初期室町幕府の執政者,武将。足利尊氏の弟。父貞氏,母は尊氏と同じ上杉頼重の女清子。兵部大輔,左馬頭を経て相模守,左兵衛督となり,住宅のあった京都の地名から三条殿,錦小路禅門などと呼ばれた。元弘の乱当時にはすでに壮年に達していたが,鎌倉幕府の中枢に登用された形跡はない。1333年(元弘3)尊氏とともに北条氏に反旗を掲げ六波羅を攻撃した。建武政府成立後まもない同年12月,成良親王を奉じて鎌倉に入り関東10ヵ国を管領したが,これは新政府内で冷遇されていた足利氏にとって有力な地域的拠点となった。中先代の乱で政敵護良親王を殺害し,後世直義逆臣論の原因をつくる。その後36年(延元1・建武3)の幕府成立まで,関東,畿内,九州とあわただしく転戦するが,つねに軍馬を並べていた尊氏・直義兄弟にとって,あるいはもっとも幸せな時期であったかもしれない。幕府発足にあたって制定された建武式目は,政権所在地としての鎌倉への強い執着や北条義時・泰時を範とする政治理念など,直義政道の色が濃いが,後醍醐天皇を〈謀反の人〉と決めつけている点は,一貫して対後醍醐強硬論者であった直義の姿勢を示すものであり,これが天皇の京都脱出を早めたといわれている。
発足後の幕府は,軍事指揮権,恩賞権を掌握する尊氏と,民事裁判権,所領安堵権など日常政務を管轄する直義の二頭政治体制をとり,官制上も侍所,恩賞方,政所などが前者に,引付(内談)方,安堵方などが後者の系列に属した。中世武家政権に通有の現象である主従制的支配と統治権的支配の分裂がもっとも露骨に表面化した政治形態であるが,親密な同母兄弟であり,しかも豪放磊落武将タイプの尊氏と理知的で頑迷なほど信念に忠実な直義という対照的な2人の個性がそれぞれの役割に適合したため,幕政はしばらく順調であった。直義は当時の華美で破格を好む〈ばさら〉風俗に強い嫌悪感をもち,所領政策上も法や証文を重視し,鎌倉以来の伝統的な権利体系を尊重したため,貴族や寺社,さらに豪族的な武士団からは歓迎されたが,反面実力によって新しい秩序をつくり出そうとする,主として畿内周辺の新興武士団などからの反発をうけた。そのような反直義派の頂点にあった高師直(こうのもろなお)との対立はしだいに表面化し,49年(正平4・貞和5)8月,師直のクーデタによって直義は政務から追われ,出家して恵源と名のった。しかし養子直冬の九州における活動をはじめ各地の直義党は健在で,早くも翌50年(正平5・観応1)直義は大和に挙兵し,南朝との講和,尊氏・師直の分離策などを成功させ,師直を殺して政務に復帰した。しかしそれも長つづきせず,翌年7月には北陸に走り再び両派の戦闘が始まり,直義は敗れて鎌倉で死んだ。尊氏による毒殺説が当時から流布していた。
→観応の擾乱(じょうらん)
執筆者:笠松 宏至
直義の人間像の片鱗は《太平記》の記述にうかがえる。たとえば,1336年2月の筑前多々良浜の戦のとき,開戦を前にして衆寡敵せずと断念しかけた兄尊氏にむかって,漢の高祖が項羽の大軍を破った故事や源頼朝が一敗地にまみれても再起して平氏を滅ぼした先例をあげて尊氏を激励し先陣に立った挿話は,その剛直さを印象づける(巻十六)。また,兄と不和になり,虜囚の身となって死に臨むくだりでは〈今は憂世(うきよ)の中にながらへても,よしや命も何かはせんと思ふべき,我身さへ無用(ようなき)物に歎(なげき)給ひけるが……〉と,その失望落胆ぶりを物語る(巻三十)。《太平記》では,直義は政道を心にかけて仁義もよくわきまえた人だったはずなのに,尊氏の悪事,本人の悪事ゆえにけっきょくは自滅に追い込まれたものか,と評しており,その後における直義の人物評価に深い影響をおよぼした。
執筆者:横井 清
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南北朝時代の武将。尊氏(たかうじ)の同母弟。三条殿、錦(にしき)小路殿と称せられた。元弘(げんこう)の変には尊氏とともに活動し、建武政府成立後左馬頭(さまのかみ)、相模守(さがみのかみ)に任じられ、1333年(元弘3・正慶2)成良親王の執事として関東10か国を管轄(かんかつ)した。1335年(建武2)の中先代(なかせんだい)の乱では護良親王を殺害し三河まで逃れたが、東下してきた尊氏と合流し北条時行(ときゆき)軍を破り鎌倉を回復、ついで西上入京したが敗退し九州に逃れた。1336年(延元1・建武3)東上し、尊氏とともに幕府を開いた。幕府創立当時尊氏は軍事面、直義は統治面を担当する二頭政治であったが、まもなく尊氏の権限は直義に委譲され、以後直義が表面にたち政治を行った。
直義は執権政治を理想として文治政治をとり、幕府機構の整備、法秩序の確立、仏教の興隆など、保守的な旧勢力保護の政策をとった。そのため、畿内(きない)近国の旧非御家人(ごけにん)や庄官(しょうかん)などの新興勢力の反発を買い、その代表ともいえる執事高師直(こうのもろなお)と対立した。以後直義派と師直派とは、政策の決定、中央官職や各国守護職などの任免をめぐって争い、1349年(正平4・貞和5)直義による実力行使となり、ついには観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)とよばれる室町幕府初期最大の内乱にまで発展した。師直を摂津武庫川(むこがわ)で殺した直義は尊氏と和解するが、1351年(正平6・観応2)7月直義は出京し北陸を経て鎌倉に入り、勢力の回復を目ざした。しかし東下してきた尊氏のため相模早河尻(はやかわじり)で敗れ、尊氏に降伏した。翌1352年2月26日鎌倉で没した。尊氏による毒殺といわれている。
[小要 博]
『佐藤進一著『日本の歴史 9』(1965・中央公論社)』▽『高柳光寿著『改稿 足利尊氏』(1966・春秋社)』
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1306~52.2.26
南北朝期の武将。父は貞氏。尊氏の同母弟。従三位左兵衛督。元弘の乱では尊氏とともに行動し,建武政権では成良(なりよし)親王を奉じて鎌倉に下り,関東の政務にあたる。中先代(なかせんだい)の乱で鎌倉から退却するが尊氏の来援で回復。以後,幕府の創始まで尊氏と同行。当初幕府の権限は尊氏が軍事指揮権を,直義が裁判などの政務を担当。直義の政策は鎌倉幕府執権政治の踏襲にあり,豪族的大領主層や寺社本所勢力には支持されたが,畿内周辺の新興武士団や足利氏根本被官を組織する高師直(こうのもろなお)との対立を招いた。1349年(貞和5・正平4)師直のクーデタに始まる抗争は尊氏との不和を生じ(観応の擾乱),直義は鎌倉にのがれたが,追撃する尊氏に敗れて降伏し,まもなく病没。尊氏による毒殺ともいう。
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…南朝が室町幕府に完全に圧倒されながらも,長く命脈を保ったのは,悪党・海賊的な武力を多少ともその基盤となしえたからにほかならない。一方,室町幕府でも,高師直(こうのもろなお)がこうした武士を組織したのに対し,足利直義は寺社本所の申請に応じ,守護を通じて悪党鎮圧を強行,幕府の方針は動揺をつづけた。しかし動乱の中で,悪党的な武士自身,守護の被官となり,国人一揆を形成するなど,しだいに組織化される一方,商工業者,金融業者として都市に定着するものも多く,悪党的な風潮は徐々に時代の表面から退いていく。…
…後醍醐天皇が帰京して建武新政が始まると,高氏は勲功第一として天皇尊治の一字を賜って尊氏と改名し,高い官位を与えられたが,政治の中枢には加えられなかった。〈尊氏ナシ〉の言葉がささやかれる中で,尊氏は中央機関の職員に家臣の高師直(こうのもろなお)らを送りこんで新政への発言権を確保しつつ,諸国の武士の糾合に努め,弟足利直義を成良親王に付けて鎌倉に下して関東10ヵ国を掌握させるなど,幕府再興への足がかりを固めていき,34年(建武1)には尊氏の動きを阻もうとする護良親王を失脚させた。 翌年北条高時の遺子時行が関東で乱を起こすと,尊氏は乱鎮圧を名目に東下して鎌倉に入り(中先代の乱),新政府への反逆の態度を明らかにした。…
…旧国名。豆州。静岡県東部の伊豆半島および現在は東京都に属する伊豆諸島を含む地域。
【古代】
東海道に属する下国(《延喜式》)。田方,那賀(仲とも),賀茂の3郡からなり,国府は田方郡に置かれ,三島市の三嶋大社付近にあったといわれている。《国造本紀》の伊豆国造条には,〈神功皇后の御代,物部連(むらじ)の祖,天桙(あめのぬぼこ)命8世の孫,若建命を国造に定め賜う。難波朝(孝徳)の御世,駿河国に隷(つ)く。…
…南北朝時代の1349年(正平4∥貞和5)から52年(正平7∥文和1)まで続いた室町幕府の内部抗争。初期の室町幕府の政治体制は足利尊氏(たかうじ)と弟足利直義(ただよし)の二頭政治で,尊氏は封建制の根幹にかかわる恩賞授与,守護職任免などをみずから行い,直義にはしだいに所領安堵,所領に関する裁判,軍勢の動員などの権限をゆだねた。尊氏の執事高師直(こうのもろなお)は直義の権限拡大に反発し,2人の対立は42年(興国3∥康永1)ごろから表面化したが,これは直義が相論裁定の立場上,公家・寺社の権益擁護に傾きがちであったのに対し,恩賞方の実権をにぎる師直は,国人(こくじん)層の所領獲得要求にこたえるため直義の政策に反対したとみることもできる。…
…このグループは,すでに幕府を京都に置くことを前提とした条文であるとしか考えられない。また政務に堪能な者を守護に任用すべしという第7条,宗教的な権威によって無理を通そうとする寺社訴訟の抑圧,さらに倹約や遊興の禁止令など,この後に展開される足利直義の政道に合致するものがきわめて多い。これらの点から考えると,この上申書全体には直義の意見が強く反映されており,本来鎌倉説をとる直義が,自説を譲る代償として政道にその方針を示したものであり,そのためには制定法ではなく,上申書がより妥当な形式であったのではないかという説も行われている。…
…このときの合戦で戦死したと推測される人々の骨900余が鎌倉材木座海岸から発掘されたのは有名である。後醍醐天皇の建武政権下,相模守足利直義が兄尊氏の意向により,成良親王を奉じて鎌倉に下り,関東10ヵ国を管領した(鎌倉将軍府)。35年(建武2)11月鎌倉で建武政権に反した足利尊氏は,翌年京都を占拠し幕府を開いた。…
…東国国家あるいは東国政権をたえず生み出しつづけてやまなかったのは,こうした西国と異質な東国の社会,生活そのものであった。
[東北の独自性]
鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇の建武政府は〈天下一同〉の支配を目ざしたが,1334年(建武1)早くも成良親王を奉じた足利直義(ただよし)を鎌倉に遣わし,関東8ヵ国に伊豆,甲斐を加えた10ヵ国を統轄する鎌倉将軍府を認めた。これは事実上,東国政権としての鎌倉幕府を継承する機関であったが,これよりさき,後醍醐は義良親王を奉ずる北畠親房・顕家を陸奥に派遣,陸奥将軍府を設けて鎌倉を牽制させている。…
…室町幕府において1344‐1349年(興国5∥康永3‐正平4∥貞和5)の間に活動した所領押領,年貢抑留,用水相論,遵行難渋,下知違背など従来引付方所管の訴訟を扱った機関。内談とは室町幕府における沙汰の原案作成のための合議(内評定)をいい,政所,侍所,問注所,引付方,禅律方,仁政方などそれぞれ内談を行っているが,単に内談,内談衆,内談の座という場合には引付方(あるいは上記期間は内談方)のそれをいう。幕府成立の当初より設置された五番編成の引付方が上記案件について処理してきたが,1344年高師直,上杉朝定,同重能をそれぞれ頭人とし,一方ごとに10人の寄人で構成される三方制の内談方が新設された。…
…この年6月,北条氏と親密であった公卿西園寺公宗の建武政権転覆の陰謀が発覚したが,公宗と呼応するはずであった時行は,旧北条氏御内人(みうちびと)諏訪頼重らに擁せられて信濃に挙兵し,武蔵に進んで女影原,小手指原,府中に足利軍を破った。当時成良親王を奉じ鎌倉にあって関東を治めていた足利直義は,武蔵井出の沢に時行軍を防いだが敗れ,幽閉中の護良親王を斬らせ,成良親王を擁して東海道を西走し,時行軍は鎌倉を占拠した。8月,在京の足利尊氏は征夷大将軍を後醍醐天皇に望んだが許されず,大軍を率いて京都進発後,征東将軍に任ぜられた。…
…
[時代区分]
14世紀の半ばから末まで50余年間の南北朝内乱の時代をいう。鎌倉時代と室町時代の中間にあたるが,広義の室町時代に含まれる。通常,1336年(延元1∥建武3)足利尊氏が北朝の光明天皇を擁立し,それについで後醍醐天皇が吉野に移り南朝を開いた時期をその始期とする。また政治体制だけでなく,社会構成の変化を目安とすれば,14世紀初頭ころから徐々に南北朝時代的な状況に入っている。一方,終期は一般に,南北朝合一によって事実上南朝が北朝に吸収され,室町将軍家による全国統一が名目上完成した1392年(元中9∥明徳3)とする。…
…同式目にもうたっているとおり,施政発足に当たって鎌倉幕府の諸制度と吏僚が継承されたほか,前幕府倒壊の一因となった畿内近国の急進的在地武士や供御人(くごにん),神人(じにん)など非農業的商人集団をも懐柔すべく,政庁を京都に定めた。幕府開創期の権力構造における最大の特色は,尊氏が侍所(さむらいどころ),恩賞方,政所(まんどころ)を管轄して主従制的な支配権を掌握する一方,弟の足利直義(だだよし)が評定,引付,安堵方,問注所などを管轄して統治権的支配権を掌握し,兄弟で二元的政治を行った点である。直義の背後には王朝の本所,荘園領主の利害があり,尊氏や執事高師直(こうのもろなお)のもとには荘園制と対決を余儀なくされた急進的在地領主層の期待が集中し,この両者間に権力抗争を生じて,49‐52年(正平4∥貞和5‐正平7∥文和1)に及ぶ観応の擾乱(かんのうのじようらん)という紛争を招いた。…
※「足利直義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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