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源実朝 みなもとのさねとも

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

源実朝
みなもとのさねとも

[生]建久3(1192).8.9. 鎌倉
[没]承久1(1219).1.27. 鎌倉
鎌倉幕府第3代の将軍,歌人。父は第1代将軍頼朝。母は政子。幼名,千幡。建仁3 (1203) 年,外戚北条氏に廃された兄頼家に代って将軍となり,右大臣正二位にいたったが,鶴岡八幡宮の社頭で頼家の遺児公暁に殺された。渡宋を企てたこともあったが,果さなかった。京都の貴族文化,文学を愛し,坊門信清の娘を妻とした。早くから作歌に親しみ,家臣を通じて藤原定家の指導を受けた。定家の歌論書『近代秀歌』は実朝に進献されたものである。天性の歌人で,万葉風の作品は特にすぐれており,後世,賀茂真淵正岡子規斎藤茂吉らが激賞している。家集『金槐和歌集』。

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デジタル大辞泉の解説

みなもと‐の‐さねとも【源実朝】

[1192~1219]鎌倉幕府第3代将軍。頼朝の次男。母は北条政子。幼名、千幡。頼家のあとを継いで将軍となったが、実権は北条氏が握った。のち右大臣となり、鶴岡八幡宮で頼家の子公暁(くぎょう)に殺された。藤原定家に師事、万葉調の歌をよくし、家集「金槐和歌集」がある。

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百科事典マイペディアの解説

源実朝【みなもとのさねとも】

鎌倉幕府第3代将軍。頼朝の次男。幼名千幡(せんまん)。1203年将軍となったが,幕政の実権は北条氏の手にあり,実朝は政治に意欲なく官位の昇進のみを望んだ。右大臣まで進んだが,鶴岡八幡宮で甥(おい)の公暁(くぎょう)に暗殺された。
→関連項目宇都宮歌壇近代秀歌執権政治寿福寺信生法師日記藤原頼経北条政子万葉調蒙求和歌

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

源実朝 みなもとの-さねとも

1192-1219 鎌倉幕府3代将軍。在職1203-19。
建久3年8月9日生まれ。源頼朝の子。母は北条政子。北条氏に擁立されて建仁(けんにん)3年将軍となるが,北条氏に実権をうばわれたため,官位に執着。建保(けんぽ)6年右大臣に昇進。7年1月27日鎌倉鶴岡八幡宮での拝賀式のとき,甥(おい)の公暁(くぎょう)に暗殺された。28歳。藤原定家に師事し,万葉調の歌人としても名だかい。幼名は千幡(せんまん)。家集に「金槐(きんかい)和歌集」。
【格言など】世の中は常にもがもな渚(なぎさ)漕ぐ海人(あま)の小舟の綱手(つなで)かなしも(「小倉百人一首」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

源実朝

没年:承久1.1.27(1219.2.13)
生年:建久3.8.9(1192.9.17)
鎌倉幕府第3代将軍。頼朝と北条政子の次男として頼朝が征夷大将軍に補任された直後に生まれる。頼朝は幕府の有力者を集めてその将来の守護を頼んでおり,また兄頼家と違って祖父北条時政の保護の下で大きな期待をかけられて成長。頼家が跡を継いで将軍となり有力御家人との対立が深まるにつれ,その存在は次第に重みを増していき,頼家が重病になった建仁3(1203)年8月には関西38カ国の地頭職を譲られ,9月2日に頼家が比企氏の乱により伊豆に幽閉されると,ついに将軍に立てられた。当初は時政や政子,北条義時の補佐,後見を必要としたが,元久1(1204)年7月には直接に政道を聴断し,やがて将軍家政所を整備し政所を中心にした幕府の訴訟,政治制度を充実させていった。承元3(1209)年に従三位になって公家に列すると,将軍家政所下文を発して政所に実権を集め,次々と新たな政策を展開していった。その政治には京都の政治の影響が強く,また積極的に京風の文化を取り入れた。京都から侍読を招き,御台所に足利義兼の娘が決まっていたのを覆えして後鳥羽上皇の寵愛する西御方の姉妹で坊門信清の娘を妻にしている。 後鳥羽上皇が熱中していた蹴鞠と和歌にも,「当代は歌鞠をもって業となす,武芸廃れるに似たり」と批判されるほどに執心した。承元3年7月には詠んだ和歌30首を藤原定家に送って指導を求めており,和歌は死後に『金槐和歌集』としてまとめられた。こうした文化を幕府に移植するため,御所の寝殿を中心とする文化空間を整備し,東国に京風の文化空間を創っていった。しかし,子が生まれなかったことから後継者問題が起きて,政子は上洛して後鳥羽上皇の皇子頼仁を後継者として迎える約束をとりつけた。後鳥羽上皇は実朝を受け皿にして意のままになる幕府を構想したのであろう。かくしてその官位は次々と上昇していったが,それは関東の御家人に大きな危惧を生んだ。特に和田合戦では北条義時が表に立てて戦っただけに後遺症は大きく,合戦後,反北条勢力の御家人の批判と京の勢力との板挟みにあい,精神的にまいったが,それを慰めたのが栄西である。建保2(1214)年2月4日には中国伝来の良薬を勧め,その効能を記した書『喫茶養生記』を進呈した。次いで現れたのは東大寺の大仏を鋳た宋人陳和卿で,その影響で唐船を建造して渡宋を試みたが,船は由比の浦に浮かばず朽ち果てる。次いで建保4年に政所の充実をはかったが,京の勢力を警戒する動きが強まり,承久1(1219)年1月に右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に詣でた直後に甥の公暁によって侍読の源仲章と共に殺害された。<参考文献>吉本隆明『源実朝』,五味文彦『吾妻鏡の方法』

(五味文彦)

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世界大百科事典 第2版の解説

みなもとのさねとも【源実朝】

1192‐1219(建久3‐承久1)
鎌倉幕府第3代将軍。歌人。1192年8月9日源頼朝と北条時政女政子の次男として鎌倉に生まれた。幼名を千幡(万)(せんまん)という。父頼朝の死後征夷大将軍に補任された兄頼家が廃されたため,1203年(建仁3)9月征夷大将軍の職を継いだ。早くから京の文化にあこがれ,04年(元久1)後鳥羽上皇の母七条院の姪に当たる坊門家の権大納言藤原信清の女子を迎えて妻とした。院政を執る後鳥羽上皇は実朝のこうした性向を利用して鎌倉幕府を制御しようとし,実朝もこれに応ずる意志をいだいていた。

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大辞林 第三版の解説

みなもとのさねとも【源実朝】

1192~1219) 鎌倉幕府三代将軍。頼朝の二男、頼家の弟。母は北条政子。幼名、千幡せんまん。1203年将軍となるが実権は北条氏が握った。18年右大臣。翌年正月、鶴岡八幡宮社頭で甥の公暁くぎように暗殺され、頼朝直系の子孫は断絶。万葉調の和歌に秀で、家集「金槐和歌集」がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

源実朝
みなもとのさねとも
(1192―1219)

鎌倉幕府第3代将軍。源頼朝(よりとも)の二男。母は北条政子(ほうじょうまさこ)。幼名千幡(せんまん)。1203年(建仁3)北条時政(ときまさ)が2代将軍頼家(よりいえ)を倒したとき、後を継ぐ千幡に朝廷から実朝の名を賜り、征夷(せいい)大将軍に任ぜられた。時政は政所別当(まんどころべっとう)をその手に収めて独裁政治の一歩を踏み出し、源氏の功臣畠山重忠(はたけやましげただ)その他を倒してその勢いを示した。実朝は、もはや政治上に多くを期待しえないことを知って、むしろ京都風の文化と生活とを享受する楽しみに意をもっぱらにし、夫人も都から迎え、右大臣の高官を望むという風であった。そのため関東武士の信望はしだいに薄らいだ。北条義時(よしとき)はこの情勢を利用して、源氏将軍断絶の計画を推し進めたと思われる。義時は1213年(建保1)関東の大勢力たる和田義盛(わだよしもり)を倒し、義盛の帯していた侍所(さむらいどころ)別当をあわせて、北条氏による執権(しっけん)政治の基礎を築いた。そして実朝に実子がないため、将来皇族を将軍に迎える方針をたてた。一方朝廷側は、1219年(承久1)実朝に右大臣の官を授けた。しかしそれは身分不相応の高い官を与えて、自滅させる「官打ち」を目的としたものと噂(うわさ)された。正月27日、実朝は鎌倉鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)でその拝賀式を行ったが、甥(おい)公暁(くぎょう)のために殺され、ここに源氏の正統は絶え、源氏将軍も3代で断絶した。
 実朝は和歌を熱愛し、藤原定家(ていか)の指導を受けて『万葉集』『古今和歌集』をはじめ、古来の和歌を研究して独自の歌風を大成した。その家集『金槐(きんかい)和歌集』3巻は約700首の詠を収めており、古今の絶唱と高く評価されるものをも含んでいる。[多賀宗隼]
『吉本隆明著『日本詩人選 源実朝』(1971・筑摩書房)』

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世界大百科事典内の源実朝の言及

【官打ち】より

…官職の等級が分不相応に高くなりすぎて負担が増し,かえって不幸な目にあうことをいう。《承久記》には,後鳥羽上皇が討幕を決意した確実な証拠として,源実朝が希望する以上に彼の官位を昇進させ,〈官打〉にしようとしたこと,ほかがあげられている。確かに,1218年(建保6)に入ってから実朝の昇進は尋常でなく,正月に権大納言に昇ったのを皮切りに,左大将,内大臣を経て,暮れには右大臣に至った。…

【金槐和歌集】より

源実朝(みなもとのさねとも)の家集。1巻。…

【陳和卿】より

…鋳造の間には河内鋳師と争いを起こし,大仏殿の用材を利用して勝手に唐船を造るなど,巧匠ではあるが驕慢な人物と評されている。1216年(建保4)鎌倉に下り,将軍源実朝の中国育王山参拝の夢を果たすべく唐船を造ったが,失敗に終わる。予想より船の重量が大きくなりすぎ,進水しなかったためらしい。…

【北条時政】より

…鎌倉幕府の初代執権。時方の子。母は伊豆掾伴為房の娘。伊豆国北条(現,静岡県韮山町)を本拠とする在庁官人で,北条四郎と称した。源頼朝が伊豆に流されていたとき,娘の北条政子が頼朝の妻となるのを許した。1180年(治承4)頼朝が平氏打倒の兵を挙げるとこれを助け,まず伊豆の目代山木兼隆(やまきかねたか)を討った。しかし相模の石橋山の戦には敗れて安房に逃れた。ついで頼朝の命を受けて甲斐に赴き,同国の武田信義らを味方につけ,甲斐,信濃の源氏を伴って頼朝の本隊に合流し,駿河の富士川の戦で平維盛の東征軍を敗走させた。…

※「源実朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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