中国の政治家。中華民国総統。字(あざな)は中正。
浙江(せっこう)省奉化県の由緒ある塩商の家に生まれる。郷里の学堂で学んだのち1907年に保定軍官学校に入学。1908年(明治41)には日本へ留学して東京の振武学校(中国留学生のための陸軍士官学校予備学校)を1910年に卒業、新潟県高田の野砲兵第一三連隊に配属された。留学中に、東京で孫文(そんぶん)らの中国同盟会に加入し、1911年の辛亥(しんがい)革命に際しては張群(ちょうぐん)とともに帰国して革命に投じた。孫文の信用を得、1923年、孫文の命令でソ連の軍事事情を視察後、翌1924年に黄埔(こうほ)軍官学校初代校長に就任した。1925年の孫文死後は国民党二全大会で中央執行委員となり、同時に国共合作下の国民革命軍総司令に選ばれた。1926年3月、最初の反共事件としての中山艦事件で政治的地位を強化、同年7月、北伐を開始したが、翌1927年4月、上海(シャンハイ)クーデターを起こして反共攻勢に転じ、以後一貫して共産党を攻撃した。
1928年、南京(ナンキン)に国民政府を樹立して主席となって以来、国民党内での汪精衛(おうせいえい)(汪兆銘(おうちょうめい))との対立や閻錫山(えんしゃくざん)、馮玉祥(ふうぎょくしょう)らの反蒋軍閥による数次の抵抗に出会いながらも、国民党の実権をほぼ一貫して掌握した。1934年には一種の精神復興運動である新生活運動を唱導し、この間、蒋・孔(こう)・宋(そう)・陳(ちん)のいわゆる「四大家族」を中心とした浙江財閥を育成して自己の財政的支柱とした。1936年の西安(せいあん)事件で捕らえられ、抗日民族統一戦線の形成に同意したが、1937年の日中戦争で政府を重慶(じゅうけい)に移したのちの抗日戦争中もしばしば反共政策を断行した。1945年、抗日戦争勝利後は重慶で毛沢東(もうたくとう)との国共和平交渉に臨んだが、翌1946年にはふたたび国共内戦が勃発(ぼっぱつ)、1948年には新しい憲政下の初代総統に就任。1949年1月いったん辞任。同年大陸を失陥し台湾へ逃れた。1950年総統に復帰。以後、台湾での統治には意を用いつつ反共復国を目ざし、アジアの代表的な反共政治家として活躍した。1975年4月5日台北で死去。
彼の独裁を非難する声とともに、第二次世界大戦終戦に際し「暴に報ゆるに怨をもってせず」と放送して日本軍の降服を受け入れたことを評価する声も高い。1927年、それまでの妻を離別して浙江財閥出身で孫文夫人(宋慶齢(そうけいれい))の妹、宋美齢(そうびれい)と結婚。前妻の産んだ長男の蒋経国(しょうけいこく)が総統の地位を継いだ。
[中嶋嶺雄]
『『蒋介石秘録』全15巻(1975~1977・サンケイ出版)』▽『楊逸舟著『蒋介石評伝』上下(1979、1983・共栄書房)』
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1887~1975
中国現代の軍人,政治家。中国国民党と国民政府の最高指導者。浙江(せっこう)省奉化県生まれ。介石は字,名は中正。1907年日本に留学。留学中中国同盟会に加入。辛亥(しんがい)革命が勃発すると,帰国して革命に身を投じた。その後孫文から軍人としての資質を認められる。1923年訪ソし,軍事制度を視察。翌年第1次国共合作下,黄埔(こうほ)軍官学校ができると,校長に就任。25年孫文が死去し,中国国民党内に反共の機運が生じると,しだいに反共に転じた。27年四・一二クーデタを断行し,南京国民政府の成立と国共分裂をもたらした。28年北伐を完成し,全国を統一する。中国共産党は革命根拠地をつくり,国民党に対抗したが,これに対して蒋は剿共(そうきょう)戦を5回にわたって実行した。31年満洲事変勃発後日本の侵略が激化すると,共産党は一致抗日を宣言し,36年の西安事件を契機に抗日民族統一戦線が結成される。37年日中戦争勃発後第2次国共合作結成。38年国民党総裁に就任。日中戦争終結後再び国共間に内戦が勃発。48年には国民政府総統に就任するが,49年共産党との内戦に敗れて台湾に移る。台湾においては総統を歴任し,アメリカの支援のもと経済発展を実現させた。
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1887.10.31~1975.4.5
中国近代の軍人・政治家。浙江省出身。1907年(明治40)来日,翌年振武軍事学校に入学。留学中に中国革命同盟会に入会。辛亥(しんがい)革命に際して帰国したが,第2革命失敗後再来日。23年ソ連を軍事視察。帰国して黄埔(こうほ)軍官学校初代校長に就任。孫文の死後,北伐を継続。27年上海クーデタを断行し,南京国民政府を組織。28年8月国民政府主席。満州事変後は安内攘外論を唱え,共産党の討伐を優先し対日宥和的政策を取り続けたが,西安事件を契機に共産党との一致抗日を迫られ,日中戦争勃発後は南京から武漢・重慶へと遷都しつつ抗戦を継続。日本敗戦後の国共内戦に敗れ,49年末台湾へ逃れ,大陸反攻を図るがはたせなかった。
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