朝日日本歴史人物事典 「西八条禅尼」の解説
西八条禅尼
生年:建久4(1193)
鎌倉時代の公家の女性。坊門信清の娘。元久1(1204)年,将軍源実朝の御台所として鎌倉に下向。この婚姻は,鎌倉幕府と朝廷の融和策として最上の手段であり,父信清は,幕府に朝廷側の意向を代弁する立場に立つことになった。実朝との仲は睦まじく,その母政子ともよく寺や堂に参詣している。たとえば,建保1(1213)年の和田義盛の乱で営中が焼失したとき,実朝,御台所,政子は相次いで大江広元亭に入った。政子の意見により,実朝の兄頼家の娘を猶子としたこともあった。なお,御台所に祗候する侍には地頭職が与えられており,御家人層にとって主君の立場にあったことがわかる。承久1(1219)年,実朝が殺害され出家。京都に住み,本覚尼とも呼ばれた。同3年の承久の乱で後鳥羽上皇方にくみした兄坊門忠信の助命を政子に願い,許されている。また亡夫実朝の菩提を弔うため西八条邸内に遍照心院を建立,自ら置文を定めた。
(田端泰子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報