藤原長兼(読み)ふじわらのながかね

朝日日本歴史人物事典 「藤原長兼」の解説

藤原長兼

生年生没年不詳
平安末・鎌倉初期の公卿。号は三条中納言。権中納言長方と藤原通憲(法名信西)の娘の子。初名頼房。蔵人頭,左大弁を経て建永1(1206)年参議。承元3(1209)年権中納言。建暦1(1211)年辞す。建保2(1214)年出家。九条家とのかかわりが深く,兼実,良経,道家の家司として仕えた。厳格な性格で政務に勤め,日記『三長記』ではしばしば当時の朝廷の人々の怠慢や退廃を嘆いている。儀式作法や詩歌に優れ『尊卑分脈』には「文者三卿の内」とある。藤原定家は日記『明月記』で「自分をたのむあまり,他人を軽んじ驕った言動をしたが,晩年はみじめで子孫は衰えた」と評した。

(吉田早苗)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原長兼」の解説

藤原長兼 ふじわらの-ながかね

?-? 鎌倉時代の公卿(くぎょう),漢詩人。
藤原長方次男。母は藤原通憲(みちのり)の娘。正三位,権(ごんの)中納言となる。才学にすぐれて「文者三卿の内」と称され,「資実(すけざね)長兼両卿百番詩合」などに詩句をおさめる。建保(けんぽ)2年(1214)出家。三条中納言入道とよばれる。日記に「三長記」,故実書に「除目(じもく)撰定抄」。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の藤原長兼の言及

【三長記】より

…藤原(三条)長兼の記した日記。長兼は藤原通憲(信西)を母方の祖父にもつ鎌倉時代初期の公家。…

※「藤原長兼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android