裳懸庄(読み)もかけのしよう

日本歴史地名大系 「裳懸庄」の解説

裳懸庄
もかけのしよう

寛永備前国絵図にみえる東藻懸村(のちの虫明村)、西藻懸村(のちの福谷村)を遺称地とする。藤原氏の氏長者に伝領される殿下渡領地頭は小早川氏が相伝した。正応元年(一二八八)一一月二一日の将軍家政所下文で山名景家・河辺景通ら跡の地頭職が美作四郎法師定心(小早川政景)に、在京奉公の労として宛行われている。翌年二月一六日、定心は子政宗に譲り、以後、地頭職および所職は小早川氏の間で譲られていった。貞治二年(一三六三)六月二九日の重景から重宗への譲状では分割相続から単独相続への移行がみられるが、宝徳二年(一四五〇)正月二九日の盛景より弘景への譲状(以上小早川家文書)を最後として、小早川家文書から庄名が消え、同氏の手を離れたと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...

ベートーベンの「第九」の用語解説を読む