日本大百科全書(ニッポニカ) 「蒋方震」の意味・わかりやすい解説
蒋方震
しょうほうしん / チヤンファンチェン
(1880―1938)
中華民国の軍人。字(あざな)は百里。浙江(せっこう/チョーチヤン)省海寧県の人。日本の陸軍士官学校を首席で卒業。ついでドイツに留学し、4年間同国陸軍に所属してプロイセンの軍事思想家クラウゼウィッツを学んだ。帰国後、奉天総督趙爾巽(ちょうじそん)の軍事参謀となり、民国成立後、保定軍官学校校長、北京(ペキン)大総統府軍事顧問などを歴任した。1916年広東(カントン)に行き、梁啓超(りょうけいちょう/リヤンチーチャオ)のもとで出師計画主任となり、のち呉佩孚(ごはいふ/ウーペイフー)、孫伝芳(そんでんほう)の参謀長を務めた。1929年末の唐生智(とうせいち)の反蒋戦争に連座したため逮捕され、1933年まで南京(ナンキン)に監禁された。釈放後、1936年ヨーロッパを視察。同年帰国後、報告のため西安(せいあん/シーアン)に滞在中、西安事件に遭遇した。翌1937年蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー)の特使としてドイツ、イタリアを訪問。帰国後死去した。
[石島紀之]