日本歴史地名大系 「萩城下」の解説
萩城下
はぎじようか
- 山口県:萩市
- 萩城下
〔城下の形成〕
安芸国広島を居城としていた毛利輝元は慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦に敗れ、防長二国に封じられたため、この地に新城下を建設した。同九年三角州西北端の
と述べる。この蓮池は大正の初期に疎水開削の土で埋められるまで残っていた。
城は慶長一三年に完成するが「萩古実未定之覚」に「川上よりの流水蛍火山の下より南明寺の麓小松江の方へ行桜江え出る、元和二年今の様に川筋を堀て流るる、山下に川ありては防の時分手前の用に不立、向う用に立故と云あり」「御城山西の方倉江と地続にて御山堅固無之故吉川様御馳走にて堀切被仰付候」と記されるように、城下建設と並行して城地防衛の見地から元和二年(一六一六)古川(橋本川)筋付替えの大工事が行われた。築城後約五〇年の慶安五年(一六五二)の城下町絵図には古川筋の出入口がまだ陸地化しないまま幅広く残るのがみられる。
この橋本川は松本川とともに総郭の役割を果し、城下の大部分はこの両川が作る三角州上に形成されたが、この中にはかなりの百姓屋敷と農地が含まれていた。
町割は道路敷設から始まる。萩城三の丸の中ノ惣門から東に向かい、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報