寺派の繁栄に比しわずかに北陸方面に教線を伸ばすのみで衰退に赴く。しかし本願寺第8代蓮如(れんにょ)(1415―1499)の平易な『御文(おふみ)』(『御文章(ごぶんしょう)』)による同朋精神高揚の念仏伝道は親鸞門流全体を再結集し、本願寺教団の隆盛をみる。蓮如以後、実如―証如(しょうにょ)―顕如(けんにょ)(1543―1592)と継がれるが、北陸門徒による一向一揆(いっこういっき)の勃興(ぼっこう)、大坂石山本願寺(いしやまほんがんじ)の織田信長との戦いなど安泰ではなかった。石山合戦での和睦(わぼく)問題を契機として顕如の三男准如(じゅんにょ)(1577―1650)が豊臣秀吉(とよとみひでよし)の裁可により本願寺を継ぎ、次男顕尊(けんそん)(1564―1594)は蓮如に帰依(きえ)し仏光寺派より分かれた経豪(きょうごう)(1451―1492)がおこした興正寺(こうしょうじ)を継ぎ、信長との和睦にただちに応ぜず部屋住みとなっていた長子教如(きょうにょ)(1558―1614)は家康より寺地の寄進を得て東本願寺を建てた。以後本願寺は2派に分かれ、准如の系統を本願寺派(西本願寺)、教如の系統を大谷派(東本願寺)と称する。
その後、江戸時代のキリスト教などに対応する鎖国政策は、本末制(ほんまつせい)、檀家制度(だんかせいど)などを真宗教団にも確立し寺院の増加をみるが、わずかにその教学、布教などを振興するのみで、宗教的にはきわめて無力化される。明治時代の初め、島地黙雷(しまじもくらい)、赤松連城(あかまつれんじょう)らが西欧の視察留学より帰るや、真宗教団の独自性の確立、信仰の自由を図り、学制の改革などによる教団の近代化を企て現在に至る。(1)本願寺派、(2)大谷派、(3)高田派、(4)仏光寺派、(5)興正派、(6)木辺派(きべは)、(7)三門徒派、(8)誠照寺派(じょうしょうじは)、(9)山元派(やまもとは)、(10)出雲路派(いずもじは)の10派よりなる。
なお、「浄土真宗」の語は親鸞の主著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』にみえるところから、東・西本願寺は1774年(安永3)これを宗名とすることを幕府に願いいでたが、浄土宗増上寺がこれに反対し、いわゆる宗名問題として長く争われた。1872年(明治5)政府より「真宗」と称すべき旨の通達が出されて決着、「真宗大谷派」「真宗本願寺派」と称した。現在、真宗10派のうち本願寺派のみは「浄土真宗」を、他の9派は「真宗」を称している。
[石田充之]
親鸞の『教行信証』などの主張をその根幹とする。したがって、大乗仏教経典なる『無量寿経(むりょうじゅきょう)』『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』『阿弥陀経(あみだきょう)』を正依(しょうえ)の経とし、龍樹(りゅうじゅ)、天親(てんじん)(世親(せしん))、曇鸞(どんらん)、道綽(どうしゃく)、善導(ぜんどう)、源信(げんしん)、法然の七祖の聖典、覚如・存覚の諸著、蓮如の『御文(おふみ)』などが重視される。南無阿弥陀仏と称(とな)える称名念仏の実践において、人間の自我欲中心的な生き方を、無我・縁起因縁生(えんぎいんねんしょう)の真理の現れとしての阿弥陀仏の浄土の悟りの躍動力なる本願力他力(ほんがんりきたりき)(第十八願力)の光・呼声(よびごえ)のなかに、心底深く内省せしめられ、つねに清浄土(しょうじょうど)の実現を願いつつ無我・平等・大慈悲心のあふれる現実生活を開拓することを力説する教えである。
[石田充之]
『龍谷大学編・刊『真宗要義』全3巻(1927~1939)』▽『龍谷大学編・刊『真宗要論』全1巻(1953)』▽『本願寺史料研究所編・刊『本願寺史』3巻(1961~1969)』▽『普賢大円著『真宗教義の発達』(1963・永田文昌堂)』▽『宮崎円導還暦記念会編『真宗史の研究』(1966・永田文昌堂)』▽『細川行信著『真宗成立史の研究』(1977・法蔵館)』▽『千葉乗隆著『真宗教団の組織と制度』(1978・同朋舎出版)』
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親鸞を宗祖とする仏教の一派。略して真宗ともいう。〈浄土三部経〉(《無量寿経》《観無量寿経》《阿弥陀経》)を正依の聖典とする。真宗の名は中国でもみられ,唐の宗密の《盂蘭盆経疏》には〈真宗未だ至らざるに〉とあり,法照の《浄土五会法事讃》には〈念仏成仏是真宗〉とある。しかしこれらは,真実の教という謂で,宗名ではなかった。
日本では,はじめ浄土宗を浄土真宗ともいった。浄土宗の聖冏(しようげい)の《浄土真宗付法伝》には,浄土真宗の八祖相承(経巻相承),六祖相承(知識相承)があげられ,妙瑞の《鎮西名目問答奮迅鈔》には,浄土宗を浄土真宗というといわれている。後小松天皇は,金戒光明寺(こんかいこうみようじ)に勅額〈浄土真宗最初門〉を下付している。法然の弟子親鸞もまた,浄土真宗あるいは真宗の名を使用した。《教行信証》教巻の初めに〈真実之教浄土真宗〉と記し,本文に〈謹んで浄土真宗を案ずるに〉といっている。このほか,親鸞の著述に,浄土真宗・真宗の名を記すところが多い。もちろん一宗を開く意志はなかったから特定の宗派名として使用したわけではないが,浄土真宗の伝灯として三国の七祖名(インドの竜樹(りゆうじゆ),天親(てんじん),中国の曇鸞(どんらん),道綽(どうしやく),善導,日本の源信,法然)をあげ,自己の信ずる宗教として浄土真宗の名を用いた。本願寺第8代蓮如は,浄土真宗を宗派名として意識し強調した。当時,真宗を一向宗と呼ぶものが多かったが,蓮如は1473年(文明5)9月下旬の《御文》の中で,〈夫当宗を一向宗とわが宗よりもまた他宗よりもその名を一向宗といへることさらにこゝろゑがたき次第なり。祖師聖人はすでに浄土真宗とこそおほせさだめられたり(中略)当流のことは自余の浄土宗よりもすぐれたる一義あるによりて我聖人も別して真の字をおきて浄土真宗とさだめたまへり〉といっている。この指摘は,浄土宗と真宗の間に大きな溝を作った。1774年(安永3)東西本願寺が宗名として浄土真宗の公称を幕府に上訴し,江戸増上寺がこれに反対し,いわゆる宗名事件となった。89年(寛政1)幕府は本願寺に旧称に復すよう命じ,さらに後,輪王寺宮の仲裁で宗名問題は三万日の御預けとなった。幕府も随分苦慮したことであろう。1869年(明治2)大年寄は,従来東西本願寺の末寺などが門徒宗と称してきたが,一向宗と公称するよう命じた。同年東西本願寺はその処置に抗し,浄土真宗の公称について,弁官へ嘆願書を提出したが許されなかった。71年京都府は,宗名を一向宗と称するよう達を出したが,東西本願寺は直ちに浄土真宗の公称許可を京都府に願い出た。72年政府はようやく一向宗を真宗と称することを許可したが,浄土宗の立場を考えてか,浄土真宗の名を許さなかった。81年6月,東本願寺派を真宗大谷派,西本願寺派を真宗本願寺派と改めた。第2次大戦後,西本願寺は宗名に浄土を付け浄土真宗本願寺派と称するようになった。しかし東本願寺等真宗9派(大谷派,高田派,仏光寺派,木辺派,興正寺派,出雲路派,山元派,誠照寺派,三門徒派)は,従来のまま真宗と称している。
→一向宗 →本願寺
執筆者:北西 弘
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…異流,異義,異計,邪義ともいう。とくに浄土真宗では,正統の安心を重んじ,異安心の排除に熱心であった。真宗における異安心は,すでに親鸞の在世中,その門下に〈一念・多念〉〈有念・無念〉の論争があり,〈誓名別執〉〈造悪無碍(むげ)〉〈専修賢善〉等の異義があった。…
…浄土真宗(真宗ともいう)本願寺派の坊主や農民,商工業者,武士などの門徒が主導し,あるいは門徒が他の勢力と結んだり,本願寺法主に動員されたりしておこした武装蜂起,闘争の総称。1466年(文正1)から1582年(天正10)に至る約120年間にわたって,近畿,北陸,東海などの諸地域で起き,室町末~戦国時代の政治史の中で,重要な役割を果たした。…
…52年(正平7∥文和1)比叡山の衆徒によって破却された仏光寺の坊舎を,《祇園執行日記》は〈一向宗住居〉と記し,文明の加賀一向一揆の勃発について《大乗院寺社雑事記》は〈一向宗土民蜂起ス〉と記している。 本願寺は,一向宗と呼ばれることを嫌い,とりわけ蓮如は宗祖親鸞が一向宗という言葉を使わず,浄土真宗と称していることから,自己の教団を浄土真宗と主張した。しかし近世に至ってもなお,一向宗は親鸞門流の呼名として一般化していた。…
…浄土真宗の開祖。父は皇太后宮大進日野有範。…
…僧の恋愛や妻帯や女犯は《今昔物語集》《古事談》《沙石集(しやせきしゆう)》などの説話文学にしばしば登場し,公然の秘密だった。前近代において,教団として正式に僧の妻帯を認めたのは,非僧非俗の立場をつらぬいて念仏を説いた親鸞の浄土真宗であった。親鸞の血をついだ子孫が,代々本願寺の法嗣となり,末寺でも僧侶は家族と生活をともにしながら弘通(ぐづう)した。…
…相互扶助精神の強いことは,被差別部落の人々にきわだつ特質の一つなのである。
[信仰と伝承]
被差別部落の信仰という点では,真宗(浄土真宗)ならびに白山信仰との密接な関係があげられる。中世の末期から近世の初頭にかけての一向一揆においては,各地で少なからぬ被差別民がこれに深く関与していた。…
※「浄土真宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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