曾我兄弟
そがきょうだい
(兄) 祐成 (すけなり) 承安2(1172)~建久4(1193).5.28.
(弟) 時致 (ときむね) 承安4(1174)~建久4(1193).5.29.
平安時代末期~鎌倉時代初期の武士。仇討ちで有名。伊豆国の河津祐泰の子。父が安元2 (1176) 年に殺され,のち母が曾我祐信に再嫁したため曾我姓を称した。父の仇工藤祐経を討つ機会をうかがっていた2人は,建久4 (93) 年5月源頼朝の狩猟旅行に随行した祐経を富士山麓の野営地に夜襲して殺した。2人は野営地警備の武士たちと雨中で戦い,十郎祐成は仁田忠常に斬られ,五郎時致は捕えられて翌日斬首された。この事件はのち『曾我物語』として脚色され,世に広く流布した。
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そが‐きょうだい ‥キャウダイ【曾我兄弟】
鎌倉初期の武士。兄祐成
(すけなり)と弟時致
(ときむね)。父は伊豆の豪族河津祐泰。兄弟が幼少の時に、父は工藤祐経に殺され、母の再嫁によって
曾我氏を称した兄弟は、建久四年(
一一九三)富士野の狩場で父の仇を討ちとったが、兄は仁田忠常に討たれ弟は五郎丸に生捕りにされ殺された。この仇討ちについては、「吾妻鏡」「
曾我物語」に記され、謡曲、幸若舞、浄瑠璃、歌舞伎などの素材となり、後世に伝えられた。→
曾我祐成・
曾我時致
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曾我兄弟【そがきょうだい】
鎌倉初期の武士,曾我十郎祐成(すけなり)〔1172-1193〕・五郎時致(ときむね)〔1174-1193〕兄弟をいう。伊豆の豪族河津祐泰(すけやす)の子。父が工藤祐経に殺されたあと母の再嫁で曾我氏を称した。1193年富士の巻狩の際,父の仇(あだ)祐経を討ったが,祐成は仁田(にった)忠常に討たれ,時致は捕らえられて殺された。→曾我物語
→関連項目伊東祐親|笠懸|敵討|曾我物|虎御前|巻狩
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そがきょうだい【曾我兄弟】
鎌倉時代の初期の武士。兄を曾我十郎祐成(すけなり)(幼名一万,1172‐93),弟を五郎時致(ときむね)(幼名箱(筥)王,1174‐93)という。平将門の乱のときの常陸国司藤原惟幾の子孫を称する工藤氏の人。伊豆の国衙有力官人として伊豆半島海岸一帯に勢力をはった有力武士団工藤氏のなかで,伊東祐親(兄弟の祖父),河津祐通(泰)(兄弟の父)父子と工藤祐経(すけつね)との間で所領相論がおこり,1176年(安元2)祐通が祐経の従者によって殺害された。
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世界大百科事典内の曾我兄弟の言及
【朝比奈義秀】より
…しかし,《平家物語》などの軍記物に華々しく朝比奈の活躍が描かれているわけではない。《源平盛衰記》などに一騎当千の女武者巴御前の子であったとするほか,《曾我物語》に曾我兄弟のよき理解者として登場し,五郎との力比べのことが見え近松門左衛門の曾我物に受け継がれ,《太平記》などに大力として和泉小次郎と名前を併記されている程度である。朝比奈の武勇譚の淵源は《吾妻鏡》,とくに和田合戦の記述にあったとみられる。…
【仇討物】より
…歌舞伎における〈曾我物〉は格別の人気狂言で,享保以後江戸の劇場では毎年の初春狂言の世界を〈曾我物語〉とするのが吉例になった。幼少にして父を討たれた五郎・十郎兄弟(曾我兄弟)が,苦節18年の臥薪嘗胆のすえに敵工藤祐経を討ち本懐を遂げたという物語そのものが,あらゆる意味で日本人の情念に強く訴える条件をもっていたのが〈曾我物〉盛行の原因である。それは〈曾我物〉に限らず,〈仇討物〉全般に共通する観客(読者)の好みの反映であった。…
【鬼王・団三郎】より
…ただし,鬼王・団三郎は能や歌舞伎の曾我物での呼称であり,《曾我物語》では鬼王丸・丹三郎(真名本),鬼王・道三郎(仮名本)である。幼少のころより曾我兄弟に仕え,片時も離れず付き従っていたと《曾我物語》にあるが,実際に物語中に登場するのは後半になってからのことであり,2人の登場には不審な点がある。鬼王・団三郎は,富士の狩場へ仇討に向かう曾我兄弟に同行し,兄弟の形見を曾我の里へ届けると同時に,兄弟の最期のありさまを知らせる役目をも担っていた。…
【敵討】より
…この敵討の義務について,折口信夫は,殺された者が血を流した神に対する罪を,死者のかわりにその親族が,加害者を殺すことによってあがなう一種の祓の義務に求めている。この供犠観にもとづく敵討も古い時代にあっては行われたと推定されるが,鎌倉時代においては,曾我兄弟の敵討が〈父の死骸の恥をそそぐ〉ことを目的としたように〈死骸〉の恥をはらすために行われるのが一般であった。この観念は,死骸のありかたはその人の死後の永遠の世界を決定するという考え方にもとづくもので,古い民族的信仰に根をもつものであった。…
【曾我氏】より
…系譜の上では桓武平氏の一流千葉氏に属するが,はじめて曾我を称した祐家以下の子孫が〈祐〉の1字を共有していることや,のちに陸奥国に拠点を移した子孫が伊豆に所領を相伝していることなどから考えると,下総に本拠をおく千葉氏よりも,伊豆の雄族伊東氏と縁の深い一族であったといえる。祐家の子祐信の妻に迎えられた女性が,仇討で有名な曾我兄弟の母である。曾我兄弟の実父は伊東一族の河津祐泰であるが,祐泰の死後母親が曾我に嫁したため,その連れ子である兄弟も曾我を称したのである。…
【曾我物】より
…歌舞伎十八番の《助六由縁江戸桜》の主人公が実は五郎というのはその一例である。曾我兄弟が本懐を遂げるまでに経過した年月は,悲壮に語られ,劇的な起伏を付与されて描かれるが,その間に貧窮した主人を救うために忠臣の鬼王・団三郎(どうざぶろう)が苦心する場面が挿入され,このくだりは歌舞伎のお家物の類型である。伝説として,兄弟の物語を語って歩いた虎(とら)という女性がいたが,この虎を十郎の愛人で大磯の遊女とし,同時に五郎にも化粧坂(けわいざか)の少将という女を配したのは,歌舞伎の女方がいろどりを添えるためであった。…
【虎御前】より
…鎌倉初期に相模国大磯宿の遊女であったと伝えられる女性。《曾我物語》に曾我兄弟の兄十郎祐成の愛人として登場する。《吾妻鏡》建久4年(1193)6月1日条および18日条にその名があらわれるが,実在性は疑わしい。…
【満功】より
…曾我兄弟の母の名。または東京都調布市の深大(じんだい)寺など,各地の霊山の開基の僧の名。…
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