藤津庄(読み)ふじつのしよう

日本歴史地名大系 「藤津庄」の解説

藤津庄
ふじつのしよう

藤津郡鹿島市一帯の地。「三代実録」の貞観八年(八六六)七月一五日の記事にある対馬討取りの陰謀事件(→藤津郡は、発生前に大宰府に知れてしまったため、荷担者である基肄郡擬大領山春永・藤津郡領葛津貞津・高来たかき郡擬大領大刀主・彼杵そのぎ郡人永岡藤津らはそれぞれ処罰され、葛津立ふじつたち国造以来、鹿島地方を中心に勢力を温存していた葛津氏は、この事件とともに藤津郡司を免ぜられ、郡司としての葛津氏は滅亡したとみられる。

この頃、時康親王(のちに光孝天皇)が大宰府の長官である大宰帥であったため、藤津郡域は、親王と密接な関係にあった仁和にんな寺の荘園として施入され「藤津庄」が設定されたと考えられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

《料理されるためにまないたにのせられた魚の意から》相手のなすに任せるより方法のない運命のたとえ。まないたの鯉こい。[類語]俎板まないたの鯉こい・薬缶やかんで茹ゆでた蛸たこのよう・手も足も出ない...

俎上の魚の用語解説を読む