生没年不詳。平安後期の武将。伊勢平氏(いせへいし)の平正衡(まさひら)の子。清盛(きよもり)の祖父。1097年(承徳1)、伊賀国鞆田荘(ともだのしょう)(三重県伊賀市)を白河(しらかわ)上皇の愛娘郁芳門院(いくほうもんいん)の菩提(ぼだい)所である六条院御堂(みどう)に寄進して上皇に接近した。やがて白河上皇の北面武士(ほくめんのぶし)となり、検非違使(けびいし)、追討使などに任命され、白河院政を支える武士団の中心に成り上がっていった。1108年(天仁1)に出雲(いずも)国における源義親(よしちか)の反乱を追討して武名をあげ、その後も、14年(永久2)に伊予国の海賊を、19年(元永2)には肥前国の平直澄(なおずみ)の乱を鎮圧するなど活躍した。その間、隠岐(おき)、若狭(わかさ)、因幡(いなば)、但馬(たじま)、丹後(たんご)、備前(びぜん)などの受領(ずりょう)を歴任して経済的基礎を固めるとともに武士団を形成し、伊勢平氏が中央政界へ進出する基盤を築いた。
[田中文英]
(元木泰雄)
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平安末期の武士。生没年不詳。出羽守正衡の子。隠岐守在任中の1097年(承徳1)伊賀国の所領を媞子内親王の菩提所六条院に寄進して以来白河院の近臣化し,祇園女御,藤原顕季らと結んで勢力を伸張した。上皇の造寺・造塔に力を尽くし,1108年(天仁1)源義親を追討,西海の海賊追捕や延暦寺衆徒の強訴の阻止などに活躍。若狭・因幡・但馬・丹後・備前・讃岐の各国守を歴任,従四位下に達する。讃岐守在任中の1121年(保安2)60歳をすぎて没したと推測される。
執筆者:高橋 昌明
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生没年不詳。平安後期の武将。正衡(まさひら)の子。忠盛の父。1097年(承徳元)伊賀国の所領を媞子(ていし)内親王(白河上皇の女)の菩提所六条院に寄進。これをきっかけに白河上皇に接近し,院北面の武士として近臣となり,伊勢平氏台頭の基礎を築いた。1108年(天仁元)源義親を討ち但馬守となる。海賊追捕に活躍し,僧徒の強訴を阻止して武名をあげた。この間各地の国司を歴任。従四位下右馬権頭を極位極官とする。
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…旧国名。勢州。現在の三重県東部。
【古代】
東海道に属する大国(《延喜式》)。国名は,〈伊勢国風土記〉逸文に,伊勢津彦が国土を献じ,風を起こし波に乗って東方に去ったので,神武天皇の命により国神の名をとって命名したという説話がある。〈神風の〉という伊勢の枕詞もこれによる。国府は現,鈴鹿市国府町にあった。桑名,員弁(いなべ),朝明(あさけ),三重,鈴鹿,河曲(かわわ),奄芸(あむぎ∥あんへ),安濃,壱志(いちし),飯高,多気(たけ),飯野,度会(わたらい)の13郡を管する。…
…賜姓平氏のうち桓武天皇の皇子・皇孫に系譜をもつものの称(図)。桓武平氏に葛原(かつらはら)親王流・万多(まんだ)親王流・仲野親王流・賀陽(かや)親王流などがあり,さらに葛原親王流も高棟(たかむね)王流と高望(たかもち)王流とに分かれる。しかし,一般にはこれらの諸流のうちとくに高望王流の平氏を桓武平氏という場合が多い。
[東国の諸平氏]
葛原親王の子高見王(高棟王の弟)の子が高望王で,彼は889年(寛平1)8月に平姓を与えられ,上総介になったことから,その子孫が東国地方に繁衍(はんえん)する基が開かれた。…
…しかし,その後義親は九州より山陰に赴き,出雲で目代(もくだい)を殺害,官物(かんもつ)を押し取った。06年(嘉承1)父義家が没し,翌07年平正盛が追討使に抜擢(ばつてき)されて下向,翌年1月6日義親は正盛に出雲で討たれた。この事件が平氏台頭の直接的契機となった。…
※「平正盛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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