加茂(読み)カモ

デジタル大辞泉 「加茂」の意味・読み・例文・類語

かも【加茂】[地名]

新潟県中部の市。信濃川支流の加茂川の市場町として発展。加茂縞・きりたんすを特産。金属加工繊維工業も盛ん。人口3.0万(2010)。
京都府木津川市の地名。天平12年(740)恭仁くにの置かれた地。和同開珎わどうかいちん鋳造の鋳銭司ちゅうせんし跡や山城国分寺跡がある。襖紙を特産。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「加茂」の意味・読み・例文・類語

かも【加茂】

  1. [ 一 ] 新潟県中央部信濃川支流の加茂川に沿う地名。江戸初期から市場町として発展。昭和二九年(一九五四)市制。
  2. [ 二 ] 岐阜県の南東部の郡。木曾川の支流飛騨川の中・下流域にある。古くは加毛・賀茂とも書いた。

かも【加茂・賀茂・鴨】

  1. 姓氏の一つ。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「加茂」の解説

加茂
かも

現加茂地域にあった国衙領。賀茂とも記し、平安期の周吉すき郡賀茂郷が再編成され生れたものと考えられる。寛元四年(一二四六)九月一日の都万院四至境記写(天健金草神社文書)に加茂とみえ、都万つま(現都万村)は東側で加茂と境を接しており、境相論が行われていたものと思われる。徳治元年(一三〇六)三月一四日には西郷公文の久尊が「かも」のうち五分一を占めるという「いまつ村」の境についての裁定を下している(「久尊書下写」隠岐国代考証)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「加茂」の意味・わかりやすい解説

加茂(京都府)
かも

京都府南端、相楽郡(そうらくぐん)にあった旧町名(加茂町(ちょう))。現在は木津川市(きづがわし)の東部を占める一地区。南は奈良県に接する。1928年(昭和3)町制施行。1951年加茂町は当尾(とうのお)、瓶原(みかのはら)の2村を編入。2007年(平成19)木津、山城(やましろ)の2町と合併し、市制施行して木津川市となる。低い山地に囲まれているが、木津川と支流の和束(わつか)川とが合流する地点には平地が開ける。木津川南岸をJR関西本線、北岸を国道163号が走る。木津川北岸の瓶原には、740年(天平12)に聖武(しょうむ)天皇が平城京からの遷都を図って恭仁京(くにきょう)を開いたが、4年ほどで廃都となり、大極殿跡に山城(背)国(やましろのくに)国分寺が置かれた。金堂と塔の礎石が残り国史跡に指定されている。恭仁京跡東方の銭司(ぜず)は、古代の銭貨である和同開珎(わどうかいちん)が鋳造された所で、近年るつぼや和同銭が発掘された。奈良県境近くには行基(ぎょうき)創建と伝える岩船寺(がんせんじ)や、平安後期の建築の本堂、三重塔(ともに国宝)や、特別名勝・史跡の庭園を残す浄瑠璃寺(じょうるりじ)があり、付近の石仏巡りを兼ね、観光客も多い。また国宝の五重塔をもつ海住山(かいじゅうせん)寺がある。壁紙や襖(ふすま)紙を特産する。

織田武雄

『『加茂町史』(1988~ )』



加茂(島根県)
かも

島根県中東部、大原郡にあった旧町名(加茂町(まち))。現在は雲南市(うんなんし)の中北部を占める地区。旧加茂町は1929年(昭和4)町制施行、1934年神原(かんばら)、屋裏(やうち)の2村と合併。2004年(平成16)大東(だいとう)町、木次(きすき)町、三刀屋(みとや)町、掛合(かけや)町、吉田(よしだ)村と合併、雲南市となる。旧町域は、斐伊(ひい)川支流の赤川河谷に発達した盆地にあり、JR木次線と国道54号が縦貫し、松江自動車道の三刀屋木次インターチェンジが近い。斐伊川は堆積(たいせき)作用が著しく天井川となり、河床の低い赤川に逆流して湖沼状をなした。市街地は江戸中期まで沼地で、しばしば水害にみまわれた。近年でも1960年代に3回も被害を受けている。町屋は堤防により保護され輪中(わじゅう)集落のようになっている。江戸時代はワタの栽培が盛んで木綿市が開かれにぎわった。低山性地形を利用し養蚕も盛んであったが、近年は水稲を中心にシイタケやブドウの栽培、茶園開発などが行われ、兼業農家が多く、松江、出雲(いずも)両市への通勤者が増えている。古くから村落が発達したため、古代の遺跡も多く、神原神社古墳(かんばらじんじゃこふん)(「景初(けいしょ)三年」銘の三角縁神獣鏡などの出土品は国指定重要文化財)、国指定史跡の加茂岩倉遺跡(出土した銅鐸(どうたく)は国指定重要文化財)、国指定重要文化財の銅鐘がある光明寺などがある。

[小松 聰]



加茂(市)
かも

新潟県中北部、東山丘陵の西麓(せいろく)にある市。1954年(昭和29)加茂町が下条(げじょう)村を編入して市制施行。同年七谷村、1955年須田(すだ)村を編入。JR信越本線が通じる。国道は290号、403号が走る。古くは信濃(しなの)川支流の加茂川谷口の市場町として発生し、京都の賀茂(かも)社の地形に似たところからおきた地名という。延喜(えんぎ)式内社青海神社(おうみじんじゃ)があり、古代の青海首(おびと)の総鎮守であったといわれ、社叢(しゃそう)は県木ユキツバキの群生する加茂山公園になっている。

 日本一を誇る桐だんすは近世からの名産で、建具、加茂紙を加工した渋(しぶ)紙・傘・屏風(びょうぶ)のほか、加茂縞(じま)などの家内工業も盛んであった。現在も木工、家具、金属製品、繊維、電気器具などの工業が盛んで、三条、燕(つばめ)と並んで県下の金属工業地帯をなしている。また、北部の丘陵麓は陣ヶ峰瓦(かわら)や土管の産地として知られ、南部の下条地区は名産ゴヨウマツ(五葉松)の植木村として有名であった。面積133.72平方キロメートル、人口2万5441(2020)。

[山崎久雄]

『『加茂市史』上下(1975・加茂市)』『『加茂市の歴史年表』(1967・加茂市)』



加茂(岡山県)
かも

岡山県北部、苫田郡(とまたぐん)にあった旧町名(加茂町(ちょう))。現在は津山市の北部を占める地域。中国山地に位置し、吉井川支流の加茂川流域にある。旧加茂町は、1924年(大正13)町制施行。1942年(昭和17)東加茂、西加茂の2村、1954年新加茂町、上加茂村と合併。2005年(平成17)津山市に編入。谷底に水田があるが、積雪の多い寒冷地で、むしろ林業の盛んな地域といえる。中世の青柳荘(しょう)、美和荘、賀茂荘、知和荘の地で、近世には津山市の綾部(あやべ)まで通じていた加茂川舟運によって物資は運ばれ、木材の筏(いかだ)流しもみられた。JR因美(いんび)線が通じ、これに並行する主要地方道が鳥取県境を越えている。加茂川支流倉見川には多目的の黒木ダムがある。

[由比浜省吾]

『『加茂町史』(1975・加茂町)』


加茂(山形県)
かも

山形県北西部、鶴岡市(つるおかし)の日本海に臨む地区。旧加茂町。中世以来庄内(しょうない)地方では酒田港に次ぐ商港として、また庄内藩の外港として発展し、避難港の役割も果たした。大正時代の羽越線開通後は沿岸漁業の港町となった。加茂港近くの荒崎に加茂水族館がある。国道112号が通じる。

[編集部]


加茂(千葉県)
かも

千葉県中部、市原市の一地区。旧加茂村。養老(ようろう)川上流域を占め、上総(かずさ)丘陵中に展開する農山村であり、養老渓谷入口に養老温泉がわく。養老川の支流黒川を刻む梅ヶ瀬渓谷はハイキングの適地で、近くの大福山自然林は県指定天然記念物。

[山村順次]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「加茂」の意味・わかりやすい解説

加茂[市] (かも)

新潟県中央部,東山丘陵をきる信濃川の支流加茂川の流域に位置する市。1954年市制。同年下条村,七谷村を,55年須田村を編入。人口2万9762(2010)。古くから加茂川の谷口集落として発展し,江戸時代は在郷町であった。第2次大戦後,木工,和紙,織物などの伝統産業のほかに,戦前疎開工場として立地した電気器具,金属や皮革,メリヤス製造が加わり,木工団地も生まれた。北部の陣ヶ峯では窯業(瓦,土管)が行われ,西部の保内(ほない)は植木を特産する。市街地に接する加茂山公園には青海(おうみ)神社が鎮座し,公園内のユキツバキの群落は有名である。1967年加茂川の洪水で大きな被害を受けた。信越本線が通る。
執筆者:

もとこの地域は青海荘といい,式内社青海神社2座がある。桓武天皇が山城国賀茂両社領を諸国に分散し,分霊を配祀した時,当地にも遷祀されたと伝える。1090年(寛治4)堀河天皇が賀茂両社供御田として石河荘(加茂市)公田40町歩を寄進した。これらよりおのずから賀茂と呼ばれるようになった(地名の初出は1355年(正平10・文和4))。石河荘は室町時代まで賀茂社領であったが,1471年(文明3)ころは上杉氏が支配した。加茂は1598年(慶長3)から新発田藩領,1789年(寛政1)から幕府直轄領,1847年(弘化4)から桑名藩預地となり明治維新を迎えた。町の萌芽は1595年(文禄4)には見られるが,1660年(万治3)町割直しが行われ,4・9の六斎市(現在も盛んである)や馬市も立ち,近郷流通の中心として繁栄した。特に七谷郷の紙は加茂商人によって集荷されたので,加茂紙とも称された。幕末期の特産品に元結,水引,戸障子,瀬戸があり,明治以後は紙製品,木工品(桐だんす,建具など),織物(加茂縞)の町として発展した。
執筆者:


加茂(京都) (かも)


加茂(岡山) (かも)


加茂(島根) (かも)

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「加茂」の意味・わかりやすい解説

加茂
かも

京都府南端部,木津川市東部の旧町域。木津川の両岸にまたがり,南は奈良市に接する。 1928年町制。 1951年当尾村,瓶原村を編入。 2007年木津町,山城町と合体して木津川市となった。地名は,古代豪族の賀茂氏に由来する。主産業は農業で,米のほかカキ (柿) ,茶などを特産。木津川北岸は奈良時代に聖武天皇恭仁京が置かれたところ。恭仁宮跡 (国指定史跡) ,和同開珎の鋳造地跡である銭司 (ぜず) もあり,一時期政治の中心地であった。海住山寺,室町時代につくられた三重塔などの国指定重要文化財で名高い岩船寺,浄瑠璃寺の名刹がある。海住山寺の五重塔,浄瑠璃寺の本堂,三重塔,9体の阿弥陀如来坐像,四天王立像は国宝に指定。浄瑠璃寺庭園は国の特別名勝・史跡に指定されている。

加茂
かも

島根県東部,雲南市北部の旧町域。斐伊川の支流赤川のつくる小盆地にある。 1934年町制。 2004年大東町,木次町,三刀屋町,吉田村,掛合町の5町村と合体して雲南市となった。『和名抄』の屋裏郷。米作のほかブドウ栽培,ビニルハウスによる野菜栽培も行なわれる農業地域。近年は松江市方面への通勤者も多い。景初3 (239) 年銘の銅鏡が出土した神原神社古墳に続いて,1996年岩倉地区で青銅製の銅鐸 39個が出土。一つの遺跡から見つかった銅鐸の数としては最多を記録し,加茂岩倉遺跡と名づけられた。

加茂
かも

岡山県北東部,津山市北部にある旧町域。中国山地南斜面にある。 1924年町制。 1954年新加茂町,上加茂村と合体。 2005年津山市に編入。中心集落の中原は吉井川の支流加茂川と倉見川の合流する地点の谷口集落として発達し,かつて砂鉄産地,木地屋集落を控えた市場町であった。近世にはこの一帯からたびたび百姓一揆が津山に押し寄せたため,「強訴谷」ともいわれた。中国山地を利用して放牧が行なわれ,加茂牛として出荷される。林業も盛んで桑原に製材所,材木商が多い。倉見川上流に多目的ダムの黒木ダムがある。北部は氷ノ山後山那岐山国定公園に属する。

加茂
かも

山形県北西部,日本海に面した鶴岡市の港町。旧町名。 1955年鶴岡市に編入。帆船時代鶴岡への物資荷揚げ港として繁栄。現在は底引網漁業の基地で,水産試験場,水族館がある。加茂台地上の高館山からは庄内平野が一望に開け,遠く鳥海山が眺められる。近くに湯野浜温泉があり,観光客とともに湯治客も多い。海水浴および釣りの名所。庄内海浜県立自然公園の中心をなす。

加茂
かも

広島県南東部,福山市の一地区。旧町名。 1975年福山市に編入。市域北東部を占め,地区の大部分は芦田川の支流加茂川流域に開ける農村。弱電機などの工業もあるが,おもに福山市街地への通勤圏となっている。北部に竜頭峡,猿鳴峡があり,付近は山野峡県立自然公園に属する。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「加茂」の意味・わかりやすい解説

加茂【かも】

広島県東部,深安郡の旧町。北部は吉備(きび)高原の山地で,南に芦田(あしだ)川の沖積平地が開ける。米,ハッカ,桃を多産し,伝統の備後絣(びんごがすり)などの織物工業も盛ん。北部の姫谷は姫谷焼を産した地。1975年福山市に編入。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

今日のキーワード

ゲリラ豪雨

突発的に発生し、局地的に限られた地域に降る激しい豪雨のこと。長くても1時間程度しか続かず、豪雨の降る範囲は広くても10キロメートル四方くらいと狭い局地的大雨。このため、前線や低気圧、台風などに伴う集中...

ゲリラ豪雨の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android