賀茂神社(読み)カモジンジャ

デジタル大辞泉 「賀茂神社」の意味・読み・例文・類語

かも‐じんじゃ【賀茂神社】

賀茂別雷かもわけいかずち神社上賀茂神社)と、賀茂御祖かもみおや神社下鴨神社)の総称。山城国一の宮

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精選版 日本国語大辞典 「賀茂神社」の意味・読み・例文・類語

かも‐じんじゃ【賀茂神社】

  1. 京都市北区上賀茂の賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ)と左京区下鴨の賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)(=下鴨神社)の総称。
    1. [初出の実例]「夏四月大伴坂上郎女奉賀茂神社之時」(出典:万葉集(8C後)六・一〇一七・題詞)

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日本歴史地名大系 「賀茂神社」の解説

賀茂神社
かもじんじや

[現在地名]御津町室津

明神みようじん山にあり、北に室津むろつ港を眼下に望む。祭神は賀茂別雷神・彦火火出見尊、摂社として貴布禰きふね(祭神高神)・若宮社(祭神玉依日子命)片岡かたおか(祭神賀茂建角身命)太田おおた(祭神意富多多泥古命)などがある。旧県社。京都上賀茂社(賀茂別雷神社)むろ御厨が成立した頃に勧請されたと伝え、このとき三六人が賀茂明神の供をしたという。治承四年(一一八〇)三月、高倉上皇は安芸厳島神社への参詣途中、当社に立寄り幣を奉っている(高倉院厳島御幸記)。長禄三年(一四五九)山名是豊によって社殿の造替が行われたという(賀茂神社文書)。文禄元年(一五九二)一二月二二日、肥前名護屋なごや(現佐賀県鎮西町)に下向途中、室に逗留した近衛信輔(信尹)は「三藐院記」に「鳥井大路トいひて鴨の社家アリ」と記している。慶長二年(一五九七)摂社片岡社などが小早川秀秋によって造替が行われ、寛永二年(一六二五)・承応三年(一六五四)などにも姫路藩主によって度々修復されている(棟札)。慶安元年(一六四八)の徳川家光朱印状写(早稲田大学蔵鳥居大路文書)には室津明神社と記され、室津村内で三〇石の社領を安堵され、山林・竹木・諸役等を免除された。


賀茂神社
かもじんじや

[現在地名]羽須美村阿須那

出羽いずわ川左岸の羽尾はねお山に鎮座する。祭神は賀茂別雷命。旧郷社。社伝によると、往昔社人が京都上賀茂社に願出て勧請したという。この地は古くは四多原したはらといい、阿須那あすな八箇庄の産土神であった阿須波神と延喜式内社と伝える大原おおはら神社を相殿として祀る。大原神社の祭神は武甕槌神・天津児屋根命・斎主命・姫大神。八箇庄とは阿須那・宇都井うづい戸河内とがうち雪田ゆきた口羽くちば上田うえだ都賀西つがにし(現大和村)大林おおばやし(現瑞穂町)をいう(羽須美村誌)。明治四一年(一九〇八)と同四三年に雪田の天満宮と大元おおもと神社、戸河内の八幡宮、宇都井の八幡宮と金刀比羅ことひら宮を合祀した。境内社の八幡宮はもと阿須那八幡はちまんだんにあり、大永五年(一五二五)藤根ふじね城主高橋興光の志願により当社境内に移されたと伝える(同書)


賀茂神社
かもじんじや

[現在地名]清水町大森

大森おおもりの西、丘陵地にあるが、もと山内やまうちに鎮座していたともいわれる。祭神は別雷わけいかずち神・玉依姫たまよりひめ命・伊賀古夜比売いかこやひめ命・大己貴おおなむち命。旧郷社。「延喜式」神名帳に載る丹生にう郡「イカツチノ神社」に比定される。社伝によると、養老元年(七一七)広部民部が京都上賀茂社・下鴨社の神璽を奉斎したのに始まり、天慶年中(九三八―九四七)多田満仲が当社を崇敬、雷神社と名付けて扁額を揮毫したという。下鴨社領志津しづ荘の中心であった当地に、京都から両社を勧請したものであろう。本殿に安置されていたという木彫狛犬に、文和四年(一三五五)一二月一三日付の銘があり、「越前国志津□庄鴨社師子駒犬」と記されている。


賀茂神社
かもじんじや

[現在地名]仁尾町仁尾

仁尾の海岸に近い宿入しゆくいりに鎮座する。祭神は賀茂別雷大神。旧県社。応徳元年(一〇八四)原斎木朝臣吉高が、山城国賀茂大神の分霊を鴨氏人とともに仁尾大津多おおつた(蔦島)に奉斎したのが始まりと伝える。

寛治四年(一〇九〇)七月一三日、堀河上皇が京都上賀茂・下鴨社への不輸田六〇〇余町を御供田として奉じ、諸国に御厨を定めた(百錬抄)。その一所が讃岐国内海のつた島周辺と考えられる。観応元年(一三五〇)一二月一七日、細川顕氏から賀茂御祖社領内海津多島供祭所において、軍勢などの濫妨防止の禁制が交付された(常徳寺文書)。この頃当社は蔦島から現在地へ移されたと思われる。明徳二年(一三九一)に細川頼元が別当神宮寺を建立して以降、当社の祭礼には毎年細川家から使者があったといわれ、その名残が現在も行われている長床の儀であると伝える(新修仁尾町誌)


賀茂神社
かもじんじや

[現在地名]七山村大字藤川

鳴神なるかみ山にあり、鳴神社とも称する。旧村社。

仙覚の「万葉集註釈」には「風土記云松浦県東有鳴神山俗伝云昔者景行天皇巡狩之時国造奉饗膳俄然天暗冥昼夜不別降雨雷鳴而震動天地是分鳴神此焉」とある。だが「岡本家諸家系譜類集」には延暦一五年(七九六)岡本前山城守長種が肥前守に任ぜられ下向し、七山鳴神山に賀茂別雷命(京都の上賀茂神社の祭神)の分霊を勧請し祀り、同年加茂かも社の神領を賜るとある。大同元年(八〇六)長種は任を降り、鳴神山に土着した。「三代実録」によれば、貞観一八年(八七六)六月八日、鳴神社に従五位下が授けられている。


賀茂神社
かもじんじや

[現在地名]桐生市広沢町六丁目

桐生市と新田につた郡の境界となっている八王子はちおうじ丘陵の東麓、賀茂沢かもざわの入口に位置。五千坪ほどの広い境内がある。祭神は別雷神。明治四二年(一九〇九)付近の諏訪神社・大山祇おおやまづみ神社などを合祀。現在は二〇柱を配祀する。多野たの上野うえの泉龍せんりゆう寺蔵の大般若経巻五七八の奥書(年紀不詳)に「別雷命下広沢賀茂社」とある。

「延喜式」神名帳の山田郡に「賀茂カモノ神社」とみえ、当社に比定される。


賀茂神社
かもじんじや

[現在地名]会見町宮前

みね山の東側山麓、荒神平こうじんびらにある。阿遅高彦根神・賀茂別雷神ほか一一神を祀り旧郷社。「三代実録」貞観九年(八六七)四月八日条によれば伯耆国正六位上「賀茂神」の神階が従五位下に昇叙されているが、この賀茂神を当社にあてる説もある。かつては加茂大明神といい、京都上賀茂社領星川ほしかわ庄一一ヵ村の総社とされ、安楽寺(廃寺)が神宮寺であったという。社蔵の大般若経奥書には寛平九年(八九七)四月吉祥日の年紀と「安楽寺長倫双以抜」の墨書があり、この安楽寺の寺跡は近世浅井あさい村修験竜正院にあった礎ともいわれる(伯耆志)。また同じく社蔵の円形銅製仏式具の裏(木製)には文安四年(一四四七)九月九日の年紀と「代官石塚山城」の銘があり、「県神社誌」によると当社北東一町の地に星川庄代官屋敷跡があるという。


賀茂神社
かもじんじや

[現在地名]福山市加茂町芦原

中国準平原の山地から加茂かも谷に流れ下る加茂川の西岸にあり、古墳群のある加茂山を背に、前に宮の馬場・神池を配し、社叢に覆われる。旧郷社。別当寺として神宮じんぐう寺があった。「西備名区」は「日本武尊、穴の悪神を誅し給ひし時、(中略)此所に至りて彼悪神を誅し給ひし跡」とし、祭神は瓊瓊杵尊・神日本磐余彦尊・玉依姫命・賀茂建角身命とする。社伝によれば貞観六年(八六四)京都賀茂別雷かもわけいかずち(上賀茂神社)の分霊を勧請したといい(「郷社賀茂神社御由緒」社蔵)、当社付近には加茂川・加茂山のほか、加茂川に沿って貴船きぶね神社、芦原あしはらの東部に高雄たかお山、字名に糺の森ただすのもり岩倉いわくら芹生せりようなど京都との関連をうかがわせる地名が多い。


賀茂神社
かもじんじや

[現在地名]宇ノ気町横山

横山よこやま集落の東端、亀山かめやまに鎮座。旧県社。「延喜式」神名帳にみる加賀郡一三座の同名社に比定される。祭神は賀茂別雷神で、貴布禰神と天照大神を配祀。宝暦二年(一七五二)の横山賀茂神社縁起(高松町史)によれば、天平勝宝五年(七五三)加賀郡英田えた郷の加茂邑(現津幡町加茂とされる)に影向、大同元年(八〇六)鉢伏はちぶせ村に遷座。翌二年に神託によって現在地へ移ったと伝える。ただし英田郷加茂邑に鎮座したとの伝承が記されない縁起もある。中世、当地一帯は京都上賀茂社領金津かなつ庄に属したため、当社は金津庄二〇余村の総社として、あつい崇敬を受けたらしい。天文六年(一五三七)の金津庄横山村名別公事銭等納帳(賀茂別雷神社文書)にみえる木津きづ宮・若宮は当社の摂社・末社とみられる。


賀茂神社
かもじんじや

[現在地名]西伯町倭

やまと集落の北部にある。古くから阿賀あが庄七ヵ村(原・小原・猪小路・新庄・北方・阿賀・下阿賀)の産土神とされ、別雷命ほか七神を祀る。旧郷社。京都賀茂別雷神社の分霊を大平おおなる山の山頂に祀ったのが始まりと伝え、のち同山中腹の小平に移し、さらに万治三年(一六六〇)に現在地に再建したと伝える。戦国時代には尼子経久の崇敬を受け社領一〇〇石の寄進があったが、尼子氏の滅亡とともに衰退。享保一八年(一七三三)鳥取藩主池田氏によって社領一〇石を寄進された(伯耆志)。天保五年(一八三四)の寺社領帳(藩史)に「先役山田弥兵衛并在方証文、一、外高一〇石、原村加茂大明神領」とみえるのが当社のことと思われる。


賀茂神社
かもじんじや

[現在地名]三朝町森

もりの集落内、山裾にある。旧郷社。祭神阿遅高日子根神・大物主神・別雷神など一一神。古くから賀茂郷の総産土神とされ、賀茂大明神と称し、因幡・美作からの参拝者も多かった。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」に「鴨大明神、加茂谷惣氏神也」とあり、明神が船で川上へさかのぼってきたと伝えるように現倉吉市あおい町の賀茂神社の分社として勧請されたといわれる。寛永一〇年(一六三三)森村の高三石六斗余を永代寄進され、享保四年に正一位の社格を受け、安政六年(一八五九)には官社に列した。


賀茂神社
かもじんじや

[現在地名]上下町有福 宮の谷

有福ありふくの中心部から東隣の小堀こおりに向かう道の途中を北に少し入った地にあり、祭神は鴨別雷神・素盞嗚命・菅原道真霊など。旧村社。

社伝によれば慶雲四年(七〇七、和銅二年とも)創建というが、有福を中心とした付近の地は、平安時代末期には京都の賀茂別雷かもわけいかずち神社(現京都市北区)の荘園で、有福庄とよばれていた。賀茂神社はその荘園鎮守社として勧請されたものと思われる。


賀茂神社
かもじんじや

[現在地名]世羅町賀茂 宮谷

賀茂盆地のほぼ中央、芦田あしだ川の南にあるみや山山麓に位置する。祭神は仲哀天皇・神功皇后・応神天皇など一三柱。旧村社。社伝によれば、貞観元年(八五九)宇佐神宮(現大分県宇佐市)から山城国おとこ(現京都府八幡市)に八幡宮を勧請したとき、賀茂村の長藤原清文が御調みつぎ長井ながい(現三原市)に出迎え、村民の安穏守護を願って祠を建て、宮迫みやさこ八幡宮と称したという。


賀茂神社
かもじんじや

[現在地名]畑野町栗野江

栗野江くりのえ集落の西のはずれにある。祭神別雷神・御祖大神。伝えでは天仁二年(一一〇九)に流された従四位上加茂次郎源義綱の創建とされるが、縁起類では永徳元年(一三八一)の創建とある。島内には現在同名の社は見当らない。郡境の定めとして加茂郡・雑太さわた郡の境界上に置かれたとする縁起もある。社伝によると、中世末まで現在地より約四〇〇メートル南の字西畑にしばたにあった別雷命を祀る小祠と、現在地にあった玉依姫命を祀る金立かなたつ神社を京都下賀茂の御祖みおや神社にみたて、この地に遷し合せたとある。


賀茂神社
かもじんじや

[現在地名]中山町羽田井

向田むこうだに鎮座する。旧村社。もとは現社地の南方約四町ほどのみやたにに鎮座していたと伝えるが、遷座の時期は不明(賀茂神社由緒)。祭神は建角身命・倉稲魂命・大山祇命。明和四年(一七六七)の八橋郡神社改帳(県立博物館蔵)には「賀茂大明神、祭礼九月一九日、社地三拾六間ニ四拾四間、社一間四方柿葺」と記され、石鳥居や舞殿などもあった。文久二年(一八六二)の八橋郡村々諸事書上帳(峰地家文書)では羽田井はたい村の産土神とされ、勧請の次第は不分明とあるが、当地の土豪羽田氏がかねて崇敬していた山城国の賀茂御祖大神を霊夢によって勧請したという(前掲由緒)


賀茂神社
かもじんじや

[現在地名]岩国市大字柱島

はしら島本島の南東岸、妙見みようけん山に鎮座。「神社明細書」によれば、祭神は倭伊波礼毘古命と多多良五十鈴比売命。旧村社。

由緒は記録焼失して不明というが、平安末期より鎌倉時代にかけて島が賀茂別雷かもわけいかずち神社(現京都市北区の上賀茂神社)の神領であった名残であろう。「玖珂郡志」は加茂大明神として、「勧請治承元年、平判官康頼・丹波少将成経ト申伝、再興年月未詳」と記し、元和四年(一六一八)、寛永一三年(一六三六)、万治二年(一六五九)などに修復のあったことを記す。また「九月九日祭之、産生神也、神田三畝、御供田、牛モ入レズコヤシモ不入、男計ニ植サスル也、夫ヲシトギニシテ御供ニスル也」とも記す。


賀茂神社
かもじんじや

[現在地名]阿波町 新開

旧郷社。主祭神は天穂日命・瓊瓊杵尊・意富加牟積尊。「阿波志」に「鴨祠 中野村にあり」「別雷祠 朽田村にあり。旧中野村にあり。貞享元年ここに移す」とある。この別雷祠は現阿波町伊勢いせの扇状台地上にある古賀茂神社で、祭神は別雷神・瓊瓊杵尊、天正年間(一五七三―九二)に豪族川人氏が京都上賀茂社の分霊を勧請したと伝える。


賀茂神社
かもじんじや

[現在地名]柳井市大字伊保庄 近長

祭神は玉依姫命・別雷命・三毛入野命。旧郷社。

「注進案」によれば、寛治元年(一〇八七)に山城国下鴨しもがも(現京都市左京区)から勧請、祀ったのに始まると伝える。享徳元年(一四五二)大内氏から神田を寄進された。永禄六年(一五六三)八月、小早川隆景・小河与三右衛門・児玉内蔵之丞就方によって社殿に神像三体が安置された(注進案)。毛利氏が八ヵ国を領した時代に、改めて神田一町三反余と定められた。


賀茂神社
かもじんじや

[現在地名]福山市大門町野々浜

野々浜ののはまの北部丘陵上にある。祭神は加茂建角身命・玉依姫命・別雷神。かつて当地は石川いしかわ村と称していたものか、正月に出していた牛王の守符の板木に「備中坪生庄南方石川村鴨大明神常住也、永享十一年己未正月五日執事後藤左京進基家作者同高季」と彫付けてある(西備名区)

室町時代以前からあった大社とされ、山下の一町ばかり隔てた所にかつて鳥居の立っていた鳥井田とよばれるところがある。


賀茂神社
かもじんじや

[現在地名]光市大字三井 今桝

建角身命・神倭磐余彦尊・別雷命・玉依姫命を祀る。旧村社。三井村の総氏神である。

「注進案」によれば、弘仁二年(八一一)山城の賀茂社よりの勧請と伝える。貞治六年(一三六七)に寄進された朝鮮鐘の追銘に「三井村賀茂霊祠」とみえる古社である。また同書所収の明応二年(一四九三)の文書によれば、賀茂大明神宮社司職に助四郎なる者が補任されている。

文明一七年(一四八五)書写の大般若経六〇〇巻があり、同年一二月一三日の「賀茂大明神大般若村経御人数事」という文書を「注進案」は載せる。


賀茂神社
かもじんじや

[現在地名]木曾川町玉ノ井 穴太部

祭神は賀茂御祖神・別雷神。例祭は八月二二日で玉野井たまのい村のみでなく近隣の村々から獅子舞・馬の塔・笹踊などのほか、練物を出す。南北朝時代の鬼神面のほか、室町時代の能面・古鏡、さらに玉井四郎助重の寄進と伝える鎌倉時代の紫糸縅胴丸甲冑一領や、天正二年(一五七四)の銘のある神鈴などが伝えられている。神社の古神門は、鎌倉時代の作と伝え「尾張名所図会」にも「古桟門、こは殊に古代の物にて云々」と記している。


賀茂神社
かもじんじや

[現在地名]竹原市東野町 中条

賀茂川の支流柏野かいの川北側の山際に鎮座。祭神賀茂別雷神・八幡三神ほか。旧村社。寛治四年(一〇九〇)京都下鴨社へ寄進された竹原庄の荘園鎮守社として勧請された社と思われるが、竹原庄が竹原小早川氏の領知するところとなるに及び、その崇敬を受けたと伝える。「国郡志下調書出帳」には長享二年(一四八八)小早川弘景再興の棟札写があると記す。竹原小早川仲義の時代までは社領米一五〇石があったともあり、祭礼については「卯月十二日当時九月八日九日祭ル、別当大福寺、社人并当村・西野村・仁賀三ケ村立会競馬有之」という。


賀茂神社
かもじんじや

[現在地名]岡谷市加茂町

小井川おいかわ村字金山かなやまに鎮座している。祭神は別雷神・誉田別命で、往古は五穀豊穣や災害除けに神徳があると崇敬された。両社御造栄領御神領等帳には諏訪社下社の末社として「小井河鎮守」の名がある。明和元年(一七六四)より天王祝藤原信嗣が年々追録した「小社神号記」(平野村誌)には「賀茂大明神往古小社也。


賀茂神社
かもじんじや

[現在地名]丸山町加茂

国道一二八号西側の丘陵先端に鎮座し、南にかつての別当寺日運にちうん寺がある。祭神は別雷神ほか。旧村社。文久元年(一八六一)日運寺住持日翁が著した「賀茂社略縁起」によれば、和銅五年(七一二)の創立という。その後の推移は不明。慶長一一年(一六〇六)の里見家分限帳によると社領三石を有し、幕末まで保持した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「賀茂神社」の意味・わかりやすい解説

賀茂神社
かもじんじゃ

京都市の賀茂別雷(わけいかずち)神社(上賀茂神社)、賀茂御祖(みおや)神社(下鴨(しもがも)神社)、またその祭神を各地に勧請(かんじょう)した神社のこと。上賀茂社・下鴨社は古くより朝廷の崇敬を受け、ことに桓武(かんむ)天皇の平安遷都後、伊勢(いせ)の神宮に次ぐ所遇を受けたため、その社に対する崇敬は広く庶民に及び、全国に勧請された。上賀茂社は京都市北区上賀茂本山(もとやま)に鎮座し、賀茂別雷神を祀(まつ)り、下鴨社は京都市左京区下鴨泉川町に鎮座し、賀茂皇大神(すめおおかみ)、玉依媛命(たまよりひめのみこと)、賀茂建角身命(たけつのみのみこと)を祀る。玉依媛命は賀茂建角身命の娘で、賀茂別雷神の母にあたる。

[鎌田純一]

沿革

両社の創建年代は不詳。社伝によれば、上賀茂社は神武(じんむ)天皇の代、現在地の北北西神山(こうやま)に降臨、下鴨社は同じく神武天皇の代、比叡山(ひえいざん)の西麓(せいろく)御蔭(みかげ)山に降臨、それぞれ奉斎されていたが、ともに天武(てんむ)天皇6年(677)に現在地に社殿を造営されたという。古く奈良以前より両社をあわせて賀茂社といい、一社ごとのときは、鎮座地の関係で、上賀茂社(上社、賀茂上社)、下鴨社(下社、賀茂下社)と呼称した。702年(大宝2)賀茂祭がすでに盛大になされていたことが『続日本紀(しょくにほんぎ)』により知られる。726年(神亀3)朝廷より初めて奉幣、745年(天平17)聖武(しょうむ)天皇の不予に奉幣祈祷(きとう)され、784年(延暦3)長岡京への遷都にあたって、使者を派遣し奉告、奉幣、従(じゅ)二位に叙し、社殿を造営、翌年上下両社へ神封各10戸を寄せている。794年(延暦13)桓武天皇は平安遷都ののち、本社へ行幸、以後、皇城鎮護の神として厚く崇敬され、807年(大同2)正一位となる。嵯峨(さが)天皇は810年(弘仁1)伊勢神宮の斎宮(さいくう)の制に倣って賀茂斎院の制を始め、皇女有智子(うちし)内親王を斎王とし、以後後鳥羽(ごとば)天皇の代まで続けられた。延喜(えんぎ)の制で名神(みょうじん)大社に列し、月次(つきなみ)・相嘗(あいなめ)・新嘗(にいなめ)などの奉幣にあずかり、ほか祈雨(きう)・止雨(しう)などの奉幣も受けた。このころ、21年に一度の式年遷宮の制も定められ、1090年(寛治4)堀河(ほりかわ)天皇は上下両社に不輸租田各600余町を奉献された。また二十二社の制が整うとともに、上下社一体としてその一社とされ、山城(やましろ)国一宮(いちのみや)ともされた。中世に至り源頼朝(よりとも)はその社領を安堵(あんど)、後鳥羽上皇はしばしば祈願して、承久(じょうきゅう)の変(1221)にはその社家は院側につくようなこともあったが、朝野の崇敬は変わらず、ことに庶民崇敬が全国に広がった。

 豊臣(とよとみ)秀吉は全国統一ののち、社領を没収、かわりに上社に2572石、下社に540石余の朱印領を寄せ、江戸幕府もおよそこれを継承した。明治の制で、それぞれ官幣大社とされ、全国官国幣社の首位に置かれたのは、古来伊勢の神宮に次いで皇室の厚い所遇を受け、皇族の参詣(さんけい)、摂関の賀茂詣(もう)で、武家の社参、また庶民の信仰、歴史を通じ変わらぬところのあったためである。

[鎌田純一]

祭礼・社殿

例祭(5月15日)は、『賀茂縁起』に欽明(きんめい)天皇の代、風雨順ならず、よって祈願し天下豊平となったことに発するともいわれる。平安初期以来、勅祭とされ、賀茂祭(まつり)と称したが、一名を葵祭(あおいまつり)といわれるのは、古く勅使以下祭儀に加わる者が葵鬘(あおいかずら)の蔓(つる)をかけたことによる。この葵祭は1467年(応仁1)より1693年(元禄6)までとだえ、明治初年にも一時廃止されたが、現在によくその旧儀を伝えている。祭りの次第は、5月12日の上社の御阿礼(みあれ)神事、下社の御蔭(みかげ)祭に始まり、15日に京都御所より勅使が出発、下鴨社に参向、祭儀ののち上賀茂社に参向し、祭儀が厳修される。三勅祭の一つ。また上賀茂社の5月5日の競馬会(けいばえ)神事は1093年(寛治7)の「くらべうま」以来の神事であり、当社の特殊神事には神道祭祀(さいし)の根源を残したものが多い。

 上賀茂社の本殿、権殿(ごんでん)は1863年(文久3)の建造であるが古式を残して国宝に、下鴨社の東本殿、西本殿も同年の再建で、流造(ながれづくり)の代表建築で国宝に指定されている。両社境内とも史跡指定。上賀茂社には国学者今井似閑(じかん)の奉納書を中心とする三手(みて)文庫がある。

[鎌田純一]

賀茂神社領

上賀茂・下鴨両社の社領。封戸(ふこ)の寄進は孝徳(こうとく)朝にさかのぼると思われるが、史料的に明らかなものとしては、785年(延暦4)上下社に各10戸を寄進したとするのが早く、806年(大同1)の文書によれば当時上社24戸、下社20戸が存在していた。942年(天慶5)には、東西反乱(平将門(まさかど)・藤原純友(すみとも)の乱)平定を謝して奉幣があり、また朱雀(すざく)天皇が初めて賀茂社に行幸することがあって、上下社に各10戸が寄進された。この後も封戸(ふこ)若干の寄進があった。このほか平安末期までには、上社70余戸、下社20余戸の神戸(かんべ)が形成されていた。神田については、750年(天平勝宝2)上下社に各1町、848年(承和15)までにはさらに各1町が寄進され、この後も小規模な寄進があった。1017年(寛仁1)の後一条天皇の行幸にかけて、愛宕(おたぎ)一郡を神郡として寄進した(賀茂・錦部(にしごり)・小野・大野4郷が上社領、蓼倉(たでくら)・栗野(くるすの)・上粟田(かみあわた)・出雲(いずも)4郷が下社領)。ただし、郡内には他の所領が入り交じっていたため、とくに延暦寺(えんりゃくじ)などとの間で紛争が絶えなかった。1090年(寛治4)、白河院政期、夢想の告によって上下社に不輸租田各600余町と御厨が寄進された。後の阿波(あわ)国三津荘(しょう)、若狭(わかさ)国宮河(みやかわ)荘、加賀国金津(かなつ)荘、美作(みまさか)国河内(こうち)荘、淡路国生穂(なまいほ)荘、安芸国竹原荘、土佐国津野荘などがその一部であるが、御厨、不輸租田を含め、瀬戸内海沿岸、北陸道、山陰道の沿岸、琵琶(びわ)湖周辺、尾張(おわり)・美濃(みの)の大河川流域などに多いことが明らかで、海上交通、舟運、漁労に従事した神人(じにん)の組織化と賀茂社領の形成に密接な関係があったことを物語っている。鎌倉期に入って、源頼朝(よりとも)の所領寄進などもあり、保護が加えられた。江戸時代には、上社2752石、下社540石が認められた。

[棚橋光男]

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百科事典マイペディア 「賀茂神社」の意味・わかりやすい解説

賀茂神社【かもじんじゃ】

京都市,賀茂別雷(わけいかずち)神社(上社)と賀茂御祖(みおや)神社(下社)の総称。
→関連項目選子内親王流造

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旺文社日本史事典 三訂版 「賀茂神社」の解説

賀茂神社
かもじんじゃ

京都市北区上賀茂本山町にある賀茂別雷 (わけいかずち) 神社(上社)と,左京区下鴨泉川町にある賀茂御祖 (みおや) 神社(下社)の総称
上社は賀茂別雷,下社は玉依姫 (たまよりひめ) を祭る。本来は賀茂氏の氏神。平安遷都以来,平安京鎮護の神として宮廷の信仰厚く,9世紀以降,未婚の皇女が斎院として奉仕した。「葵 (あおい) 祭」といわれる例祭の賀茂祭や競馬 (くらべうま) で有名。下社本殿は流造 (ながれづくり) といわれ,神社建築史上貴重である。

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改訂新版 世界大百科事典 「賀茂神社」の意味・わかりやすい解説

賀茂神社 (かもじんじゃ)

京都市にある賀茂御祖(みおや)神社(下鴨神社)と賀茂別雷(わけいかずち)神社(上賀茂神社)の両社の総称。両社は賀茂川に沿って約3kmほど離れて鎮座する。
賀茂御祖神社 →賀茂別雷神社

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「賀茂神社」の意味・わかりやすい解説

賀茂神社
かもじんじゃ

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デジタル大辞泉プラス 「賀茂神社」の解説

賀茂神社

宮城県仙台市にある神社。祭神は玉依姫命(たまよりひめのみこと)(下賀茂神社)、別雷命(わけいかずちのみこと)(上賀茂神社)。本殿などは県の重要文化財に指定。

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事典・日本の観光資源 「賀茂神社」の解説

賀茂神社

(宮城県仙台市泉区)
杜の都 わがまち緑の名所100選」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の賀茂神社の言及

【供祭人】より

…山城(京都府)の賀茂神社(上賀茂・下鴨両社)が各地に領有した御厨(みくりや)の住民で,漁猟に従事し,供祭物(神前への供物)としての魚類の貢進を任とした人々。1090年(寛治4)白河上皇が賀茂両社にそれぞれ不輸田600余町を寄進するとともに,御厨を諸国に分置したが,それ以前からのものも含め,両社は琵琶湖岸や瀬戸内海周辺に多くの御厨を領有した。…

【斎院】より

…賀茂神社に奉仕する未婚の皇女もしくは王女。斎王(さいおう∥いつきのみこ),賀茂斎院ともいう。…

※「賀茂神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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