西河合庄(読み)にしかわいのしよう

日本歴史地名大系 「西河合庄」の解説

西河合庄
にしかわいのしよう

現加西市の南東部に比定される。「和名抄」に載る賀茂かも川合かわい郷の西部地域を占め、庄域は江戸時代の常吉つねよし山枝やまえだ玉野たまの玉野新家たまのしんけ豊倉とよくら朝妻あさづま繁昌はんじよう上宮木かみみやき・下宮木・鶉野新家うずらのしんけ桑原田くわはらだ倉谷くらたに中野なかの網引あびき青野原下新田あおのはらしもしんでん田原たわらの各村域と推定される。河合郷の中央にある青野原台地を境にして賀茂郡が東西に分離したため、河合郷も同様に東河合(現小野市)・西河合に分れたとみられる。元弘三年(一三三三)五月二一日の護良親王令旨(金剛寺文書)に播磨国西河井庄とあり、後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王が西河合庄を倒幕派の拠点である河内国金剛こんごう(現大阪府河内長野市)に寄進している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

苦肉の策

敵を欺くために、自分の身や味方を苦しめてまで行うはかりごと。また、苦しまぎれに考え出した手立て。苦肉の謀はかりごと。「苦肉の策を講じる」...

苦肉の策の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android