中国,清末・民国初の政治家,啓蒙的ジャーナリスト,学者。字は卓如,号は任公,滄江,飲冰室主人(いんぴようしつしゆじん)など。広東省新会県の人。わずか17歳で郷試に合格して挙人となったが,翌1890年(光緒16)春の会試に失敗した。その秋,同郷の康有為の門に入り,従来の漢学(古文学)とは異なった今文学を学び,あわせて欧米の近代思想や仏教学にも接したことは,彼の思想に決定的な影響を与えた。それ以後,康有為の変法維新運動の有力な協力者となり,95年,康有為の最初の政治活動である〈公車上書〉を推進した。そして上海で《時務報》を創刊した梁啓超は主筆として〈変法通義〉〈古議院考〉などの政論を発表し,変法の必然性,民権の振興,立憲君主制を唱えた。1897年,湖南時務学堂が設立されると総教習として招かれ,学生に民権思想を鼓吹したため,保守派から攻撃追放された。1898年6月,光緒帝の政治改革戊戌(ぼじゆつ)変法が開始されると,京師大学堂訳書局事務を担当させられ,康有為を助けて新政推進に尽くした。
変法が西太后ら頑固派のクーデタにより挫折すると,彼らの追及をまぬがれて日本に亡命した。同年10月,横浜で旬刊誌《清議報(せいぎほう)》を創刊し,保皇と君主立憲を宣伝し,また国際情勢と中国瓜分(列強による分割)の危機を鋭く指摘した。1902年2月,誌名を改めて《新民叢報》(半月刊)と題し,スペンサー流社会進化論とルソーの天賦民権論にもとづき,ほとんど共和主義に近い民権思想を政論,哲学,文学などの諸分野を通じて宣伝した。制度的な改革の前提として何よりも国民(新民)そのものの意識改革が必須であることを強調した〈新民説〉も,この雑誌に連載され,知識青年の間で熱狂的な歓迎を受けた。
しかし,カナダ,アメリカを遊歴し,欧米社会とその政治を実見したころからは,彼の思想は共和政体を否定して君主立憲制にもどり,1905年,孫文ら革命派の機関誌《民報》が創刊されて,同誌上で梁啓超の君主立憲論が攻撃されると,さらに後退して開明的専制君主論を唱えた。06年9月,予備立憲の詔勅が出されると,それに呼応して政聞社を設立して憲政運動をはじめ,本国における張謇(ちようけん)らの国会開会の請願運動を支持した。しかし,11年10月,武昌で革命が起こり,共和政体が成立したため,12年11月,彼は14年ぶりに帰国し,進歩党を創設して袁世凱(えんせいがい)を擁護し,熊希齢内閣の司法総長となった。1915年,袁世凱が帝制復活をもくろむと,それに反対して共和制擁護の立場をとり,かつての学生蔡鍔(さいがく)のひきいる護国軍を支持して反袁闘争に参加した。
やがて滞欧生活ののち20年政界から引退し,教育と学問に専念し,清華大学教授,北京図書館長をつとめ,その間,《清代学術概論》《墨子学案》《先秦政治思想史》《中国近三百年学術史》などの名著を書いた。なお,彼の学識はきわめて広く,政治経済,哲学,歴史,文学,芸術など,及ばないところがないほどである。ことに文学については,〈詩界革命〉〈小説界革命〉を唱えて,近代文学の創出に大きな足跡を残している。彼の著述の大部分は《飲冰室文集》《飲冰室専集》に収められている。
執筆者:坂出 祥伸
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中国、清(しん)末民初のブルジョア改良主義者、学者。号は任公または飲冰(いんひょう)室主人。広東(カントン)省新会県の生まれ。師の康有為(こうゆうい)とともに変法自強運動をしたので「康梁」とよぶ。1896年、上海(シャンハイ)で『時務報』を主宰し「変法通議」を発表し、『西政叢書(そうしょ)』を編集し、ヨーロッパ学芸の紹介に努めた。翌1897年に長沙(ちょうさ)の時務学堂で講義し、変法自強運動を積極的に鼓吹した。1898年北京(ペキン)に行き、百日維新である戊戌(ぼじゅつ)の変法に参加。西太后(せいたいこう)らのクーデターで失敗し、日本に亡命した。日本では『清議報』、続いて『新民叢報』を編集し、立憲保皇の立場をとり、民主革命派からは批判された。しかし、ヨーロッパのブルジョア的な社会・政治・経済学説を紹介し、当時の知識階級にかなり大きな影響を与えた。辛亥(しんがい)革命後の1912年10月帰国し、立憲党を基盤に進歩党を組織し、袁世凱(えんせいがい)を擁護し袁政府の司法総長となった。その後、段祺瑞(だんきずい)と合作し、財政総長となり、五・四運動(1919)時期には打倒孔家店(儒教打倒)のスローガンに反対した。代表的著作は『清代学術概論』『中国歴史研究法』『先秦(せんしん)政治思想史』などで『飲冰室合集』『飲冰室文集』に収録されている。
[山下龍三]
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1873~1929
清末民国初期の啓蒙思想家,政治家。広東省新会県の人。号は任公。1889年挙人に合格。康有為(こうゆうい)に師事し,変法運動に参加。98年戊戌(ぼじゅつ)の政変後日本に亡命,盛んに文筆をふるって立憲運動を行った。民国成立後は進歩党に参加,司法総長や財政総長の要職を歴任したほか,多くの大学にも出講し後進の啓蒙に大きな役割を果たした。
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…国故整理の動きは,早くに清末の章炳麟を元祖とするが,より直接的には,17年にアメリカから帰国して北京大学教授となった26歳の胡適が書いた《中国哲学史大綱》(上巻,1919)を創始とし,およそ四つの分野からなる。第1は,胡適や梁啓超の《先秦政治思想史》に代表される先秦の諸子百家および仏教などについての思想史的研究。第2は,おなじく胡適による《西遊記》《水滸伝》《紅楼夢》など元・明・清の古典小説の整理考証,また周作人らの北京大学歌謡研究会がおこなった民間に伝わる故事伝説歌謡などフォークロアの収集といった文学的研究。…
…しかしその提調(校長)の熊希齢(ゆうきれい)のもとに集められた教員が,みな康有為の門人か心酔者であったため,1897年(光緒23)10月に開校されるや,たちまち変法維新運動の拠点となった。梁啓超,唐才常らは,先に康有為が広州に開いた万木草堂の教育方針にのっとって大同と変法の思想を説いた。そのため保守派の反対圧迫を招き,わずか数ヵ月で閉鎖された。…
…毎号およそ20余ページ,3万~4万字からなり,立憲君主制を鼓吹する論説,時事,外国新聞雑誌の翻訳などを掲載した。97年10月まで主筆をつとめた梁啓超の文章(《変法通議》など)によって,当時の改革主義思想の宣伝に大きな影響力をもった。【河田 悌一】。…
…のちに不定期刊となる。日本に亡命していた梁啓超は,自分の編集した《清議報(せいぎほう)》を1901年(光緒27)12月,100期で停刊にしたが,翌年2月,それを受けついで,《新民叢報》を横浜で創刊した。その編集には,ほかに韓文挙,蔣智由,馬君武らがあたった。…
…彼らはしだいに政治制度の改革,すなわち変法論へ向かうことになった。西欧列強の蚕食に悩む病める中国の現状の原因を科学知識の不足に求めた梁啓超は《西学書目表》(1896)を,そして徐維則は《東西学書録》(1899)を著した。これはこの時期に翻訳された西書のリストであり,これによって,当時の西学の盛況の一端をうかがうことができる。…
…それに対して,第1次大戦の傷跡の大きさを目撃,ヨーロッパでも〈西洋の没落〉が論じられだしたことをうけて,西洋文化の物質偏重を排し東洋の精神文化を見直そうという声が,胡適らの〈全面的西洋化〉論に反発する伝統主義者のなかからあがった。欧州の旅から帰国し科学の破産を叫んだ梁啓超の《欧遊心影録》(1919)を端緒に,辜鴻銘(ここうめい)は東洋文明こそがよりよき人間をつくると説き,北京大学でインド哲学を講じた梁漱溟は《東西文化及其哲学》(1922)を書いて,中国文化,インド文化によって西洋文化の弊害を救おうと主張し,〈東方に帰れ〉と述べた。23年以降,この論争は,科学万能主義に反対する張君勱(ちようくんばい)と科学を重視する丁文江らによる〈科学と人生観〉の論争にひきつがれた。…
※「梁啓超」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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