改訂新版 世界大百科事典 「活劇映画」の意味・わかりやすい解説
活劇映画 (かつげきえいが)
〈活劇〉とは本来,〈活きたる演劇の意〉(平凡社《大辞典》)で,まさに活魚のごとくぴちぴちと生きて動くドラマ,人間の活発な活動を活写したものであった。したがって,〈活劇映画〉は広義にはあらゆるジャンルの映画が含まれ,同時に映画の原点そのものを意味するといってもいいが,狭義には立回りのような人間の激しい動きの場面を中心にした映画をいい,喜劇,悲劇,メロドラマなどと対照されるジャンルとなっている。ここでは日本の活劇映画を中心に記述するが,外国映画については〈アクション映画〉の項目を参照されたい。
日本映画の始まりは活劇とともにあった。映画が日本で初公開されてから2,3年後の1899年,《稲妻強盗》とも《ピストル強盗清水定吉》とも呼ばれる映画がつくられ,2分たらずのものながら,俳優を使っての日本最初の劇映画とされている。強盗が格闘ののちに刑事に逮捕されるという内容からして,まさしく活劇以外のなにものでもなかった。次いで,最初の映画監督牧野省三と,1909年の同監督作品《碁盤忠信》でデビューした最初の映画スター尾上松之助とのコンビが量産した約500本の映画も,ほとんどが忍術や立回りを中心としたもので,活劇と呼んでいい。こうした活劇の素地に,さらに外国映画の影響があった。11年,フランスの探偵活劇《ジゴマ》が大ヒットして,《日本ジゴマ》《ジゴマ大探偵》などの〈和製ジゴマ〉が量産され,翌年には青少年への悪影響を理由にいっさいの〈ジゴマ〉映画が上映禁止になるほどであった。このような状況のもとで,12年,本格的活劇の第1号といわれる《火の玉小僧》がつくられたのである。また,このころ,アメリカのスラプスティック,いわゆるどたばた喜劇が人気を呼んだことも活劇熱をあおった。〈活劇〉という語が用いられ始めたのはこのころである。さらに15年,フランスの《ファントマ》やアメリカの《マスター・キー》《名金》などの連続活劇がヒットして,多くの模倣作品を生み出すとともに,尾上松之助映画の絶頂期をもたらした。活劇熱の現れは,演劇と追跡・乱闘シーンの映写とをつないだいわゆる〈連鎖劇〉の流行にもうかがえる。20年代に入って,ダグラス・フェアバンクス主演《奇傑ゾロ》(1920),《三銃士》(1921),《ロビン・フッド》(1922)がさらに決定的に活劇熱をあおり,模倣作品を続出させた。
当時の活劇スターとして,尾上松之助に次いで,島津保次郎監督《堅き握手》(1922)や牛原虚彦監督《狼の群》(1923)などの勝見庸太郎,日本版《奇傑ゾロ》といえる《抜討権八神出鬼没》(1924)などの市川百々之助,同じく《奇傑ゾロ》の模倣作《怪傑鷹》や《争闘》(ともに1924)で〈鳥人〉の異名をとった高木新平がいる。こうして23年から24年ころにかけて,活劇という映画形式は定着した。〈時代映画の中へアメリカ映画式の冒険活劇のアイディアを取り入れた〉(田中純一郎《日本映画発達史》)わけだが,そこから時代劇とも現代劇ともつかぬ無国籍的な〈アクション映画〉が生まれる。高木新平主演の《ロビン・フッドの夢》(1924)など,その過渡的な無国籍チャンバラ映画とみなされよう。さらに,大陸(当時の支那,満州)を背景にした活劇も多くつくられた。《カルメン》を翻案した大久保忠素監督《灼熱の恋》(1924),若山治監督《国境を護る人々》(1926),三枝源次郎監督《シベリアお竜》(1926),上海ロケの村田実監督,浅岡信夫主演《神州男児の意気》(1926)等々である。筈見恒夫(《映画五十年史》)によれば,〈アメリカ西部劇の如き,活劇精神や,フロンティア・スピリットが,われわれの現代劇にも,時を得顔にはびこったのである〉。こうして,殺陣=チャンバラを基本にした時代劇とはひと味違った新しい現代劇としての活劇が映画史を彩ることになる。以下では,現代劇としての活劇を中心に見ていくことにする。
→時代劇映画
戦前の活劇
1920年代から30年代にかけて,活劇は隆盛をきわめ,活劇スターが輩出した。学生スポーツ映画の嚆矢(こうし)《我等の若き日》やオートバイ活劇《青春の歌》(ともに1924)や牛原虚彦監督とのコンビ作《潜水王》(1925),《近代武者修業》,《陸の王者》(ともに1928)などの鈴木伝明,山本嘉次郎監督《爆弾児》(1925)や《鉄拳児》,オートバイ活劇《快走恋を賭して》(ともに1926)などの高田稔,《恋は死よりも強し》(1925),《赤熱の力》(1926),《鉄拳縦横》(1927)などの竹村信夫,田坂具隆監督《阿里山の俠児》(1927),《雲の王座》(1929)や阿部豊監督《覇者の心》(1925),《非常警戒》(1929)や内田吐夢監督《東洋武俠団》(1927)などの浅岡信夫,溝口健二監督の海洋活劇《海国男児》(1926)や田坂具隆監督《鉄腕記者》,《黒鷹丸》,また内田吐夢監督《漕艇王》(ともに1927),《太洋児・出船の港》(1929)などの広瀬恒美である。これらの映画はときに〈猛闘劇〉と呼ばれ,鈴木伝明は学生出身のスポーツ俳優第1号とされ,続く浅岡信夫は陸のスポーツ俳優,広瀬恒美は海のスポーツ俳優と称されて,浅岡信夫はみずから監督もした。ほかに,全26巻の連続活劇《世界の女王》(1925)で馬やオートバイを疾走させ和製パール・ホワイトといわれた冒険女優・高島愛子,《奮闘児》(1926),《鉄血団》(1928),《大学の鉄腕児》(1931)などのスポーツ俳優・東郷久義,《街の旋風児》(1932),《摩天楼の顔役》,《熱血拳闘王》(ともに1933)などで〈昭和の鳥人〉といわれたハヤブサ・ヒデト(隼秀人)がいる。
これらの作品には外国映画を模倣したものが数多く,ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の《暗黒街》(1927),《非常線》(1928),《紐育の波止場》(1929),ジョン・フォード監督の《三悪人》(1925),ハワード・ホークス監督の《暗黒街の顔役》(1930,32)などが大きな影響を与えており,それはさらにギャング映画の流行となって,村田実監督,中野英治主演《摩天楼》(〈争闘篇〉1929,〈愛欲篇〉1930),田坂具隆監督,小杉勇主演《昭和新撰組》(1932),小津安二郎監督,岡譲二主演《非常線の女》(1933)などを生み出した。やがて第2次世界大戦の進展とともに,映画興行も制限され,外国活劇のヒットは見られたものの,日本の活劇は,わずかに黒沢明の柔道映画《姿三四郎》(1943),《続・姿三四郎》(1945)を例外として,戦争活劇が主体になっていった。
戦後の活劇
戦後の活劇の隆盛をもたらしたのは新会社,東映で,前身の東横時代から,占領軍による時代劇規制のもと,時代劇スターが現代劇に出演,片岡千恵蔵の《多羅尾伴内》シリーズ(1947-60)や《にっぽんGメン》(1948),市川右太衛門の《ジルバの鉄》(1950),両者共演の《難船崎の決闘》(1950)などがつくられ,これらの探偵活劇や暗黒街活劇は〈時代劇王国〉東映のもう一つの顔になった。1950年代から60年代にかけて,探偵活劇の流れからは《警視庁物語》シリーズ(1955-64)や《点と線》(1958),《黄色い風土》(1961)などの犯罪・推理ドラマが生まれ,暗黒街活劇の系譜としては,片岡千恵蔵の《奴の拳銃は地獄だぜ》(1958),鶴田浩二主演《花と嵐とギャング》(1961),《誇り高き挑戦》(1962),高倉健主演《恋と太陽とギャング》(1962),《暴力街》《恐喝》(ともに1963)などがつくられ,小林恒夫,石井輝男,深作欣二らの活劇監督が輩出した。そして60年代の後半,やくざ映画が時代劇を衣装替えした活劇として一大ブームとなるとともに,その中で現代活劇としての暴力団抗争劇が量産された。またその間,香港のカンフー(功夫)映画の影響もあって,空手活劇が多くつくられる一方,不良少女たちの闘いを描いた〈女の活劇〉が現れ,その延長線上に梶芽衣子主演《さそり》シリーズ(1972)などが出現した。
→やくざ映画
活劇の隆盛
1950年代から60年代にかけては活劇が隆盛となり,各社で数多くの活劇スターが生まれた。東宝では《暗黒街》シリーズ(1950-60)の三船敏郎と鶴田浩二,青春スポーツ活劇《若大将》シリーズ(1961-71)の加山雄三,《国際秘密警察》シリーズ(1963-66)の三橋達也,《独立愚連隊》シリーズ(1960-63)の佐藤允。大映では《悪名》(1961-69),《兵隊やくざ》(1965-68)両シリーズの勝新太郎,《陸軍中野学校》シリーズ(1966-68)や《ある殺し屋》(1967)の市川雷蔵,《黒の試走車》(1962),《宿無し犬》(1964)の田宮二郎。新東宝では《白線秘密地帯》(1958)の宇津井健,《黄線地帯(イェロー・ライン)》(1960)の吉田輝雄,《女王蜂》シリーズ(1960-61)の三原葉子等々。しかし正真正銘〈活劇王国〉として栄えたのは日活で,1954年の製作再開直後から,水島道太郎,河津清三郎,三国連太郎,三橋達也らを主演に探偵活劇,犯罪活劇,暗黒街活劇がつくられ,やがて,石原裕次郎を中心に小林旭,赤木圭一郎,和田浩治を含めた〈ダイヤモンド・ライン〉なるスター路線で活劇を量産し,いわゆる〈日活アクション〉の全盛期(1950年代末から60年代末まで)を迎え,さらに宍戸錠,二谷英明,高橋英樹,渡哲也といった後続スターを生み出し,やがて60年代末からは藤竜也,梶芽衣子,原田芳雄らを中心に遊戯的青春群像を描く〈日活ニュー・アクション〉の時代に移るが,そうした流れは日活映画(にっかつ)そのものの歴史でもある。
活劇の衰退
1970年代から80年代にかけて日本映画の製作本数は激減し,それとともに活劇も衰退してスクリーンからすっかり姿を消した。かつて1910年代にアメリカの連続活劇《名金》などがブームを呼んだとき,市川左団次は〈活動劇は活劇を生命とする〉と語った(《活動之世界》1916年4月号)。また50年代には花田清輝が,〈悲劇や喜劇を完全にアウフヘーベンしたあげく,はじめてうまれてくるもの〉として活劇をとらえ,〈映画の創造した劇的感覚は,なんといっても活劇感覚以外にはない〉と論じた(《さちゅりこん》)。これらの発言は,明らかに活劇を映画の基本的なあり方としている。活劇とは人間の激しい動きを中心とした映画であるとされるが,その動き=アクションを,たんなる登場人物の闘いだけではなく,すべての活動=アクションと見て,さらに画面や音の動き=アクションにまで見るとき,アクションの映画としての活劇は,まさしく映画の基本的なあり方を示しているといえよう。人物や物など被写体の外面しか映すことができない映画は,それらの対象をつねに動き=アクションにおいて描くのであり,その意味ですべてアクション映画であり活劇であるといってもいい。80年代に蓮実重彦は,〈活劇とは,フィルムの説話論的持続と見るものの映画的な願望とが,たえず凌駕(りようが)しあっているような具体的な運動を生きる映画のことである〉と述べた(《日本映画1981》)。こうした考え方からすれば,日本映画の始まりが活劇とともにあったことはなんら不思議ではなく,一ジャンルとしての活劇が映画産業の推移の中でたとえ衰退しようとも,映画の原点としての活劇は,映画的なるものがなくならないかぎり,さまざまな形で生き続けていくということができる。
執筆者:山根 貞男
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