平正盛(読み)タイラノマサモリ

デジタル大辞泉 「平正盛」の意味・読み・例文・類語

たいら‐の‐まさもり〔たひら‐〕【平正盛】

平安後期の武将清盛祖父白河上皇に認められ、伊勢守・因幡いなば守・讃岐さぬき守などを歴任伊勢平氏興隆の基を築いた。生没年未詳。

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精選版 日本国語大辞典 「平正盛」の意味・読み・例文・類語

たいら‐の‐まさもり【平正盛】

  1. 平安末期の武将。正衡の子。清盛の祖父。伊賀の私領六条院に寄進して白河法皇の寵を得、源義親、平直澄を討って従四位上となる。また、白河法皇の造寺・造塔に成功(じょうごう)を重ね、伊勢・因幡・讚岐の守などを歴任。伊勢平氏の興隆の道を開いた。生没年不詳。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「平正盛」の意味・わかりやすい解説

平正盛
たいらのまさもり

生没年不詳。平安後期の武将。伊勢平氏(いせへいし)の平正衡(まさひら)の子。清盛(きよもり)の祖父。1097年(承徳1)、伊賀国鞆田荘(ともだのしょう)(三重県伊賀市)を白河(しらかわ)上皇の愛娘郁芳門院(いくほうもんいん)の菩提(ぼだい)所である六条院御堂(みどう)に寄進して上皇に接近した。やがて白河上皇の北面武士(ほくめんのぶし)となり、検非違使(けびいし)、追討使などに任命され、白河院政を支える武士団の中心に成り上がっていった。1108年(天仁1)に出雲(いずも)国における源義親(よしちか)の反乱を追討して武名をあげ、その後も、14年(永久2)に伊予国の海賊を、19年(元永2)には肥前国の平直澄(なおずみ)の乱を鎮圧するなど活躍した。その間、隠岐(おき)、若狭(わかさ)、因幡(いなば)、但馬(たじま)、丹後(たんご)、備前(びぜん)などの受領(ずりょう)を歴任して経済的基礎を固めるとともに武士団を形成し、伊勢平氏が中央政界へ進出する基盤を築いた。

[田中文英]

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朝日日本歴史人物事典 「平正盛」の解説

平正盛

没年:保安2(1121)
生年:生年不詳
平安末期の武将。院近臣。正衡の子。桓武平氏の一系統である伊勢平氏に属す。承徳1(1097)年,所領伊賀国山田(三重県大山田村,上野市)・鞆田村(阿山町)を,白河法皇が皇女郁芳門院の菩提を弔って建立した六条院に寄進し,以後,院近臣となる。院に接近した背景には,有力な院近臣藤原顕季,藤原為房らとの結びつきや,法皇の寵妃祇園女御に奉仕していたことも関係したとされる。因幡守在任中の天仁1(1108)年,出雲国で目代を殺害した源義親を追討,武士の第一人者となる。この直後の除目で,「最下品」(侍身分)でありながら帰京を待たず「第一国」但馬守に遷任したとして,貴族の嫉視を受ける。以後,丹後・備前・讃岐守などを歴任,従四位下に至る。天永1(1110)には本拠の六波羅に私堂を建立,3年後には同所で白河法皇の方違御幸,祇園女御の一切経供養が行われる。また法皇に対する成功に努め,尊勝寺曼荼羅堂,その御願寺九体阿弥陀堂を建立。一方,北面武士の中心として子の忠盛らと京における悪僧強訴の防御や,強盗追捕に従事。さらに西国でも活躍,備前守在任中の永久2(1114)年には海賊を追討,さらに元永2(1119)年には本家に背いて預所に暴行した仁和寺領肥前国(佐賀県)藤津荘司平直澄を院宣により追討,荘園制秩序を守る警察力としての役割を果たす。この際,「西海・南海の名士」を統率し,同地に平氏勢力を浸透させた。正盛は院近臣・武士の両面で,伊勢平氏が大きく発展する基礎を築いたといえる。<参考文献>高橋昌明『清盛以前―伊勢平氏の興隆』

(元木泰雄)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「平正盛」の意味・わかりやすい解説

平正盛 (たいらのまさもり)

平安末期の武士。生没年不詳。出羽守正衡の子。隠岐守在任中の1097年(承徳1)伊賀国の所領を媞子内親王の菩提所六条院に寄進して以来白河院の近臣化し,祇園女御,藤原顕季らと結んで勢力を伸張した。上皇の造寺・造塔に力を尽くし,1108年(天仁1)源義親を追討,西海の海賊追捕や延暦寺衆徒の強訴の阻止などに活躍。若狭・因幡・但馬・丹後・備前・讃岐の各国守を歴任,従四位下に達する。讃岐守在任中の1121年(保安2)60歳をすぎて没したと推測される。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「平正盛」の意味・わかりやすい解説

平正盛【たいらのまさもり】

平安中期の武士。生没年不詳。伊賀国の所領を白河上皇皇女郁芳門(いくほうもん)院菩提所六条院に寄進して上皇の寵を得,白河院政と密着して伊勢平氏の基礎を固めた。→平氏
→関連項目平忠正

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「平正盛」の解説

平正盛
たいらのまさもり

生没年不詳。平安後期の武将。正衡(まさひら)の子。忠盛の父。1097年(承徳元)伊賀国の所領を媞子(ていし)内親王(白河上皇の女)の菩提所六条院に寄進。これをきっかけに白河上皇に接近し,院北面の武士として近臣となり,伊勢平氏台頭の基礎を築いた。1108年(天仁元)源義親を討ち但馬守となる。海賊追捕に活躍し,僧徒の強訴を阻止して武名をあげた。この間各地の国司を歴任。従四位下右馬権頭を極位極官とする。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「平正盛」の解説

平正盛 たいらの-まさもり

?-? 平安時代後期の武人。
平清盛の祖父。永長2年(1097)に伊賀(いが)の所領を六条院に寄進して白河法皇に接近,北面の武士となる。源義親(よしちか)の反乱追討や,伊予(いよ)の海賊の追捕(ついぶ)に活躍。また法皇の造寺,造塔にも功をたて,因幡(いなば),讃岐(さぬき)などの国司もつとめ,伊勢平氏の中央進出の基礎をきずいた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「平正盛」の意味・わかりやすい解説

平正盛
たいらのまさもり

平安時代末期の武将。出羽守正衡の子。伊勢,伊賀に私領を有し,六条院に領地を寄進してから,白河法皇の信任を得た。天仁1 (1108) 年源義親追討によって一躍平氏の名をあげ,また海賊や平真澄を討ち,従四位下となり,法皇の信任を背景に,伊勢平氏隆盛の基礎を築いた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「平正盛」の解説

平正盛
たいらのまさもり

生没年不詳
平安後期の武将
正衡 (まさひら) の子。白河法皇の寵を得,累進して因幡守となった。1108年源義親(義家の子)の乱を平定。海賊や僧兵の追討に活躍した。源氏に代わって台頭し,伊勢平氏興隆の基礎を築いた。

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世界大百科事典(旧版)内の平正盛の言及

【伊勢国】より

…旧国名。勢州。現在の三重県東部。
【古代】
 東海道に属する大国(《延喜式》)。国名は,〈伊勢国風土記〉逸文に,伊勢津彦が国土を献じ,風を起こし波に乗って東方に去ったので,神武天皇の命により国神の名をとって命名したという説話がある。〈神風の〉という伊勢の枕詞もこれによる。国府は現,鈴鹿市国府町にあった。桑名,員弁(いなべ),朝明(あさけ),三重,鈴鹿,河曲(かわわ),奄芸(あむぎ∥あんへ),安濃,壱志(いちし),飯高,多気(たけ),飯野,度会(わたらい)の13郡を管する。…

【桓武平氏】より

…賜姓平氏のうち桓武天皇の皇子・皇孫に系譜をもつものの称(図)。桓武平氏に葛原(かつらはら)親王流・万多(まんだ)親王流・仲野親王流・賀陽(かや)親王流などがあり,さらに葛原親王流も高棟(たかむね)王流と高望(たかもち)王流とに分かれる。しかし,一般にはこれらの諸流のうちとくに高望王流の平氏を桓武平氏という場合が多い。
[東国の諸平氏]
 葛原親王の子高見王(高棟王の弟)の子が高望王で,彼は889年(寛平1)8月に平姓を与えられ,上総介になったことから,その子孫が東国地方に繁衍(はんえん)する基が開かれた。…

【源義親】より

…しかし,その後義親は九州より山陰に赴き,出雲で目代(もくだい)を殺害,官物(かんもつ)を押し取った。06年(嘉承1)父義家が没し,翌07年平正盛が追討使に抜擢(ばつてき)されて下向,翌年1月6日義親は正盛に出雲で討たれた。この事件が平氏台頭の直接的契機となった。…

※「平正盛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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