日本歴史地名大系 「舛館村」の解説
舛館村
ますたてむら
田圃を隔てて北に
寛文年間(一六六一―七三)の開村という(西津軽郡史)。天和三年(一六八三)の広須御新田所図に「舛館」とある。「平山日記」「新撰陸奥国誌」は升館村とあり、升と舛の字は混同して使用されている。享保一二年(一七二七)広須組に属し、広須通二三ヵ村の一つで村位は下とある(平山日記)。元文元年(一七三六)の検地帳によれば、田畑屋敷合せて一八町六反七畝歩、村高一二四・二二二石であった。うち田方は一八町一反四畝四歩で一二二・八八七石、上田から下々田まで設定され、下田が六町三反七畝歩、四四・五九石、下々田が七町六反五畝二歩、三八・二五三石とあり、畑方は中畑と下々畑のみで、屋敷地を含めて五反二畝二六歩、一・三三五石とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報