幕末維新期の長州藩尊攘派(そんじょうは)志士、政治家。藩士柏村安利(かしわむらやすとし)の四男で、同藩士波多野直忠(はたのなおただ)の養子となる。幼名季之進(すえのしん)、のち金吾(きんご)、1865年(慶応1)藩命によって広沢藤右衛門(とうえもん)と改めたが、通称真臣また兵助、号は障岳。兄数馬(かずま)が藩主毛利敬親(もうりたかちか)の世子元徳(もとのり)の側近であったことから世に出る機会を得た。1859年(安政6)の藩政改革に参画したが、1864年(元治1)反対派(俗論党と蔑称(べっしょう))のため一時、萩(はぎ)の野山獄(のやまごく)に投ぜられた。翌1865年、藩勢が一変して、いわゆる正義派が実権をとるや出獄して要路の人となる。1866年(慶応2)、第二次長州征伐の休戦談判が安芸(あき)(広島県)宮島の大願寺で開かれたとき、井上馨(いのうえかおる)らとともに藩の委員となり、幕軍の勝安房(かつあわ)(勝海舟)らと折衝した。のち、討幕運動に加わり、薩摩(さつま)、土佐との連合にも功があった。維新後、参与、民部官副知事、民部大輔(たいふ)、参議と昇進し、木戸孝允(きどたかよし)らとともに藩の版籍奉還を推進したが、1871年(明治4)正月9日、東京麹町(こうじまち)の私邸で暗殺された。犯人は不明。性豪放で時勢をつかみ、信望が深かった。その日記は、新政府の成立過程を知る重要な史料である。
[小林 茂]
『村田峰次郎編『参議広沢真臣卿略伝』(1921・故広沢参議五十年祭祭典委員会)』▽『大塚武松編『広沢真臣日記』(1931・日本史籍協会)』▽『田中彰著『明治維新政治史研究』(1963・青木書店)』▽『『廣澤真臣日記』(2001・マツノ書店)』
(佐々木克)
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幕末・維新期の政治家。長州藩士柏村家の四男に生まれ,波多野氏に入り金吾と称し,のち広沢と改姓,藤右衛門,兵助と称した。尊王攘夷運動に参画し,1864年(元治1)の長州征伐時に投獄されたが,のち政務役として66年(慶応2)の幕長戦争を指導した。明治維新後は参与,民部大輔を経て参議に就き,版籍奉還を推進した。木戸孝允とともに長州閥を代表したが,東京麴町の私邸で刺客に暗殺された。
執筆者:井上 勝生
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1833.12.29~71.1.9
幕末・維新期の萩藩士,新政府の指導者。長門国萩城下に生まれ,波多野家の養子となる。旧姓柏村。のち広沢と改姓。藩の要職を歴任し,尊王攘夷派に接近。禁門の変に敗れて幕府の追討をうけ,恭順派が藩政を握ると投獄された。倒幕派の勢力回復により出獄し,木戸孝允(たかよし)とともに藩政を指導。1867年(慶応3)大久保利通(としみち)らと倒幕を協議し,討幕の密勅をうけた。翌年新政府の参与,ついで民部大輔・参議に任じられた。69年(明治2)木戸・大久保・後藤象二郎らと版籍奉還の実現に尽力。71年東京の私邸で暗殺され,多くの容疑者が捕らえられたが,証拠に乏しく犯人は不明のままとなった。
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[1973~ ]プロ野球選手。愛知の生まれ。本名、鈴木一朗。平成3年(1991)オリックスに入団。平成6年(1994)、当時のプロ野球新記録となる1シーズン210安打を放ち首位打者となる。平成13年(...
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