日本歴史地名大系 「加西市」の解説 加西市かさいし 面積:一五〇・一九平方キロ(境界未定)播磨地方の北東部に位置し、市域は近世の加西郡から芳田(ほうだ)(現西脇市)・大和(やまと)(現八千代町)の両地区を除いた地域にあたる。東は西脇市・加東(かとう)郡滝野(たきの)町・小野市、南は加古川市、西は姫路市・神崎(かんざき)郡福崎(ふくさき)町、北は同郡市川(いちかわ)町・多可(たか)郡八千代(やちよ)町に接する。東西約一二キロ・南北約二〇キロ。世帯数一万五千二〇〇戸、人口五万二千九五四人(平成八年七月一日現在)。北部は播但中央山地南部にあたり、山麓を万願寺(まんがんじ)川が南流し、途中普光寺(ふこうじ)川を合せ、さらに南東流する下里(しもさと)川と合流して加古川に注ぐ。中央から南部にかけて中播丘陵が広がり、水稲を中心に大根・甘藷・葡萄などを多く産出している。中国自動車道が中央部を東西に貫通し、国道三七二号が京都方面から姫路市に向かう。また北条鉄道がJR加古川線の粟生(あお)駅(小野市)を起点として市街地中心部に至る。市域には南から網引(あびき)・田原(たわら)・法華口(ほつけぐち)・播磨下里(はりましもさと)・長(おさ)・播磨横田(はりまよこた)・北条町(ほうじようまち)の各駅がある。〔原始〕旧石器時代の遺跡は繁昌(はんじよう)・亀(かめ)ノ倉(くら)・逆池(さかさまいけ)など標高七〇メートル程度の洪積台地縁辺部や、河川沿いの微高地にある長礒(ながいそ)遺跡などから遺物が採集され、密度の高い分布が知られている。しかしほとんどが表面採集で、土層的な確認には至っていない。縄文時代の遺跡は数ヵ所で土器などが採集された。堀山(ほりやま)遺跡では発掘により中期の土壙が一基、後期の土壙が一基発見されている。弥生時代では中期初頭以降に集落が展開する。万願寺川中流域では後期の長礒遺跡、中期後半の長塚(ながつか)遺跡などが発掘されている。普光寺川流域では中期の森(もり)ノ下(した)遺跡、後期の河内向山(こうちむかいやま)遺跡などがある。北播磨を代表する古墳群地域であるが、古墳時代前期の古墳は四隅突出墳かともいわれている周遍寺山(しゆうへんじやま)一号墳など一、二が知られるにすぎない。中期の古墳群としては周濠を配した全長一〇九メートルの玉丘(たまおか)古墳を中核とする玉丘古墳群がある。また甲冑などが出土した亀山(かめやま)古墳は著名である。後期の古墳は玉丘古墳群内および周辺部、とくに万願寺川左岸域で活発となる。西部の東剣坂(ひがしけんざか)町には石棚を架けた横穴式石室がある。市域の特徴の一つに石工集団の活発な活動がある。古墳時代中期には高室(たかむろ)石切場が開発され、長持形石棺・家形石棺が造られている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「加西市」の意味・わかりやすい解説 加西〔市〕かさい 兵庫県南部,加古川中流西岸の丘陵を占める市。姫路平野の中央に位置する。1967年北条町,加西町,泉町の 3町が合体して市制。中心市街地の北条は播磨と京,山陰を結ぶ交通の中心地,旧宿場町で北条鉄道の起点。北東部の西脇市とともに播州先染織の産地として有名。第2次世界大戦中,電機工場が進出,戦後その関連工場も立地し,工業化が著しい。泉は畳表(→畳),ござ類の産地。中国縦貫自動車道の開通を機に豊倉に県立フラワーセンター,笹倉に勤労者いこいの村が設置された。北条の法華山一乗寺は西国三十三所第26番の札所で,三重塔は国宝建造物。酒見寺多宝塔は国の重要文化財。羅漢寺は五百羅漢の石仏で有名。国指定史跡の玉丘古墳群がある。南部の丘陵一帯は,播磨中部丘陵県立自然公園に属する。面積 150.98km2(境界未定)。人口 4万2700(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by