コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

蒋介石 しょうかいせき

8件 の用語解説(蒋介石の意味・用語解説を検索)

美術人名辞典の解説

蒋介石

台湾の軍人、政治家。1887年浙江省生。中国国民党総統。日本陸軍士官学校出身。孫文によりモスクワに派遣され、黄埔軍官学校を創設、国共連合による北伐軍事行動に成功。のち反共独裁の国民党政府最高指導者として対日抗戦を完遂したが、中共の飛躍的強化のため内戦に失敗、台湾に退く。1975年、台北にて歿、89才。

出典|(株)思文閣
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

朝日新聞掲載「キーワード」の解説

蒋介石

1887年、中国・浙江省生まれ。日本留学後、孫文の革命運動に加わり、中国国民党の軍事指導者として頭角を現す。抗日戦に勝利後、中華民国憲法を制定して総統に選出されたが共産党との内戦に敗れて49年に台湾に逃れた。「中華民国が中国の正統政権」との立場を貫き、大陸反攻を旗印に長期の戒厳令を敷いた。台湾経済の発展の基礎を作ったが2・28事件など厳しい民衆弾圧にも関与した。75年に総統のまま死去。78年に長男の蒋経国が総統に就き、国民党一党独裁体制を継承した。

(2009-04-21 朝日新聞 朝刊 1外報)

出典|朝日新聞掲載「キーワード」
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

しょう‐かいせき〔シヤウ‐〕【蒋介石】

[1887~1975]中国の政治家。中華民国総統。浙江(せっこう)省奉化(ほうか)の人。字(あざな)は中正。孫文に師事し、黄埔(こうほ)軍官学校を創設、革命軍を養成して北伐を成功させた。のち、国民政府主席となり、反共政策を推進。抗日戦争では国共合作により共産党と協力したが、第二次大戦後、国共内戦に敗れ、1949年台湾に退いた。チアン=チエシー。

チアン‐チエシー【蒋介石】

しょうかいせき(蒋介石)

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

蒋介石【しょうかいせき】

中国の軍人,政治家。中華民国総統。浙江省の人。四大家族の一人。1907年日本の陸軍士官学校に留学。浙江財閥の政治的代表者陳其美(ちんきび)や孫文と接し中国同盟会に入る。
→関連項目汪兆銘カイロ会談呉稚暉山東出兵塘沽停戦協定中国国民党中山艦事件中正紀念堂張群陳嘉庚陳誠陶希聖頭山満トラウトマン工作南京国民政府南京事件白崇禧馮玉祥武漢政府楊虎城ラティモア藍衣社李済深李宗仁

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

蒋介石 しょう-かいせき

1887-1975 中国の軍人,政治家。
光緒(こうしょ)13年10月31日生まれ。日本に留学し,孫文(そん-ぶん)の中国同盟会にはいる。帰国して辛亥(しんがい)革命に参加。黄埔(こうほ)軍官学校校長,国民革命軍総司令などをへて1928年国民政府主席となる。共産党を弾圧したが,西安事件で抗日のための第2次国共合作に合意。1948年中華民国総統。翌年国共内戦に敗れて台湾にのがれ,以後その死まで中華民国総統をつとめた。1975年4月5日死去。89歳。浙江(せっこう)省出身。字(あざな)は中正。
【格言など】怨みに報いるに徳を以てす(敗戦国日本に対して)

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

蒋介石
しょうかいせき
Jiang Jie-shi

[生]光緒13(1887).10.31. 浙江,奉化
[没]1975.4.5. 台北
中国,台湾の軍人,政治家。光緒 31 (1905) 年寧波の箭金学堂に入学し,翌年日本に短期留学。 1907年保定軍官学校に入学し,翌年日本に渡って振武学校砲兵科に学ぶ。同年陳其美の紹介で中国革命同盟会に加盟。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

蒋介石
しょうかいせき / チヤンチエシー
(1887―1975)

中国の政治家。中華民国総統。字(あざな)は中正。
 浙江(せっこう)省奉化県の由緒ある塩商の家に生まれる。郷里の学堂で学んだのち1907年に保定軍官学校に入学。1908年(明治41)には日本へ留学して東京の振武学校(中国留学生のための陸軍士官学校予備学校)を1910年に卒業、新潟県高田の野砲兵第一三連隊に配属された。留学中に、東京で孫文(そんぶん)らの中国同盟会に加入し、1911年の辛亥(しんがい)革命に際しては張群(ちょうぐん)とともに帰国して革命に投じた。孫文の信用を得、1923年、孫文の命令でソ連の軍事事情を視察後、翌1924年に黄埔(こうほ)軍官学校初代校長に就任した。1925年の孫文死後は国民党二全大会で中央執行委員となり、同時に国共合作下の国民革命軍総司令に選ばれた。1926年3月、最初の反共事件としての中山艦事件で政治的地位を強化、同年7月、北伐を開始したが、翌1927年4月、上海(シャンハイ)クーデターを起こして反共攻勢に転じ、以後一貫して共産党を攻撃した。
 1928年、南京(ナンキン)に国民政府を樹立して主席となって以来、国民党内での汪精衛(おうせいえい)(汪兆銘(おうちょうめい))との対立や閻錫山(えんしゃくざん)、馮玉祥(ふうぎょくしょう)らの反蒋軍閥による数次の抵抗に出会いながらも、国民党の実権をほぼ一貫して掌握した。1934年には一種の精神復興運動である新生活運動を唱導し、この間、蒋・孔(こう)・宋(そう)・陳(ちん)のいわゆる「四大家族」を中心とした浙江財閥を育成して自己の財政的支柱とした。1936年の西安(せいあん)事件で捕らえられ、抗日民族統一戦線の形成に同意したが、1937年の日中戦争で政府を重慶(じゅうけい)に移したのちの抗日戦争中もしばしば反共政策を断行した。1945年、抗日戦争勝利後は重慶で毛沢東(もうたくとう)との国共和平交渉に臨んだが、翌1946年にはふたたび国共内戦が勃発(ぼっぱつ)、1948年には新しい憲政下の初代総統に就任。1949年1月いったん辞任。同年大陸を失陥し台湾へ逃れた。1950年総統に復帰。以後、台湾での統治には意を用いつつ反共復国を目ざし、アジアの代表的な反共政治家として活躍した。1975年4月5日台北で死去。
 彼の独裁を非難する声とともに、第二次世界大戦終戦に際し「暴に報ゆるに怨をもってせず」と放送して日本軍の降服を受け入れたことを評価する声も高い。1927年、それまでの妻を離別して浙江財閥出身で孫文夫人(宋慶齢(そうけいれい))の妹、宋美齢(そうびれい)と結婚。前妻の産んだ長男の蒋経国(しょうけいこく)が総統の地位を継いだ。[中嶋嶺雄]
『『蒋介石秘録』全15巻(1975~1977・サンケイ出版) ▽楊逸舟著『蒋介石評伝』上下(1979、1983・共栄書房)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

蒋介石の関連キーワードサルダニャ蒋経国葉剣英スキピオ職業政治家NCPACネウィン白崇禧ジョージCマーシャル煕洽

今日のキーワード

大寒

二十四節気の一つ。元来,太陰太陽暦の 12月中 (12月後半) のことで,太陽の黄経が 300°に達した日 (太陽暦の1月 20日か 21日) から立春 (2月4日か5日) の前日までの約 15日間で...

続きを読む

コトバンク for iPhone

蒋介石の関連情報