野山獄跡・岩倉獄跡(読み)のやまごくあと・いわくらごくあと

日本歴史地名大系 「野山獄跡・岩倉獄跡」の解説

野山獄跡・岩倉獄跡
のやまごくあと・いわくらごくあと

[現在地名]萩市大字今古萩町

南北に通る常念寺じようねんじ筋の西に野山獄跡、東に岩倉獄跡がある。近世には両獄の本門はいずれも敷地の南を東西に走る俊光寺しゆんこうじ筋に南面していた(嘉永年間の城下町絵図)

毛利家文庫旧蔵「没収家筋」の正保二年(一六四五)条に、

<資料は省略されています>

とあり、藩士岩倉孫兵衛が酒に酔って西隣の野山六右衛門宅に切り込み家族を殺傷したため藩は両家を没収し、屋敷は藩獄となった。野山獄は上牢として士分の者を、岩倉獄は下牢として庶民を収容した。

吉田松陰は海外渡航に失敗したのち安政元年(一八五四)一〇月野山獄に、その従者金子重輔は岩倉獄に投ぜられた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報