荒川詮頼(読み)あらかわ・あきより

朝日日本歴史人物事典 「荒川詮頼」の解説

荒川詮頼

生年:生没年不詳
南北朝時代の武将。父は頼直。三河守,遠江守,のち弾正少弼。足利一門の末流。正慶2/元弘3(1333)年足利尊氏の東上に従って各地に転戦。その功により建武4/延元2(1337)年ごろ丹後国守護に任ぜられたが,尊氏・直義兄弟が争った観応の擾乱では父と共に直義方として活動。直義の死後は幕府に帰順し,文和1/正平7(1352)年,直冬(直義の養子)党追討のため石見国守護として下向。しかし,益田兼忠,周布兼氏などの有力国人が直冬方につき,また貞治3/正平19年幕府に帰参した大内・山名両氏が石見への介入を強めたため,同年罷免されて帰京。山名時義,次いで大内弘世がこれに代わった。詮頼は管領細川頼之に愁訴して還補を求め,永和2/天授2(1376)年再び守護として石見に下国,分国掌握を再開した。しかし,康暦1/天授5年頼之の失脚に伴い罷免,以後の消息は不明。<参考文献>小川信『足利一門守護発達史の研究

(井上寛司)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「荒川詮頼」の解説

荒川詮頼 あらかわ-のりより

?-? 南北朝時代の武将。
足利一門の末流。建武(けんむ)4=延元2年(1337)新田義貞がこもる越前(えちぜん)(福井県)金崎(かねがさき)城への足利軍による攻撃にくわわる。足利家の内紛では足利直義(ただよし)につくが,直義死後は尊氏にしたがう。丹後守護,石見(いわみ)守護をつとめた。名は「あきより」ともよむ。

荒川詮頼 あらかわ-あきより

あらかわ-のりより

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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