知恵蔵 「野中広務」の解説
野中広務
旧制京都府立園部中学校(現京都府立園部高等学校)を卒業後、日本国有鉄道大阪鉄道局に就職、1945年に陸軍に召集され四国で終戦を迎え復員、復職。51年に園部町町議会議員選挙に当選、52年に鉄道局を退職、後に退職の理由は職場で受けた部落差別により政治を目指したためだとする。53年には保守系代議士(当時自由党)田中好の私設秘書となり、58年に無所属で園部町長に当選。67年には京都府議会議員となり自民党に入党。78年蜷川虎三知事引退後の自民党林田悠紀夫京都府政で副知事に就任した。83年には自民党田中派の後押しで、衆議院旧京都2区補欠選挙に当選、57歳にして中央政界へ進んだ。田中・竹下派の「若手」として存在感を強め、93年の細川政権では下野した自民党にあって首相の献金疑惑追及で急先鋒(きゅうせんぽう)を担った。94年に自社さ連立の村山政権で自民党が政権に復帰すると自治大臣兼国家公安委員長として初入閣。98年7月に発足した小渕内閣で官房長官を務め、99年の自自公連立政権樹立の立役者として活躍した。2000年に脳梗塞(こうそく)で倒れた小渕恵三首相の後継として、密室で談合して森喜朗自民党幹事長を選んだ五人組の一人として批判されたものの、党幹事長に就任、当時の自民党最大派閥であった平成研究会(橋本派)を率いる「影の首相」とも呼ばれた。かつての盟友で自民党第二派閥だった宏池会の加藤紘一会長が野党と同調して森内閣不信任決議を狙った「加藤の乱」では、解散総選挙・公認取り消し・自民党除名を振りかざし加藤派の切り崩しに成功した。翌01年の森総裁辞任を受けて行われた自民党総裁選では橋本龍太郎の優位が伝えられていた。しかし、この回から県連票の枠が大幅に拡大され、地方での圧倒的な人気を背景とする小泉純一郎が総裁に就任した。野中は03年の総裁選でも反小泉を主張するが、同派閥内で小泉再選を支持する村岡兼造会長代理らを「ポスト欲しさに毒まんじゅうを食らった」と面罵し、藤井孝雄候補を擁立して臨んだが大敗して自らが政界を引退することになった。反小泉の姿勢を示す自民党議員の多くは05年の衆院選(郵政選挙)で自民党中枢から離れ、野中の影響力は失われたが、その後もマスコミや講演などで精力的に発言を続けた。17年11月末に京都市内のホテルで倒れ病院に救急搬送されていた。弱い立場の人々に対する温かみのあるまなざしや、与党の圧倒的多数をたのみとする安倍政権による憲法改正などの強引な政治姿勢に対する批判を評価する人も少なくない。
(金谷俊秀 ライター/2018年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報