縄平村(読み)つなひらむら

日本歴史地名大系 「縄平村」の解説

縄平村
つなひらむら

[現在地名]会見町朝金あさかね

山根やまね村の南東朝鍋あさなべ川下流右岸、越敷野こしきの台地西端の麓に位置する。古くは綱平とも記した。拝領高は一〇五石余、本免は四ツ九歩。藪役銀七匁が課せられていた(藩史)幕末の六郡郷村生高竈付では生高一一四石余、竈数一五。「伯耆志」では家数一六・人数五八。享保九年(一七二四)当村など星川ほしかわ谷の一〇ヵ村は荻名おぎな村地内大谷おおたに山の入会をめぐって、寺内てらうち村など一一ヵ村と山論となっている。また同一三年には長者ちようじや原続きの小原山・五輪原などの入会をめぐって、諸木もろぎ村など山下五ヵ村と争った里方二一ヵ村の一でもあった(在方諸事控)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報