鎌倉末・南北朝時代の南朝方の武将。朝氏(ともうじ)の子。上野(こうずけ)国新田荘(しょう)(群馬県太田市、伊勢崎市とみどり市の各一部)を拠点とする豪族新田氏の惣領(そうりょう)であったが、小太郎という通称から知られるように、官途名すらもたぬほど鎌倉幕府からは冷遇された一御家人(ごけにん)にすぎなかった。元弘(げんこう)の変(1331)には、初め幕府軍の一員として千早(ちはや)城攻撃に加わったが、その途中帰国。1333年(元弘3・正慶2)、護良(もりよし)親王の令旨(りょうじ)を得て北条氏に背き挙兵。上野・越後(えちご)に展開する一族を中核に、関東各地の反幕府勢力を糾合、小手指原(こてさしがはら)(埼玉県所沢市)・分倍河原(ぶばいがわら)(東京都府中市)の合戦に勝ち、5月22日鎌倉を落とし、得宗(とくそう)北条高時(たかとき)以下を自殺させた。その功により、建武(けんむ)政権下では重用され、越後などの国司(こくし)、武者所頭人(むしゃどころとうにん)、さらに昇進して左近衛中将(さこのえのちゅうじょう)などに任ぜられたが、やがて足利尊氏(あしかがたかうじ)と激しく対立するようになる。35年(建武2)、関東に下った尊氏を追撃するが箱根竹の下の合戦に大敗。しかしその直後、上洛(じょうらく)した尊氏を迎撃、京都合戦で勝利を収め、一時は尊氏を九州に追い落とす。36年(延元1・建武3)、再挙した尊氏と摂津湊川(せっつみなとがわ)・生田(いくた)の森(兵庫県神戸市)に戦い、後醍醐(ごだいご)天皇方は楠木正成(くすのきまさしげ)らを失い、京都を放棄した。その後、義貞は北陸に移り、越前金(えちぜんかな)ヶ崎(さき)城(福井県敦賀(つるが)市)を拠点に再起を図るが、37年これを失陥、嫡男義顕(よしあき)も自刃、ついで38年閏(うるう)7月2日、越前藤島(福井市)で守護斯波高経(しばたかつね)・平泉(へいせん)寺衆徒の軍と合戦中、伏兵に遭遇、戦死した。義貞は、鎌倉攻めのため上野を出たあと、ついに一度も上野の地を踏むことはなかった。尊氏・直義(ただよし)を中心に一族がまとまって行動した足利氏に比べ、新田氏は家格の低さももちろんだが、山名(やまな)・岩松(いわまつ)氏ら有力な一族が当初から義貞と別行動をとり、わずかに弟脇屋義助(わきやよしすけ)をはじめ、大館(おおだち)・堀口(ほりぐち)氏らの本宗系の庶子家しか動員しえなかったのであり、この点に、すでに義貞の非力さが存在した。にもかかわらず義貞は後醍醐によって尊氏の対抗馬に仕立て上げられ、悲劇の末路をたどることになったのである。
[千々和到]
『千々和実著『新田氏根本史料』(1974・国書刊行会)』▽『佐藤進一著『日本の歴史9 南北朝の動乱』(1965・中央公論社)』▽『佐藤和彦著『日本の歴史11 南北朝内乱』(1974・小学館)』
南北朝期の武将。朝氏の子。新田氏の嫡流。義貞の社会的地位は,新田氏の鎌倉幕府下での立場を反映して,同族の足利尊氏に比べて低かった。元弘の乱に際しては当初幕府軍に属して,1333年(元弘3)正月楠木正成の千早城を攻めたが,護良親王の令旨をうけたため途中で兵を収め本拠に帰った。討幕勢力が興起して六波羅探題が陥落する同年5月ころより,義貞の動きがはっきりしてくる。まず上野守護代長崎四郎左衛門尉を討ち,同国世良田に軍陣をしいた。義貞はさらに大軍を率いて鎌倉に迫り,武蔵分倍河原に北条泰家を破ったのち,5月22日に鎌倉を陥れ,北条高時以下を自刃させた。ここに鎌倉幕府は滅亡したが,まもなく新田・足利の主導権争いが始まり,敗れた義貞は鎌倉を放棄して京都に入った。6月に成立した建武政府下では,義貞は上野介・越後守・播磨守,越後守護・播磨守護に任ぜられたり,一門武士を多く配した武者所を統括するなど,新政府に参加した武士の中でもことに重要な役割を果たした。しかし尊氏との対立は35年(建武2)の中先代の乱鎮定を機に早くも表面化し,ついには尊氏・直義の官爵を削る事態を招いた。ここに建武新政は実質的に崩れ,新田・足利の武門どうしの争いは南北朝対立の導火線の一つとなった。同年末,義貞は尊氏追討に出陣したが,箱根竹ノ下に敗れ,足利軍の入京をゆるした。やがて尊氏追討のため奥州から西上した北畠顕家軍と合力して,36年(延元1・建武3)2月足利軍を九州へ去らせたが,後醍醐天皇方武将たちの戦術上の足なみがそろわなかったため,6月に入洛した足利軍を迎えうつ合戦で,天皇方は多大の犠牲を払った。尊氏が8月持明院統の光明天皇を擁立したため南北朝が並立した。義貞は北国に南軍の拠点を築くべく恒良・尊良両親王を奉じて越前に下り,金崎(かねがさき)城,杣山(そまやま)城を根城に力戦を重ねたが,38年藤島の戦で戦死した。
執筆者:森 茂暁
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(峰岸純夫)
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?~1338.閏7.2
南北朝期の武将。1333年(元弘3)本国上野で挙兵して鎌倉にむかい,途中分倍河原(ぶばいがわら)合戦などで幕府軍を撃破,まもなく鎌倉を攻略して鎌倉幕府を滅亡させた。ついで建武政権に従い,35年(建武2)鎌倉で反乱した足利尊氏の討伐にむかったが,竹ノ下の戦で敗れた。京都に攻め上った尊氏をいったん撃退したが,36年(建武3・延元元)5月湊川の戦で敗れ,京都を奪われた。10月後醍醐天皇の皇子恒良(つねよし)親王を擁して越前にのがれ,以後同国で活動。金崎(かねがさき)城(現,福井県敦賀市)に拠ったが,翌年室町幕府軍に包囲され落城。38年藤島城(現,福井市)付近の戦闘で負傷し,のち自殺。
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…古くは干潮時には海寄りを渡渉できたらしく,《海道記》にも岬を回ったことがみえる。1333年(元弘3)の新田義貞の鎌倉攻めでは,義貞がここに黄金造りの太刀を投じて進路を開いたという史話にちなんで史跡に指定されている。鎌倉から江ノ島に通じる海岸の湘南道路は1933年の開設。…
…足利尊氏の離反によって新政が破れると,越前は南北両朝軍の戦場となった。敦賀の金崎(かねがさき)城に立てこもった新田義貞らを高経以下の北朝軍が攻撃し,翌年3月これを落とした。このとき城を脱した義貞は府中(現,武生市)で態勢をたて直し,38年(延元3∥暦応1)2月義貞を追って府中に進駐した高経軍を撃破し,勢いに乗じてさらに兵を北に進めて高経軍の拠点,足羽七城を包囲した。…
…以後長楽寺は関東の有力禅院として繁栄した。 1333年(元弘3)楠木正成が河内に反幕府の蜂起をすると,その軍事費支弁の目的で,有徳銭(うとくせん)(富裕税)の徴収のため世良田に入部した北条氏の家臣は,新田義貞とトラブルを起こして斬られ,これをきっかけに義貞は生品(いくしな)明神で挙兵し,越後,上野,武蔵などの軍勢を率いて鎌倉を攻め,北条氏を滅ぼす。幕府に代わった後醍醐天皇の建武政府の中で,新田義貞は上野,播磨,越後の国司(守護兼帯)となり,六波羅探題を滅ぼした足利尊氏とともに,二大勢力の一方を形成したが,やがて尊氏と後醍醐天皇との対立が明確になると,天皇方(南朝)に属して各地を転戦し,38年(延元3∥暦応1)に越前藤島で戦死する。…
…一条経尹の三女,行房の妹。新田義貞に見そめられ,天皇の許しを得て義貞の妻となった。1338年(延元3∥暦応1)義貞が越前で戦死すると,尼になって洛西嵯峨に住み,夫の菩提をとむらった。…
…上野国出身の中世武家。清和源氏の一流。源義家の孫義重が上野国新田郡新田荘に住し,新田太郎と号したのに始まる(図)。義重が鎌倉御家人となって以降鎌倉幕府に属したが,源家将軍ないしは北条執権家とおりあいが悪く,その地位は低かった。《吾妻鏡》によれば,新田氏嫡流の義兼が〈新田蔵人〉,政義が〈新田太郎〉であるのに比べ,同族足利氏嫡流の義兼は〈上総介〉,義氏は〈武蔵前司〉〈陸奥守〉〈左馬頭〉である。同門でありながら新田氏の劣勢は歴然としている。…
…1335年(建武2)12月,箱根・足柄一帯で行われた,足利尊氏・直義兄弟と建武政権方の新田義貞軍との合戦。南北朝内乱のおもな序盤戦の一つ。…
…白山を開いた泰澄の開創という豊原寺は,中世には多数の僧兵を擁し,〈豊原三千坊〉と称された大寺であったが廃寺となった。称念寺は中世,越前における時宗布教の中心道場だったところで,絹本著色他阿上人真教像(重要文化財)などを蔵し,境内には新田義貞の墓がある。義貞は1338年(延元3∥暦応1)灯明寺畷(とうみようじなわて)(福井市)で自害したのち,ここに葬られたという。…
…なお1196年(建久7)に国検が行われ,1210年には大田文が作成されたが,現在には伝えられていない。
[建武の新政]
1333年(元弘3)5月,上野国新田荘で挙兵した新田義貞は,武蔵に入って久米川,分倍河原(ぶばいがわら)で戦い,一度は敗れたが,武蔵,相模,奥羽の武士の参加を得て鎌倉幕府を倒した。この分倍河原で敗れた新田軍により,8世紀建立の武蔵国国分寺は焼滅したが,その鎌倉攻めには熊谷,横山,江戸,豊島,武蔵七党など当国武士の活躍が伝えられており,倒幕が武蔵,相模,陸奥,出羽という幕府の直接基盤の武士の動向によって決定されたところに,得宗専制政治の結末をみることができる。…
※「新田義貞」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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