新田義貞(読み)ニッタヨシサダ

デジタル大辞泉 「新田義貞」の意味・読み・例文・類語

にった‐よしさだ【新田義貞】

[1301~1338]鎌倉末期・南北朝時代の武将上野の人。元弘3=正慶2年(1333)鎌倉幕府を滅ぼし、建武政権から重用されたが、のち、足利尊氏対立兵庫楠木正成くすのきまさしげとともに九州から東上する尊氏と戦ったが敗れ、恒良尊良両親王を奉じて越前金崎かねがさき城によったが落城。のち、藤島戦死

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精選版 日本国語大辞典 「新田義貞」の意味・読み・例文・類語

にった‐よしさだ【新田義貞】

  1. 鎌倉末期から南北朝初期にかけての武将。朝氏の長子。上野国(群馬県)の人。小太郎という。元弘の乱では北条方として千早城攻撃に加わったが、元弘三年(一三三三)には北条高時を鎌倉に破った。建武新政で功臣として武者所の頭人となる。やがて足利尊氏と対立、各地に転戦し、北陸金崎城に拠ったが、のち越前藤島で討死した。正安三~暦応元=延元三年(一三〇一‐三八

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「新田義貞」の意味・わかりやすい解説

新田義貞
にったよしさだ
(1301―1338)

鎌倉末・南北朝時代の南朝方の武将。朝氏(ともうじ)の子。上野(こうずけ)国新田荘(しょう)(群馬県太田市、伊勢崎市とみどり市の各一部)を拠点とする豪族新田氏の惣領(そうりょう)であったが、小太郎という通称から知られるように、官途名すらもたぬほど鎌倉幕府からは冷遇された一御家人(ごけにん)にすぎなかった。元弘(げんこう)の変(1331)には、初め幕府軍の一員として千早(ちはや)城攻撃に加わったが、その途中帰国。1333年(元弘3・正慶2)、護良(もりよし)親王の令旨(りょうじ)を得て北条氏に背き挙兵。上野・越後(えちご)に展開する一族を中核に、関東各地の反幕府勢力を糾合、小手指原(こてさしがはら)(埼玉県所沢市)・分倍河原(ぶばいがわら)(東京都府中市)の合戦に勝ち、5月22日鎌倉を落とし、得宗(とくそう)北条高時(たかとき)以下を自殺させた。その功により、建武(けんむ)政権下では重用され、越後などの国司(こくし)、武者所頭人(むしゃどころとうにん)、さらに昇進して左近衛中将(さこのえのちゅうじょう)などに任ぜられたが、やがて足利尊氏(あしかがたかうじ)と激しく対立するようになる。35年(建武2)、関東に下った尊氏を追撃するが箱根竹の下の合戦に大敗。しかしその直後、上洛(じょうらく)した尊氏を迎撃、京都合戦で勝利を収め、一時は尊氏を九州に追い落とす。36年(延元1・建武3)、再挙した尊氏と摂津湊川(せっつみなとがわ)・生田(いくた)の森(兵庫県神戸市)に戦い、後醍醐(ごだいご)天皇方は楠木正成(くすのきまさしげ)らを失い、京都を放棄した。その後、義貞は北陸に移り、越前金(えちぜんかな)ヶ崎(さき)城(福井県敦賀(つるが)市)を拠点に再起を図るが、37年これを失陥、嫡男義顕(よしあき)も自刃、ついで38年閏(うるう)7月2日、越前藤島(福井市)で守護斯波高経(しばたかつね)・平泉(へいせん)寺衆徒の軍と合戦中、伏兵に遭遇、戦死した。義貞は、鎌倉攻めのため上野を出たあと、ついに一度も上野の地を踏むことはなかった。尊氏・直義(ただよし)を中心に一族がまとまって行動した足利氏に比べ、新田氏は家格の低さももちろんだが、山名(やまな)・岩松(いわまつ)氏ら有力な一族が当初から義貞と別行動をとり、わずかに弟脇屋義助(わきやよしすけ)をはじめ、大館(おおだち)・堀口(ほりぐち)氏らの本宗系の庶子家しか動員しえなかったのであり、この点に、すでに義貞の非力さが存在した。にもかかわらず義貞は後醍醐によって尊氏の対抗馬に仕立て上げられ、悲劇の末路をたどることになったのである。

[千々和到]

『千々和実著『新田氏根本史料』(1974・国書刊行会)』『佐藤進一著『日本の歴史9 南北朝の動乱』(1965・中央公論社)』『佐藤和彦著『日本の歴史11 南北朝内乱』(1974・小学館)』


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改訂新版 世界大百科事典 「新田義貞」の意味・わかりやすい解説

新田義貞 (にったよしさだ)
生没年:1301-38(正安3-延元3・暦応1)

南北朝期の武将。朝氏の子。新田氏の嫡流。義貞の社会的地位は,新田氏の鎌倉幕府下での立場を反映して,同族の足利尊氏に比べて低かった。元弘の乱に際しては当初幕府軍に属して,1333年(元弘3)正月楠木正成の千早城を攻めたが,護良親王の令旨をうけたため途中で兵を収め本拠に帰った。討幕勢力が興起して六波羅探題が陥落する同年5月ころより,義貞の動きがはっきりしてくる。まず上野守護代長崎四郎左衛門尉を討ち,同国世良田に軍陣をしいた。義貞はさらに大軍を率いて鎌倉に迫り,武蔵分倍河原に北条泰家を破ったのち,5月22日に鎌倉を陥れ,北条高時以下を自刃させた。ここに鎌倉幕府は滅亡したが,まもなく新田・足利の主導権争いが始まり,敗れた義貞は鎌倉を放棄して京都に入った。6月に成立した建武政府下では,義貞は上野介・越後守・播磨守,越後守護・播磨守護に任ぜられたり,一門武士を多く配した武者所を統括するなど,新政府に参加した武士の中でもことに重要な役割を果たした。しかし尊氏との対立は35年(建武2)の中先代の乱鎮定を機に早くも表面化し,ついには尊氏・直義の官爵を削る事態を招いた。ここに建武新政は実質的に崩れ,新田・足利の武門どうしの争いは南北朝対立の導火線の一つとなった。同年末,義貞は尊氏追討に出陣したが,箱根竹ノ下に敗れ,足利軍の入京をゆるした。やがて尊氏追討のため奥州から西上した北畠顕家軍と合力して,36年(延元1・建武3)2月足利軍を九州へ去らせたが,後醍醐天皇方武将たちの戦術上の足なみがそろわなかったため,6月に入洛した足利軍を迎えうつ合戦で,天皇方は多大の犠牲を払った。尊氏が8月持明院統の光明天皇を擁立したため南北朝が並立した。義貞は北国に南軍の拠点を築くべく恒良・尊良両親王を奉じて越前に下り,金崎(かねがさき)城,杣山(そまやま)城を根城に力戦を重ねたが,38年藤島の戦で戦死した。
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百科事典マイペディア 「新田義貞」の意味・わかりやすい解説

新田義貞【にったよしさだ】

鎌倉末・南北朝期の武将。朝氏の子。元弘の乱で初め北条氏に属したが,そむいて1333年鎌倉を攻め幕府を滅ぼした。建武新政で,越後守・上野(こうずけ)介などや武者所頭人(むしゃどころとうにん)に任ぜられている。足利尊氏と対立し,いったん尊氏を九州に走らせたが,再起した尊氏に兵庫で敗れて越前(えちぜん)に至り,藤島の戦で戦死。
→関連項目金崎宮金崎城斯波高経白旗城杣山城手越宿新田[町]新田氏新田荘藤島神社北条高時湊川の戦

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朝日日本歴史人物事典 「新田義貞」の解説

新田義貞

没年:暦応1/延元3.閏7.2(1338.8.17)
生年:正安3(1301)
南北朝時代の武将。新田朝氏(朝兼)の長子,小太郎を称する。文保1(1317)年ごろに家督を継ぎ,上野国(群馬県)新田荘を本拠地とする新田一族の惣領となる。正慶1/元弘2(1332)年,河内(大阪府)の楠木正成攻めの幕府の動員令に応じたが,病気を理由に中途で帰国した。翌元弘3(1333)年4月,執権北条氏の守護国である上野国で,楠木合戦の戦費調達のための有徳銭の徴集使として得宗被官の紀出雲介親連と黒沼彦四郎入道が新田荘世良田宿に入部してきた。義貞はその過酷な徴集をとがめ,親連を捕らえ,黒沼を斬った。この事件は幕府に対する公然たる反抗に映じた。幕府による誅伐の機先を制して,5月8日に義貞は荘内一井郷の生品明神で挙兵し,東山道を西進して越後(新潟県)の新田一族や上野・信濃の諸士を八幡荘(高崎市)に糾合し,翌9日鎌倉街道を武蔵に進撃した。一方,12日に同じ新田荘の世良田で,紀政綱,世良田満義らに擁されて足利尊氏の子千寿王(4歳)が蜂起し,義貞軍と合流した。ここに,新田・足利連合軍が形成され,尊氏の六波羅攻めと相呼応する形で,分倍河原(東京都府中市)合戦で北条軍を撃破したのち,稲村ケ崎を突破した義貞は,22日に鎌倉を攻め落として北条高時以下を自尽させ鎌倉幕府を滅亡させた。 後醍醐天皇の建武政府のもとで,義貞は越後・上野の国司に任ぜられ,左兵衛佐(のちに左近衛中将),従四位上の官位を得た。建武2(1335)年,南北朝内乱が開始されると,南朝方の侍大将として,箱根竹ノ下合戦,播磨の赤松則村攻め,兵庫湊川合戦,京都合戦などに転戦したが,戦い利あらず天皇を擁して比叡山に立てこもった。3年8月,両朝の一時的和睦の際,恒良親王を擁して越前(福井県)に下向して金ケ崎城,黒丸城などに拠り,越前守護斯波高経らと抗争していたが,藤島城付近の燈明寺畷で不慮の戦死を遂げた。南朝方一筋に転戦に次ぐ転戦の末の最期であった。安養寺明王院(新田郡尾島町)に葬られる。<参考文献>尾島町編『尾島町誌』通史編上

(峰岸純夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「新田義貞」の意味・わかりやすい解説

新田義貞
にったよしさだ

[生]正安3(1301).上野
[没]延元3=暦応1(1338).閏7.2. 越前
鎌倉時代末期,南北朝時代の武将。元弘の乱で,幕府側に属し楠木正成を千早城に攻めていたが,元弘3=正慶2 (1333) 年上野に帰国,5月8日討幕の兵を挙げた。5月 22日鎌倉幕府を滅ぼし,まもなく上洛。越後守,越後守護,上野介を兼任。建武1 (34) 年従四位上,播磨守を兼任。翌年,中先代 (なかせんだい) の乱を機に足利尊氏が建武政府 (→建武中興 ) にそむくと,尊氏追討のため東下したが,箱根竹ノ下の戦いに敗れ,また延元1=建武3 (36) 年には摂津兵庫で敗れ,ついに北陸に逃れた。越前金崎城を中心に北陸経営に努めたが,延元3=暦応1 (38) 年斯波高経軍の藤島城攻めにあい,戦死した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「新田義貞」の解説

新田義貞
にったよしさだ

?~1338.閏7.2

南北朝期の武将。1333年(元弘3)本国上野で挙兵して鎌倉にむかい,途中分倍河原(ぶばいがわら)合戦などで幕府軍を撃破,まもなく鎌倉を攻略して鎌倉幕府を滅亡させた。ついで建武政権に従い,35年(建武2)鎌倉で反乱した足利尊氏の討伐にむかったが,竹ノ下の戦で敗れた。京都に攻め上った尊氏をいったん撃退したが,36年(建武3・延元元)5月湊川の戦で敗れ,京都を奪われた。10月後醍醐天皇の皇子恒良(つねよし)親王を擁して越前にのがれ,以後同国で活動。金崎(かねがさき)城(現,福井県敦賀市)に拠ったが,翌年室町幕府軍に包囲され落城。38年藤島城(現,福井市)付近の戦闘で負傷し,のち自殺。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「新田義貞」の解説

新田義貞 にった-よしさだ

1301-1338 鎌倉-南北朝時代の武将。
正安(しょうあん)3年生まれ。鎌倉を攻めて幕府をほろぼし,後醍醐(ごだいご)天皇の建武(けんむ)の新政で重用される。足利尊氏が新政権にそむくと,南朝方の中心として各地を転戦。尊氏の京都占領後,越前(えちぜん)(福井県)金ケ崎(かながさき)城にこもる。落城前に脱出して再挙をはかるが,建武5=延元3年閏(うるう)7月2日斯波高経(しば-たかつね)との藤島の戦いで討ち死にした。38歳。上野(こうずけ)(群馬県)出身。通称は小太郎。

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旺文社日本史事典 三訂版 「新田義貞」の解説

新田義貞
にったよしさだ

1301〜38
鎌倉末期・南北朝時代の武将
朝氏の子。1333年元弘の変に,初め幕府方で千早城を攻めたが,途中上野 (こうずけ) 国(群馬県)に帰って挙兵。鎌倉を攻め北条氏を滅ぼした。建武の新政で武者所の頭人となる。足利尊氏と対立,南朝方武士の中心として戦ったが,'35年箱根竹の下で敗れ,翌'36年皇太子恒良 (つねよし) 親王を奉じ北陸に下り,'38年藤島(福井市)の戦いで戦死した。

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世界大百科事典(旧版)内の新田義貞の言及

【稲村ヶ崎】より

…古くは干潮時には海寄りを渡渉できたらしく,《海道記》にも岬を回ったことがみえる。1333年(元弘3)の新田義貞の鎌倉攻めでは,義貞がここに黄金造りの太刀を投じて進路を開いたという史話にちなんで史跡に指定されている。鎌倉から江ノ島に通じる海岸の湘南道路は1933年の開設。…

【越前国】より

…足利尊氏の離反によって新政が破れると,越前は南北両朝軍の戦場となった。敦賀の金崎(かねがさき)城に立てこもった新田義貞らを高経以下の北朝軍が攻撃し,翌年3月これを落とした。このとき城を脱した義貞は府中(現,武生市)で態勢をたて直し,38年(延元3∥暦応1)2月義貞を追って府中に進駐した高経軍を撃破し,勢いに乗じてさらに兵を北に進めて高経軍の拠点,足羽七城を包囲した。…

【上野国】より

…以後長楽寺は関東の有力禅院として繁栄した。 1333年(元弘3)楠木正成が河内に反幕府の蜂起をすると,その軍事費支弁の目的で,有徳銭(うとくせん)(富裕税)の徴収のため世良田に入部した北条氏の家臣は,新田義貞とトラブルを起こして斬られ,これをきっかけに義貞は生品(いくしな)明神で挙兵し,越後,上野,武蔵などの軍勢を率いて鎌倉を攻め,北条氏を滅ぼす。幕府に代わった後醍醐天皇の建武政府の中で,新田義貞は上野,播磨,越後の国司(守護兼帯)となり,六波羅探題を滅ぼした足利尊氏とともに,二大勢力の一方を形成したが,やがて尊氏と後醍醐天皇との対立が明確になると,天皇方(南朝)に属して各地を転戦し,38年(延元3∥暦応1)に越前藤島で戦死する。…

【勾当内侍】より

…一条経尹の三女,行房の妹。新田義貞に見そめられ,天皇の許しを得て義貞の妻となった。1338年(延元3∥暦応1)義貞が越前で戦死すると,尼になって洛西嵯峨に住み,夫の菩提をとむらった。…

【新田氏】より

…上野国出身の中世武家。清和源氏の一流。源義家の孫義重が上野国新田郡新田荘に住し,新田太郎と号したのに始まる(図)。義重が鎌倉御家人となって以降鎌倉幕府に属したが,源家将軍ないしは北条執権家とおりあいが悪く,その地位は低かった。《吾妻鏡》によれば,新田氏嫡流の義兼が〈新田蔵人〉,政義が〈新田太郎〉であるのに比べ,同族足利氏嫡流の義兼は〈上総介〉,義氏は〈武蔵前司〉〈陸奥守〉〈左馬頭〉である。同門でありながら新田氏の劣勢は歴然としている。…

【箱根竹ノ下の戦】より

…1335年(建武2)12月,箱根・足柄一帯で行われた,足利尊氏・直義兄弟と建武政権方の新田義貞軍との合戦。南北朝内乱のおもな序盤戦の一つ。…

【藤島神社】より

…福井市毛矢にあり,新田義貞をまつる。1338年(延元3∥暦応1)義貞は北朝方の斯波高経と戦い,越前藤島で戦死した(藤島の戦)。…

【藤島の戦】より

…1338年(延元3|暦応1)越前国吉田郡藤島(現,福井市)付近で行われた,南朝方新田義貞軍と足利方斯波高経(しばたかつね)軍との戦闘。この戦いで義貞は討死する。…

【丸岡[町]】より

…白山を開いた泰澄の開創という豊原寺は,中世には多数の僧兵を擁し,〈豊原三千坊〉と称された大寺であったが廃寺となった。称念寺は中世,越前における時宗布教の中心道場だったところで,絹本著色他阿上人真教像(重要文化財)などを蔵し,境内には新田義貞の墓がある。義貞は1338年(延元3∥暦応1)灯明寺畷(とうみようじなわて)(福井市)で自害したのち,ここに葬られたという。…

【武蔵国】より

…なお1196年(建久7)に国検が行われ,1210年には大田文が作成されたが,現在には伝えられていない。
[建武の新政]
 1333年(元弘3)5月,上野国新田荘で挙兵した新田義貞は,武蔵に入って久米川,分倍河原(ぶばいがわら)で戦い,一度は敗れたが,武蔵,相模,奥羽の武士の参加を得て鎌倉幕府を倒した。この分倍河原で敗れた新田軍により,8世紀建立の武蔵国国分寺は焼滅したが,その鎌倉攻めには熊谷,横山,江戸,豊島,武蔵七党など当国武士の活躍が伝えられており,倒幕が武蔵,相模,陸奥,出羽という幕府の直接基盤の武士の動向によって決定されたところに,得宗専制政治の結末をみることができる。…

※「新田義貞」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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